EP 44

第5話 定役面《コトサダメ》

第四節 ― 鈴祈舞面《ユラノスズ》、使用停止

 鈴祈舞面《ユラノスズ》の面箱が、審査台の中央へ置かれた。

 黒漆の箱ではない。

 神楽師が使う面箱らしく、朱の紐がかけられ、蓋の端には小さな鈴紋が描かれている。長く使われてきた箱なのだろう。角には擦れがあり、漆の艶もところどころ薄れていた。

 けれど、それは粗末という意味ではなかった。

 何度も舞台へ運ばれ、何度も神前へ置かれ、何度も持ち主の手で開かれてきた箱。

 イロハには、それがわかる。

 面箱にも、息がある。

 大切に扱われた面箱は、蓋を開ける前から持ち主の役を覚えている。

 だが、仮面籍庁の審査台の上に置かれた瞬間、その面箱は急に小さく見えた。

 朱の紐も、鈴紋も、過去の舞台の気配も、この場ではただの対象物になる。

 下役が箱の前に札を置いた。

 鈴祈舞面《ユラノスズ》。
 所有者、ユラ=シラビョウ。
 役名、神楽師見習い。
 祭礼参加資格、仮承認。
 異常記録、白化。

 その文字を見た瞬間、イロハは胸が痛んだ。

 そこには、ユラがどれほど震えていたかは書かれていない。

 舞を忘れたのではなく、舞へ入る一節だけを奪われたことも。
 白い面の奥に、消えかけた袖の軌跡が戻った瞬間の美しさも。
 鈴の音が、一度だけ確かに神を迎えたことも。

