EP 41

第5話 定役面《コトサダメ》

第一節 ― 仮面籍庁

 仮面籍庁は、天帝宮の東外郭にあった。

 宮そのものの内ではない。
 けれど、民の通りに開かれた役所でもない。

 天帝宮の影が届き、帝都の声が遠のく、その境目に建てられている。

 白影宮が、空白を抱えた静けさの宮なら。
 陰陽寮が、暦と星を読む紙と墨の官庁なら。

 仮面籍庁は、すべてを棚に納める場所だった。

 門は黒漆。
 柱は磨かれた白木。
 軒には灰白の幕が下がり、その中央に閉じた面箱の紋が染め抜かれている。

 美しい建物だった。

 だが、イロハ=ナギはその門を見上げた瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。

 ここは、人が助けを求めて来る場所ではない。

 人が、どの箱に入るべきかを決められる場所だ。

 門前には、仮面籍庁の下役たちが並んでいた。

 灰白の官衣。
 同じ幅の帯。
 同じ高さで結ばれた髪。
 胸には小さな役札。

 誰も怒鳴らない。
 誰も睨まない。
 誰も刃を向けない。

 ただ、定められた位置に立っている。

 それだけで、イロハは足裏が冷たくなるような感覚を覚えた。

「行きます」

 アヤメ=シラハが短く言った。

 彼女は白絹を包んだ箱を抱えている。

 白影宮から持ち出した、サヨ=ミカゲの空の面箱に敷かれていた白絹。

 それを持つ手は、まるで皇女本人を守るように慎重だった。

 セイラン=ナナツジは、陰陽寮の官衣を整え、報告書を懐に収めていた。

 肩にはヒヨリがいる。

 紙狐はいつもより体を小さく見せ、セイランの襟元に半ば隠れていた。

 イロハは、自分の道具袋を握り直した。

 中には仮札がある。
 白札もある。
 彫刻刀もある。

 けれど、この門の前では、それらが急に頼りなく思えた。

 ここでは、面を直す技術だけでは足りない。

 門番が恭しく頭を下げる。

「白影宮近習、アヤメ=シラハ様。陰陽寮、セイラン=ナナツジ様。面師、イロハ=ナギ殿。お待ちしておりました」

 名前は呼ばれた。

 だが、イロハには、それが自分を呼んだ声には聞こえなかった。

 役札を読み上げられたようだった。

 白影宮近習。
 陰陽寮。
 面師。

 人ではなく、所属と資格。

 そうやって、この場所は人を迎える。

 門をくぐると、内側はひどく静かだった。

 足音が、磨かれた床に細く響く。

 廊下の両側には、黒漆の棚が続いていた。棚の中には、木箱、面札、台帳、紐で括られた記録束が整然と収められている。

 生面。

 職面。

 祈面。

 武面。

 官面。

 棚の上には小さな札があり、それぞれの分類名が墨で記されていた。

 イロハは思わず足を止めた。

 生面の棚には、家ごとの面箱が並んでいる。
 職面の棚には、商人、工人、香役、庭番、神楽師、番衆、記録官、面師など、職に属する面札が収められている。
 祈面の棚には、神前に立つための資格が記されている。
 武面の棚には、戦面と護衛面の使用許可。
 官面の棚には、役所に属する者たちの着面資格。

