EP 43

第5話 定役面《コトサダメ》

第三節 ― 定役面《コトサダメ》

 白い布をかけられた面箱が、上座の前へ運ばれた。

 それは、他の面箱とは違っていた。

 黒漆ではない。

 白漆だった。

 光を受けると、月のように白く浮かぶ。だが、白影宮の空の面箱とは違う。あちらの白さには、まだ何かを待つ余白があった。

 この箱の白さは、違う。

 すでにすべてを拭い終えたような白だった。

 余白ではない。
 消去の白。

 イロハは、その箱を見た瞬間、指先が冷えた。

 月の冷たさではない。

 役所の棚に長く置かれていた紙の冷たさだった。

 アリノリ=シジョウは、黒檀の扇を膝の上に置き、面箱の前へ手を伸ばした。

 下役が深く頭を下げる。

「定役面、開箱いたします」

 部屋の者たちが、自然と姿勢を正した。

 誰も命じられていない。

 けれど、そうしなければならないような空気があった。

 アリノリの指が、箱の留め具に触れる。

 かちり。

 乾いた音がした。

 その瞬間、イロハは胸の奥を押さえられたような感覚を覚えた。

 箱が開く。

 中に納められていたのは、白漆の半面だった。

 定役面《コトサダメ》。

 それは、恐ろしい面には見えなかった。

 鬼面ではない。
 呪面でもない。
 牙も、角も、怒りもない。

 むしろ、穏やかだった。

 白漆の表は、滑らかで、曇りひとつない。
 目元は細く、静かに閉じかけているように見える。
 額の中央には、小さな朱印。
 右頬には、金の矩形線。
 左目の下には、一本だけ黒い細線が引かれている。

