EP 42

第5話 定役面《コトサダメ》

第二節 ― 典役卿アリノリ=シジョウ

 アリノリ=シジョウは、上座に座ってからもしばらく何も言わなかった。

 ただ、黒檀の扇を膝の上に置き、卓上に並べられた札を見ている。

 イロハ=ナギ。
 アヤメ=シラハ。
 セイラン=ナナツジ。

 それから、まだ置かれていない面のための空白。

 ユラの神楽面。
 ハルマサの戦面。
 星読式面。
 白影宮の白絹。

 人より先に、対象がある。

 その視線だけで、イロハにはわかった。

 この人は、まず顔を見ない。

 誰が泣いたか。
 誰が震えたか。
 誰が失った役を取り戻そうとしているか。

 そういうものを見る前に、その人がどの役札の下に置かれるべきかを見る。

 アリノリは、四十代後半から五十代前半ほどに見えた。

 黒い髪には銀糸が混じっている。だが、それは老いというより、墨に銀粉を落としたような整った色だった。髪は一筋の乱れもなく結われ、冠紐も衣の合わせも、定められた寸法どおりに収まっている。

 白金と墨黒の宮廷装束は、美しかった。

 派手ではない。
 威圧的でもない。

 けれど、その美しさは人を招くためのものではなかった。

 距離を測るための美しさだった。

 近づきすぎてはならない。
 乱れてはならない。
 呼吸の幅さえ、定められている。

 そんな装束だった。

 彼の手元にある黒檀の扇には、細い金線で面箱の紋が描かれていた。閉じた箱。開かない箱。中に何があるのかを問う前に、まず封を確かめる紋。

 アリノリは、ゆっくりと扇を取った。

 開かない。

 閉じたまま、卓上にそっと置く。

 その動作だけで、場のざわめきが消えた。

「面師イロハ」

 低く柔らかい声だった。

 イロハは顔を上げる。

 アリノリの目は、こちらを見ているようで、見ていない。

 イロハの顔ではなく、座の位置と、前に置かれた名札を見ていた。

「白影宮のアヤメ殿」

 アヤメは静かに頭を下げた。

「陰陽寮のセイラン殿」

 セイランも礼を返す。

「お越しいただき、感謝いたします」

 言葉は丁寧だった。

 非の打ちどころがない。

 相手を侮らない。
 怒鳴らない。
 急かさない。
 礼を欠かない。

 だからこそ、怖かった。

 イロハは、面師小路で怒鳴る客なら何度も見たことがある。
 欠けた職面を持ってきて、今日中に直せと無理を言う者。
 子どもの生面が割れたと泣きついてくる親。
 祈面の修理代に文句を言う寺社の使い。

