EP 40

第5話 定役面《コトサダメ》

序節 ― 灰白の封書

 裁きもまた、舞である。

 誰が上座に立ち、誰が下座に控え、誰が名を呼ばれ、誰が沈黙させられるのか。

 その順番ひとつで、人は役を与えられもすれば、舞台から降ろされもする。

 ならば問おう。

 舞台に上がることさえ許されぬ者を、誰が裁けるというのか。

 星見楼の空気は、紙よりも白く冷えていた。

 仮面籍庁の使者が置いていった封書は、長机の上にある。

 灰白の封。
 黒い紐。
 閉じた面箱を象った封蝋。

 それは小さな紙束にすぎない。

 けれど、イロハ=ナギには、その封書が面箱よりも重く見えた。

 白化した神楽面《ユラノスズ》。

 白化した暁刃戦面《アカツキノハ》。

 星読式面《ナナツジノホシ》。

 白影宮の空の面箱と、そこに敷かれていた白絹。

 面師イロハ=ナギの宮中出入り資格。

 そして、サヨ=ミカゲの未登録役名。

 封書に記された対象は、その六つだった。

 ただし、そこに「ユラが何を失ったか」は書かれていない。

 「ハルマサがなぜ刀を抜けなくなったか」も書かれていない。

 「サヨが何を覚えているか」も、「イロハが何を見たか」も、「セイランが何を記録したか」も、そこにはなかった。

 記されていたのは、ただひとつ。

 白化面および不安定役面の再検査について。

 それだけだった。

 イロハは、胸の奥に硬いものが沈むのを感じた。

 これは診断ではない。

 ユラの舞を取り戻すための場ではない。
 ハルマサがもう一度刀を抜くための場でもない。
 サヨの面を作るための相談でもない。

 面の保護ですらない。

 これは、役を持つ資格があるかどうかを裁く場だ。

「白化面および不安定役面、ですか」

 アヤメ=シラハの声は低かった。

 彼女は封書を一度読んだきり、表情を変えていない。だが、その手は腰の刀に近い位置で止まっていた。

 怒っている。

 イロハにはわかった。

 白影宮の近習として。
 サヨを守る者として。
 そして、第2話の夜に自分自身も役を揺らされた者として。

 この封書の言葉が、どれほど冷たいものかを、アヤメは理解している。

 セイラン=ナナツジは、封書の文面をもう一度読み返していた。

 彼の机には、反転文字を封じた報告書がある。

 未在を定めよ。
 定まらぬ役は、封じよ。

 あの二行は、白符の下に隠されていた。

 けれど、隠したからといって消えたわけではない。

 そして今、仮面籍庁の封書は、ほとんど同じ意味を別の言葉で告げていた。

「臨時審査の日時は、本日昼刻」

 セイランが言った。

「早すぎます」

「準備されていたのでしょう」

 アヤメが答える。

「仮面籍庁は、陰陽寮の報告を受けて動いたのではありません。おそらく、すでにこちらを見ていた」

 ヒヨリが、セイランの袖の中で小さく鳴いた。

 紙の擦れるような声だった。

 イロハは、灰白の封書を見つめた。

 月は、白く噛む。

 けれど役所は、灰色の紙で閉じる。

 ユラの舞面は、まだ死んでいない。
 ハルマサの戦面も、まだ呼び戻せる。
 セイランの星読式面にも、青い星点は残っている。
 サヨの面は、失われたのではなく、まだ作られていない。

 それなのに、仮面籍庁はそれらを同じ箱に入れようとしている。

 不安定。

 その一語で。

「行くしかありません」

 アヤメは言った。

 イロハは顔を上げた。

「白影宮へ戻らなくていいんですか」

「サヨ様には、すでに使いを出しました。ですが、おそらく仮面籍庁はサヨ様本人をすぐには呼びません」

「どうしてですか」

「本人を呼べば、皇女を裁く場になります」

 アヤメの目が冷える。

「彼らはまず、面を裁きます。白絹を裁き、空の面箱を裁き、周囲の者を裁ち、最後にサヨ様を“役名保留者”として扱う」

 役名保留者。

 その言葉だけで、イロハの胸が痛くなった。

 サヨは、人だ。

 静かに空の面箱を見つめ、失われた役を覚えている人だ。

 それを、保留者という枠に入れる。

 まだない面を、存在しない役として扱う。

 そんなことを、許していいはずがない。

「私も行きます」

 イロハは言った。

 セイランが顔を上げる。

「あなたは審査対象でもあります」

「だから行きます」

「仮面籍庁は、あなたの《ナギノオモテ》にも触れる可能性があります」

 その名を聞いた瞬間、イロハの手が腰の鍵に触れた。

 《ナギノオモテ》。

 師匠が、自分に与えた面。
 サヨのものに似ていると言われた面。
 まだ開けてはいけないと告げられた面。

 それも、仮面籍庁に見られるかもしれない。

 記録されるかもしれない。

 未認定面として、封じられるかもしれない。

 怖い。

 イロハは、そう思った。

 だが、それ以上に嫌だった。

 自分の面を勝手に定められることが。

「それでも行きます」

 イロハは言った。

「ユラさんの面も、ハルマサさんの面も、サヨ様の白絹も、私が診ました。診た者が、何も言わずに外されるわけにはいきません」

 アヤメがわずかに頷く。

「では、共に」

 セイランはしばらく黙っていた。

 彼は陰陽寮の人間だ。

 仮面籍庁と敵対する立場ではない。
 制度の内側にいる者として、臨時審査に出るならば、慎重でなければならない。

 だが、彼は机の上の報告書を見た。

 反転した文字。
 鏡水に映った白い半面。
 ヒヨリが床に書いた、読む者という言葉。

 やがて、セイランは封書を畳んだ。

「私も出席します」

 アヤメが見る。

「陰陽寮の代表として?」

「形式上は」

「では、本心では」

 セイランは、少しだけ目を伏せた。

「記録者として」

 ヒヨリが袖の中から顔を出し、短く尾を振った。

 その尾の先が、机の上に小さな円を描く。

 満月ではない。
 まだ満ちきらない、未成の円。

 イロハは、それを見て小さく息を吸った。

 未成の役。

 まだない面。

 定められる前に、守らなければならないもの。

 星見楼の高窓の外で、朝の気配が薄く差し始めていた。

 夜は終わる。

 けれど、月の事件が終わるわけではない。

 むしろ、ここから始まるのだ。

 月ではなく、人が役を決めに来る。

 イロハは道具袋を肩にかけた。

 白札も、仮札も、彫刻刀も入っている。

 けれど、今日向かう場所では、それだけでは足りない。

 相手は欠けた面ではない。

 相手は、面を欠けていると決める者たちだ。

 アヤメは白絹を丁寧に包み直した。

 セイランは報告書を二つに分けた。

 ひとつは、陰陽寮へ提出する正式な記録。
 もうひとつは、白影宮へ渡すための写し。

 反転文字の記録は、さらに別の白符に封じられ、彼の懐に収められた。

「行きましょう」

 アヤメが言った。

 三人が星見楼を出るとき、机の上の灰白の封書が、朝の光を受けて鈍く光った。

 その色は、月の白とは違っていた。

 もっと乾いている。
 もっと冷たい。
 もっと人の手に馴染んだ白。

 イロハは振り返らなかった。

 仮面籍庁。

 役を定める場所。

 そこに、まだない役を持つ者たちの名が呼ばれようとしていた。