 整っている。

 あまりにも整っている。

 欠けた面も、割れた面も、泣きながら持ち込まれた子どもの生面も、ここにはない。

 面師小路の裏工房には、いつも埃があった。
 木粉が舞い、漆の匂いが染み、欠けた面が不揃いに並び、客は自分の言葉で困りごとを話した。

 けれどここには、困りごとの声がない。

 代わりにあるのは、分類だった。

 人の名より先に、所属家。
 許可された役。
 着面資格。
 祭礼参加資格。
 未更新の有無。
 保留歴。
 停止歴。

 誰がどこに立ってよいか。
 誰が何を名乗ってよいか。
 誰がどの面をつけてよいか。

 それらが、美しく、間違いなく、黒漆の棚に納められている。

 イロハの足元が、少し揺れたような気がした。

 昔のことが、ふいに喉の奥へ戻ってくる。

 名前を呼ばれても、面がない。
 家を聞かれても、答える面がない。
 どこの棚にも入れない。
 どの台帳にも載らない。

 役を持たない子ども。

 制度上、存在が不安定な者。

 かつての自分。

 イロハは、腰の鍵に触れた。

 《ナギノオモテ》。

 師匠が与えてくれた、自分の面。

 あの面がなければ、自分は今も、この棚のどこにも入れなかったのだろうか。

 いや。

 入れないまま、最初からいないものとして扱われたのだろうか。

「イロハ殿」

 アヤメの声で、我に返った。

「顔色が悪いです」

「大丈夫です」

 そう答えた声は、思ったより小さかった。

 アヤメはそれ以上問わなかった。

 ただ、イロハの半歩前に立った。

 その位置取りだけで、少し息がしやすくなる。

 セイランは棚を見ながら、低く言った。

「仮面籍庁の記録は、陰陽寮の暦記録より古いものもあります」

「そんなに古いんですか」

「はい。人がどの役に属するかを記す制度は、王朝の基礎ですから」

 イロハは棚を見た。

 王朝の基礎。

 それはたしかに強い言葉だった。

 けれど、基礎とは、人が立つためのものではないのか。

 人を押さえつけるためのものなのか。

 廊下を進むうち、棚の種類が変わった。

 前方の区画には、白札と黒札が並んでいた。

 白札には「保留」。
 黒札には「停止」。
 黒縁の白札には「封役」。
 灰札には「再審」。

 イロハは思わず立ち止まる。

 札の一枚一枚に、誰かの役が記されていた。

 奉納舞参加保留。
 市役職面更新停止。
 武面使用一時差止。
 祈面資格再審。
 家面継承保留。

 その札の向こうに、顔が見えた気がした。

 舞台に立てなくなった誰か。
 店を継げなくなった誰か。
 神前に出られなくなった誰か。
 家に戻れなくなった誰か。

 でも、ここには泣き声がない。

 札だけがある。

「ここでは」

 イロハは呟いた。

「人じゃなくて、役が並んでいるんですね」

 案内の下役が、振り返った。

 表情は変わらない。

「人を正しく扱うために、役を記録しております」

「正しく」

「はい」

 下役は丁寧に答えた。

「正しく記録されぬ役は、本人にも周囲にも混乱を生じさせます。仮面籍庁は、その混乱を防ぐための役所です」

 言葉は正しい。

 だからこそ、息苦しかった。

 イロハは、何も言い返せなかった。

 やがて一行は、臨時審査所へ通された。

 広い部屋だった。

 中央に低い卓。
 その奥に上座。
 左右に控えの座。
 壁際には面札棚。
 正面の奥には、白い布で覆われた面箱がひとつ置かれている。

 座る位置は、すでに決められていた。

 上座は空いている。

 その正面に、審査対象の面を置くための台。

 左手には、白影宮関係者の座。
 アヤメの名札がある。

 右手には、陰陽寮記録者の座。
 セイランの名札がある。

 少し下がった場所に、面師の座。

 そこに、イロハ=ナギと書かれた札が置かれていた。

 その位置を見ただけで、イロハはこの場の形を理解した。

 アヤメは白影宮の使者。
 セイランは陰陽寮の記録者。

 イロハは、面を診た職人。

 つまり、発言は許されるかもしれない。
 だが、決める側ではない。

 座順が、すでにそう告げている。

 怒鳴られるより、ずっと苦しかった。

 アヤメが名札を一瞥し、ほんの少し眉を動かした。

「イロハ殿をその位置に?」

 下役は丁寧に頭を下げる。

「面師資格に基づく席次です」

「白影宮の依頼を受けている方です」

「承知しております。ですが、宮中面師ではございませんので」

 アヤメの目が冷える。

「……なるほど」

 その一言だけで、部屋の温度が下がったように感じた。

 セイランは何も言わず、自分の座へ向かった。

 ただし、座る前にイロハを見た。

「記録します」

 短い言葉だった。

 けれど、その意味はわかった。

 この座順も。
 この扱いも。
 この場の空気も。

 彼は記録するつもりなのだ。

 イロハは小さく頷いた。

 自分の座へ進む。

 そこに座った瞬間、背中に棚の気配を感じた。

 黒漆の棚。
 白札と黒札。
 保留、停止、封役、再審。

 この部屋では、沈黙さえも役を持っている。

 誰が話すべきか。
 誰が黙るべきか。
 誰の言葉が記録されるか。
 誰の言葉が「感想」として退けられるか。

 すべて、見えない面によって決められている。

 イロハは、膝の上で手を握った。

 面は、顔を隠すものではない。

 この国では、面こそが顔である。

 ならば、ここは顔を与える場所なのか。

 それとも、顔を取り上げる場所なのか。

 しばらくして、部屋の奥の襖が開いた。

 灰白の官衣を着た役人たちが、静かに入ってくる。

 最後に現れた男を見た瞬間、室内の空気が整った。

 整いすぎて、息が止まりそうになる。

 黒に銀糸の混じる髪。
 白金と墨黒の宮廷装束。
 手には黒檀の扇。
 穏やかな目元。
 だが、その視線は人の顔ではなく、置かれた札と座順を見ている。

 アリノリ=シジョウ。

 典役卿。

 仮面籍庁において、役を定める者。

 彼は上座へ進み、静かに腰を下ろした。

 誰も命じられていないのに、部屋の者たちが一斉に頭を下げる。

 イロハも遅れて頭を下げた。

 その瞬間、彼女は思った。

 この人は、声を荒げない。

 怒鳴らない。

 刃も向けない。

 それでも、きっと人を舞台から降ろせる。

 アリノリは、穏やかに微笑んだ。

「皆様、遠路ご足労いただき、感謝いたします」

 声は柔らかかった。

 けれど、その柔らかさの奥に、閉じた面箱の音がした。

「これより、白化面および不安定役面に関する臨時審査を始めます」

 イロハは、膝の上の手に力を込めた。

 仮面籍庁という場所そのものが、すでに審査を始めている。

 棚が。
 札が。
 座順が。
 沈黙が。

 人の顔を見る前に、その人がどの役に属するのかを問うている。

 そして今日、その問いはサヨの空白にまで届こうとしていた。