 そういう人たちは怖くない。

 怒りにも、焦りにも、困っている理由があるからだ。

 けれど、アリノリには焦りがない。

 怒りもない。

 すでに形が整っている。

 この場に誰を呼び、どこに座らせ、何を対象とし、どの順番で審査するか。

 すべて決まっている。

 イロハは、すぐに感じた。

 この人は、自分たちを責めに来たのではない。

 もっと悪い。

 もう裁くための形を整えている。

 アリノリは、卓上に置かれた灰白の書面を一枚めくった。

「本日は、異常面の救済ではなく、役名の安定性を確認します」

 その一言が、部屋に落ちた。

 イロハの胸が、かっと熱くなる。

「救済では、ないんですか」

 思わず声が出た。

 アヤメがわずかにこちらを見たが、止めなかった。

 アリノリは、ゆっくりイロハへ視線を移した。

 初めて、顔を見た。

 けれど、その目はまだ穏やかだった。

「面師イロハ。救済を否定しているわけではありません」

「でも、今そう言いました」

「はい。救済と、役名の安定確認は別の手続きです」

 別の手続き。

 その言葉が、イロハの中で硬く鳴った。

「ユラさんは、神楽師の役を喰われました。ハルマサさんも、戦う入口を喰われたんです。サヨ様の面は、まだ作られていないだけで――」

「そのすべてを、個々の事情として把握することは可能です」

 アリノリは遮らなかった。

 遮らないまま、言葉の場所をずらした。

「しかし、王朝の役名制度において問うべきは、その面が現在、公的な役を担えるかどうかです」

「公的な役を担えるかどうか……?」

「はい」

 アリノリは静かに頷いた。

「舞えるか。守れるか。読めるか。儀礼に立てるか。宮中に出入りできるか。皇族として定められた役名を持つか」

 ひとつずつ。

 淡々と。

 人を切るのではなく、紙を裁つように言葉が置かれる。

「それらを確認するのが、本日の審査です」

 イロハは膝の上で手を握った。

「でも、白化面は壊れたわけじゃありません。持ち主が悪いわけでもない。月に――」

「原因は問います」

 アリノリは言った。

「ですが、原因が何であれ、現に役が不安定であるならば、王朝はそれを放置できません」

「放置じゃありません。直すんです」

「誰が」

 静かな問いだった。

 イロハは一瞬、言葉に詰まった。

「私が」

「あなたは中級面師ですね」

「はい」

「町面師としての資格は確認しております。職面、生面、軽度の祈面修復。いずれも一定の技能を持つことも報告されています」

 イロハは、褒められているのではないとすぐにわかった。

 それは評価ではない。

 分類だ。

「ですが、皇族面、官面上位、武面封役、祈面祭礼資格の再認定は、中級面師の権限外です」

 アヤメが口を開いた。

「イロハ殿は、白影宮の依頼を受けています」

「承知しています」

 アリノリは、少しも揺れない。

「白影宮が依頼したからこそ、資格と権限の確認が必要です」

 アヤメの目が細くなる。

「資格がなければ、喰われた役を診ることも許さないと?」

「許す、許さないの問題ではありません」

 アリノリの声は、なお柔らかかった。

「役に関わる行為は、その行為自体が新たな役の干渉になります。無資格、または権限外の者が皇族面に触れれば、後に面の正統性が問われる」

「正統性」

「はい」

 アリノリは、初めて黒檀の扇を開いた。

 扇面には、細かい文字でいくつもの役名が書かれていた。

「正しく作られ、正しく登録され、正しく着けられ、正しく扱われる。それによって、面は王朝の中で顔となります」

 イロハは、その扇面を見た。

 正しく。

 正しく。

 正しく。

 その言葉が、幾重にも重なって息を塞ぐ。

 面は、人を救うものだ。

 イロハはそう思ってきた。

 欠けた面を直す。
 役を失いかけた者へ仮札を置く。
 生面を失った子どもに、もう一度立つ場所を与える。

 けれど、アリノリにとって面は違う。

 面は、王朝の秩序に人を正しく置くためのもの。

 その場所がなければ、存在は不安定になる。
 だから、定める。
 定まらなければ、保留する。
 乱れれば、封じる。

 どちらも、面を大切にしている。

 だからこそ、ぶつかる。

「正しくない面は、顔ではないんですか」

 イロハは尋ねた。

 室内の空気が、わずかに揺れた。

 下役たちが目を伏せる。

 セイランの筆が止まる。

 アヤメは何も言わない。

 アリノリは、少しだけ目を細めた。

「正しくない面は、持ち主を傷つけます」

 意外な答えだった。

 イロハは黙る。

 アリノリは続けた。

「役に適さぬ面をつければ、人は自分の立つ場所を誤る。許されぬ役を名乗れば、周囲を惑わせる。登録なき面を顔として扱えば、本人がどこへ属するのか、誰にも守れなくなる」