 無駄がない。

 美しい。

 だが、その美しさには息の通う場所がなかった。

 人の表情を受け止める余地がない。
 泣くことも、笑うことも、迷うことも許さない。

 ただ、整っている。

 あまりにも整いすぎている。

 イロハは、その面を見て、面師としての感覚がざわつくのを覚えた。

 面は、本来、人の息を受けて少しずつ変わる。

 つける者の湿り気、声、癖、迷い、決意。
 それらが内側に積もって、面はその人の顔になっていく。

 けれど、この面にはそれがない。

 どれほど多くの者を裁いてきたとしても、この面は誰の息にも染まっていない。

 染まることを拒む面。

 そう見えた。

 アリノリは《コトサダメ》を両手で持ち上げた。

 その動作は、儀式そのものだった。

 面を顔に当てる前に、彼は一度だけ部屋を見渡す。

「本面は、仮面籍庁における定役審査の官面です」

 声は低く柔らかい。

「既存役への該当、役名登録の真偽、着面資格の安定性、祭礼および宮中儀礼への参加資格を確認します」

 言葉が、ひとつずつ卓の上に置かれていく。

「必要に応じ、面の公的使用を保留し、儀礼上の立場を一時停止し、無許可面または不認定面を封じます」

 イロハは唇を噛んだ。

 保留。

 停止。

 封じる。

 その三つの言葉が、白札と黒札の色をまとって見えた。

 アリノリは、面を顔へ当てた。

 白漆の半面が、彼の顔の上に重なる。

 片側だけを覆う面。

 けれど、つけた瞬間、部屋の空気が変わった。

 静かだった場所が、さらに静かになる。

 棚に並ぶ面札が、いっせいにこちらを向いたような気がした。

 誰も身動きしない。

 アリノリの姿は、先ほどと変わらないはずだった。

 半面をつけただけ。

 それだけなのに、彼の声が、王朝そのものの奥から聞こえてくるようになる。

「審査を始めます」

 その一言に、儀礼上の重みが宿った。

 イロハは、膝の上の手を強く握った。

 もしこの人が、今ここで「その役は認められない」と言えば。

 周囲の者は、きっと無意識にその人物を疑い始める。

 本当に神楽師なのか。
 本当に番衆なのか。
 本当に皇女なのか。
 本当に面師なのか。

 言葉が、人の足元を崩す。

 それが《コトサダメ》の力なのだと、イロハは理解した。

 アリノリが軽く手を上げると、下役が一枚の面札を持ってきた。

 見本用の札らしい。

 そこには、帝都南市の香具師の職面登録が記されていた。

 アリノリは《コトサダメ》をつけたまま、その札を見た。

「南市、香具師職面。登録番号、南職二七四。継承元、カヤノ家。着面資格、有効」

 すると、札の端に細い白い線が浮かんだ。

 否定の白ではない。

 確認の白。

 役が台帳と一致した印だった。

 下役が静かに説明する。

「既存役に該当する場合、白線が現れます」

 次に、別の札が置かれた。

 こちらは灰色の札だった。

 アリノリがそれを見る。

「祈面登録、未更新。祭礼参加歴、三年空白。現使用者と登録者の年齢不一致」

 白漆の面の目元が、少しだけ冷えたように見えた。

 札の上に、灰色の光が浮かぶ。

「再審」

 アリノリが告げる。

 下役が灰札を重ねた。

 次に、小さな職面が台に置かれた。

 古い面だった。

 どこかの市で使われたものか、頬に擦れがあり、内側に長く使われた息の跡がある。

 イロハは、思わずそちらに目を向けた。

 いい面だ。

 古いが、手入れされている。
 持ち主が大事にしてきた面だ。

 だが、アリノリは表情を変えなかった。

「台帳不一致」

 白漆の面の声が落ちる。

「使用者名と職面名が異なります。仮名使用の疑い。公的使用、保留」

 白札が置かれた。

 それだけで、面の空気が変わった。

 さっきまで人の手の温もりを持っていた古面が、急に黙り込んだように見えた。

 イロハは、胸が痛くなる。

 あの面が悪いわけではない。

 持ち主が大事にしていたことも、面を見ればわかる。

 けれど台帳と合わなければ、保留される。

 面はその瞬間、顔ではなくなる。

 登録確認待ちの物品になる。

 アリノリは、最後にもう一枚の札を見た。

 黒い縁のある白札だった。

「武面使用記録に不安定あり。役遂行不能の報告あり。封役相当」

 下役が、黒縁の白札を台に置く。

 部屋の空気がさらに重くなった。

 イロハは、それが見本であるとわかっていても、ハルマサの《アカツキノハ》を思い出さずにはいられなかった。

 刀を抜けなかった若い武士。

 けれど、最後には自分の言葉で刀を抜いた。

 ここから先へ、月を通さない。

 あの一言を、この面は読めるのだろうか。

 《コトサダメ》は、彼のその一度を認めるのだろうか。

 それとも、常に抜ける保証がないという理由で、封じるのだろうか。

 イロハは、思わず口を開いた。

「その面は」

 アリノリが、こちらを見る。

 白漆の半面の奥から、人の目ではなく、役所の目がこちらを見た気がした。

「何でしょう」

「その面は、持ち主の気持ちも読みますか」

 室内が、わずかに静まった。

 アリノリは、穏やかに答える。

「気持ちは、審査対象ではありません」

 イロハの胸が詰まる。

「でも、役には気持ちが要ります」

「役に必要なのは、遂行の安定です」

「違います」

 イロハは思わず言った。

 アヤメがわずかに動く。

 セイランの筆が止まる。

 アリノリは怒らなかった。

「違う、と」

「はい」

 イロハは、膝の上の手を握ったまま続けた。

「ユラさんの舞も、ハルマサさんの刀も、技術だけじゃ戻りませんでした。何のために舞うのか。何のために刀を抜くのか。それを思い出した時だけ、役が少し戻ったんです」

 アリノリは、静かに聞いていた。

 白漆の半面は、何の表情も浮かべない。

「面師イロハ。あなたの言葉は、修復現場の感覚として記録に値します」

「感覚じゃありません」

「ですが、仮面籍庁の審査では、公的安定性を見ます」

 また、その言葉だった。

 公的。

 安定。

 イロハの言葉は、その二つの前でいつも細くなる。

 アリノリは、下役へ合図した。

 見本の面札と札が片づけられていく。

「《コトサダメ》は、人の心を裁く面ではありません」

 彼は言った。

「王朝に存在する役を確認する面です」

 その言葉に、イロハは嫌なものを感じた。

 王朝に存在する役。

 なら、王朝にまだ存在しない役は。

 サヨの役は。

 《コトサダメ》には読めないのではないか。

 読めないものを、存在しないものとして扱うのではないか。

 イロハは、アヤメの抱えた箱を見た。

 白影宮の白絹。

 その奥にいるサヨの空白。

 まだ作られていない面。

 まだこの国にない役。

 アリノリは、イロハの視線に気づいていたのかもしれない。

 けれど、何も言わなかった。

 ただ、白漆の半面をつけたまま、次の台を示す。

「それでは、実際の審査に移ります」

 下役たちが、慎重にひとつの面箱を運んできた。

 神楽師ユラ=シラビョウの鈴祈舞面《ユラノスズ》。

 白化した舞面。

 かつて、イロハが一度だけ舞を仮置きした面。

 面箱が台に置かれる。

 イロハの胸が、静かに締めつけられた。

 《コトサダメ》の力はわかった。

 既存の役を照合し、台帳と照らし、白札で保留し、黒札で停止し、黒縁の白札で封役する。

 強い面だ。

 制度そのものを顔にしたような面だ。

 だが、その強さが、救いになるとは限らない。

 アリノリ=シジョウは、白漆の半面の奥で静かに告げた。

「第一対象。鈴祈舞面《ユラノスズ》」

 その声に、部屋の棚がすべて耳を澄ませたように思えた。