 何も書かれていない。

 ただ、白化。

 その一語だけだった。

 襖が静かに開き、ユラ=シラビョウが入ってきた。

 白拍の家に連なる少女らしく、淡い水干姿に細い鈴紐を結んでいる。顔色は悪いが、背筋は伸びていた。

 彼女は泣いていなかった。

 泣くことを、ここでは許されていないと知っているようだった。

 ユラは上座へ深く礼をし、それからイロハを見た。

 一瞬だけ、目が合う。

 助けを求めているのではない。

 ただ、覚えていてほしいと言っているような目だった。

 自分は逃げたのではない。
 舞を捨てたのではない。
 あの一節は、確かにあった。

 イロハは小さく頷いた。

 ユラの指が、袖の中で鈴を握る。

 かすかな音がした。

 ちり、と。

 その音は、すぐに審査所の沈黙へ吸い込まれた。

 アリノリ=シジョウは、定役面《コトサダメ》をつけたままユラを見た。

 白漆の半面は、少女の怯えを映さない。

 ただ、役を問う。

「ユラ=シラビョウ」

「はい」

「あなたは、神楽師ですか」

 ユラの喉が小さく動いた。

「はい」

 声は細い。

 けれど、確かだった。

「では、神を迎える沈黙を舞えますか」

 その問いが落ちた瞬間、ユラの指が鈴を強く握った。

 イロハは思わず身を乗り出しそうになる。

 その問いは、あまりにも正確だった。

 ユラが失ったものを、アリノリは理解している。

 舞の型ではない。
 足運びではない。
 鈴の振り方でもない。

 神を迎える沈黙。

 舞台へ入る前に、息を止め、音を閉じ、神のために空白を作る一節。

 それだけが、抜け落ちている。

 ユラは答えられなかった。

 答えようとして、唇を開く。

 だが、声が出ない。

 彼女の中に技術は残っている。

 鈴も持てる。
 袖も動かせる。
 足も床を打てる。
 身体は、舞を覚えている。

 けれど、その入口がない。

 神を迎える沈黙だけが、白く欠けている。

 アリノリは責めなかった。

 声を荒げない。

 嘲らない。

 ただ、穏やかに言う。

「ならば、現在のあなたは神楽師として不安定です」

 ユラの顔が、少しだけ白くなった。

 イロハは耐えきれず、声を上げた。

「違います」

 室内の視線が、いっせいにイロハへ向く。

 アリノリだけは、すでにそれを予想していたかのように静かだった。

「何が違うのでしょう、面師イロハ」

「ユラさんは舞を忘れたわけじゃありません。喰われたんです」

「喰われた」

「はい。面の内側に月痕がありました。神を迎える沈黙だけが、白く噛み取られていたんです」

「その診断は、先ほどの資料にも記されています」

「なら」

「ですが、理由は問いません」

 イロハの言葉が止まった。

 アリノリは続ける。

「祭礼に立てるかどうかを問うています」

 静かな声。

 けれど、その一言は鋭かった。

 ユラが喰われたのか。
 怯えたのか。
 事故だったのか。
 怪異だったのか。

 仮面籍庁にとって、それは二番目の問題なのだ。

 最初に問われるのは、役を遂行できるかどうか。

 祭礼に立てるかどうか。

 イロハは拳を握る。

「でも、あの子は一度、舞えました。私が仮置きした時、鈴も鳴りました。袖も戻りました」

「一時的な回復ですね」

「一時的でも、戻ったんです」

「常時の祭礼参加資格を認める根拠にはなりません」

「根拠……」

 イロハは、その言葉が嫌だった。

 あの時の舞を、根拠と呼ばれることが。

 白い面の奥に戻った袖の軌跡。
 床を打った足。
 ちりん、と鳴った鈴。
 ユラの目に戻った光。

 それは、根拠ではない。

 生きている役だった。

 だが、この場ではそれを証明できない。

 アリノリは、審査台へ視線を落とした。

「鈴祈舞面《ユラノスズ》を開箱してください」

 下役が面箱の朱紐を解く。

 蓋が開かれた。

 中の舞面が現れる。

 元は淡い朱と白で彩られた、若い神楽師のための面だった。口元はわずかに開き、舞い始めの息を含んでいる。目元には、緊張と祈りが同居する柔らかな線があった。

 だが今、その右頬から口元にかけて、白い月痕が走っている。

 噛み跡。

 第1話で見た時より、少し濃くなっているようにイロハには見えた。

 ユラが息を呑む。

 自分の面が審査台に置かれる。

 それは、自分の顔を他人の前で裁かれることに近い。

 アリノリは《コトサダメ》の奥から面を見た。

 その瞬間、鈴祈舞面の上に細い白線が浮かぶ。

 確認の白ではない。

 揺らぎの白。

 白札の色に近かった。

 下役が台帳を読み上げる。

「鈴祈舞面《ユラノスズ》。白拍家分家、シラビョウ家預かり。神楽師見習い用祈面。奉納舞補助資格あり。正式神楽師資格、未到達」

 未到達。

 その言葉で、ユラの肩がわずかに揺れた。

 アリノリが問う。

「ユラ=シラビョウ。あなたは現在、神を迎える沈黙を舞えますか」

 二度目の問い。

 ユラは、今度こそ答えようとした。

 鈴を握る指が震える。

「……舞いたいです」

 それは、問いへの答えではなかった。

 けれど、ユラにとっては精一杯の答えだった。

「舞いたいです。わたしは、逃げたのではありません。忘れようとしたのでもありません。あの一節だけが、どうしても……」

 声が詰まる。

 イロハは、胸が締めつけられた。

 ユラは自分が何を失ったのかを知っている。

 けれど、その失ったものを完全には言えない。

 役を喰われた者は、自分が何を失ったのかさえ、正しく証明できない。

 アリノリは、静かに聞いていた。

 そして、穏やかに言った。

「舞いたいことは、理解しました」

 ユラの目がわずかに上がる。

「ですが、舞いたいことと、祭礼に立てることは別です」

 鈴の音が止まった。

 ユラの手の中で、鈴は握り込まれたまま沈黙する。

 アリノリは、白札を取った。

 薄い白木の札。

 そこには、まだ何も書かれていない。

 彼が筆を取ると、《コトサダメ》の額の朱印がわずかに光った。

 札に文字が浮かぶ。

 使用停止。
 祭礼参加保留。

 イロハは立ち上がりかけた。

「待ってください」

 アヤメが鋭くこちらを見る。

 止める視線ではない。

 立ち上がるなら覚悟しろ、という視線だった。

 イロハは、そのまま立った。

「ユラさんから舞台を取らないでください」

 アリノリは、筆を止めない。

「舞台を取るのではありません。祭礼に立つ資格を、安定回復まで保留するのです」

「同じです」

「違います」

「ユラさんにとっては同じです」

 イロハの声が震えた。

「月は、舞に入る入口を喰いました。でも、今あなたがしているのは、舞台そのものを閉じることです」

 室内が静まり返った。

 下役たちの視線が動かない。

 セイランの筆が、紙の上で止まっている。

 ヒヨリが、袖の中で小さく震えた。

 アリノリは、ゆっくりイロハを見た。

 白漆の半面の奥から、低く柔らかな声が返る。

「舞台は、神のためにあります」

「ユラさんのためにもあります」

「舞えぬ者を立たせれば、神前が乱れます」

「喰われた者を下ろせば、月のしたことを人が完成させます」

 言った瞬間、イロハ自身も息を呑んだ。

 月のしたことを、人が完成させる。

 それが、今まさに起きていることだった。

 月はユラから、神を迎える沈黙を奪った。

 けれど仮面籍庁は、ユラから舞台を奪う。

 喰われた傷を、白札で固定する。

 アリノリは、少しだけ沈黙した。

 その沈黙に、何かが揺れたように見えた。

 けれど、すぐに彼は札を取り上げた。

「面師イロハ。あなたの意見は記録します」

「意見じゃありません」

「しかし、判定は変わりません」

 白札が、《ユラノスズ》の面箱に置かれた。

 その瞬間、舞面の鈴紋がかすかに曇った。

 ユラが息を吸う。

 泣くかと思った。

 けれど、泣かなかった。

 彼女はただ、袖の中の鈴を強く握った。

 ちり、と小さく鳴る。

 それは舞台の鈴ではなかった。

 神を迎える音でもなかった。

 自分がまだここにいると知らせるための、かすかな音だった。

「ユラさん」

 イロハが呼ぶ。

 ユラは、わずかに顔を上げた。

「私は、まだ直すことを諦めていません」

 その言葉に、ユラの目が揺れる。

 アリノリの下した札は、取り消せない。

 少なくとも今は。

 でも、イロハはそう言わずにはいられなかった。

 ユラは小さく頷いた。

「……はい」

 その声は細かった。

 けれど、消えてはいなかった。

 下役が《ユラノスズ》の面箱に白札を添え、慎重に蓋を閉める。

 朱紐が結び直される。

 さっきまで舞の息を抱えていた面箱は、今は使用停止の箱になっていた。

 イロハは、その光景を目に焼きつけた。

 この場所では、人を怒鳴らない。

 面を壊さない。

 持ち主を責めない。

 ただ、札を置く。

 それだけで、人は舞台から降ろされる。

 アリノリは、次の書面へ視線を移した。

「続いて、暁刃戦面《アカツキノハ》」

 イロハの胸が、さらに重くなる。

 次は、ハルマサの刀だ。

 月に喰われた者たちが、ひとりずつ制度の札に置き換えられていく。

 その流れを、止めなければならない。

 けれど今のイロハには、まだその方法が見えなかった。