 その言葉は、冷たい。

 けれど、完全な嘘ではなかった。

 面のない者がどれほど不安定かを、イロハは知っている。

 自分自身が、そうだったからだ。

 だから一瞬、言い返せなくなる。

 アリノリは、その沈黙を責めなかった。

 ただ、静かに畳みかける。

「王朝は、人を縛るためだけに役を定めるのではありません。人を守るために定めます」

「でも」

 イロハは、喉の奥から声を出した。

「定められない人は、どうなるんですか」

 アリノリは沈黙した。

 ほんの短い沈黙。

 だが、その沈黙が答えだった。

「定められるまで、保留します」

「それは、守ることですか」

「乱れの中へ置くよりは」

「その間、その人は何者として生きるんですか」

 イロハの声が、少し震えた。

 サヨの言葉を思い出していた。

 では、わたしは役名が定まるまで、何者として息をすればよいのでしょう。

 まだ聞いていないはずのその問いが、もう胸の中にあった。

 アリノリは、イロハをじっと見た。

 今度は、役札ではなく顔を見ていた。

「面師イロハ」

「はい」

「あなたは、役なき者にも面を与えたいのですね」

 部屋の奥が静まり返った。

 イロハの指が、腰の鍵へ触れそうになる。

 《ナギノオモテ》。

 その存在を、アリノリはどこまで知っているのか。

 アヤメの気配が鋭くなる。

 セイランの筆が、紙の上で止まっている。

 アリノリは、表情を変えない。

「お気持ちは理解します」

「気持ちの話じゃありません」

「では、思想の話ですか」

 静かな問いだった。

 イロハは、息を詰めた。

 思想。

 そんな大きな言葉で考えたことはなかった。

 ただ、目の前で困っている人がいた。
 面が欠けていた。
 役を喰われていた。
 立つ場所がなかった。

 だから、直したかった。

 仮でもいいから、置きたかった。

「私は」

 イロハは、言葉を探した。

「面師です」

「はい」

「面が欠けていたら、直します。役が薄くなっていたら、つなぎます。まだ面がないなら、作れるか考えます」

 アリノリの目が、わずかに動いた。

「まだ面がないなら」

「はい」

「それが、王朝に存在しない役であっても?」

 イロハは、はっきり答えた。

「その人が、そこに立つために必要なら」

 部屋の空気が、さらに重くなる。

 その答えが、この場所では危ういものなのだと、イロハにもわかった。

 けれど、引っ込めるつもりはなかった。

 アリノリは、静かに扇を閉じた。

「なるほど」

 その声には怒りがなかった。

 侮りもなかった。

 ただ、何かを台帳の一項目に書き加えたような響きがあった。

「面師イロハ。あなたの見立てと姿勢は、後ほど確認させていただきます」

 イロハの背筋が冷えた。

 確認。

 その言葉は、尋問よりもずっと怖かった。

 アリノリは視線をアヤメへ移す。

「白影宮のアヤメ殿。白影宮より持参された物品は」

「こちらに」

 アヤメは、白絹の入った箱を示した。

「確認いたします」

 次にセイランへ。

「陰陽寮のセイラン殿。報告書は」

「正式報告と、観測別記を用意しております」

「結構」

 アリノリは頷いた。

「ただし、読めぬ記録は正式記録として扱えない場合があります」

 セイランの表情がわずかに硬くなる。

「読めないからこそ、記録が必要です」

「記録とは、読まれるためにあります」

 穏やかな声。

 だが、そこにも刃があった。

 セイランは黙った。

 ヒヨリが袖口から少しだけ顔を出し、セイランの手首に紙の鼻先を寄せる。

 アリノリの視線は、その紙狐にも一瞬だけ向いた。

 しかし、何も言わない。

 ただ、閉じた扇を卓上に置き、部屋全体へ向き直った。

「それでは、審査を始めましょう」

 その合図で、下役たちが動き出す。

 白い布のかけられた台が中央へ運ばれる。
 黒漆の小箱が並べられる。
 白札、黒札、黒縁の白札、灰札が揃えられる。

 イロハは、それを見て喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 面を直す時、最初に用意するのは柔らかい布だ。
 欠けた部分を受ける箱だ。
 持ち主の話を聞く椅子だ。

 けれどここで用意されるのは、札だった。

 保留するための白札。
 停止するための黒札。
 封役するための黒縁の白札。
 再審するための灰札。

 救うための道具ではない。

 定めるための道具。

 アリノリは、最後にこう告げた。

「本日の審査は、個人の善悪を問うものではありません」

 それは、とても正しい言葉に聞こえた。

「王朝において、その役が安定して存在し得るかを確認するものです」

 イロハは、その言葉を聞きながら思った。

 この人は、自分が悪いことをしているとは思っていない。

 むしろ、守っていると思っている。

 王朝を。
 役を。
 面の正しさを。

 だからこそ、きっと強い。

 そして、きっと怖い。

 月は白く噛む。

 けれどアリノリ=シジョウは、正しさで封じる。

 そのことを、イロハはこの時、はっきりと知った。