EP 45

第5話 定役面《コトサダメ》

第五節 ― 暁刃戦面《アカツキノハ》、封役

 暁刃戦面《アカツキノハ》の面箱が、審査台へ運ばれた。

 《ユラノスズ》の面箱とは、まるで違う。

 朱紐も鈴紋もない。
 代わりに、黒鉄の金具が角を守り、蓋には暁家の紋が刻まれている。

 実用の箱だった。

 戦場へ持ち出されることを前提とした、硬い面箱。
 多少の衝撃では開かず、水にも砂にも耐えるように作られている。

 だが、その強さが、今は痛々しかった。

 どれほど箱が堅くても、中の面は月に噛まれた。

 どれほど武家の役が重くても、刀を抜く入口は白く欠けた。

 ハルマサ=アカツキは、台の前へ進み出た。

 若い武士らしく、背筋はまっすぐだった。
 だが、その顔色にはまだ疲労が残っている。

 アカツキ家で会った時のような、完全に打ちのめされた沈黙ではない。

 一度だけ、彼は刀を抜いた。

 鉄鉢の水面に映った満月を断ち、「ここから先へ、月を通さない」と自分の言葉で言った。

 その一度は、彼の中に確かに残っている。

 けれど同時に、《アカツキノハ》の月痕も残っている。

 ハルマサは、アリノリ=シジョウへ深く礼をした。

「ハルマサ=アカツキ。参りました」

 アリノリは、《コトサダメ》の奥から静かに彼を見た。

「アカツキ家、東暁番衆見習い。暁刃戦面《アカツキノハ》所有者。番衆任官試しにおいて抜刀不能の報告あり」

 淡々と読み上げられる。

 その声に責める響きはない。

 だが、責められるよりも苦しい。

 ハルマサの失敗が、痛みではなく項目になっていく。

 イロハは、膝の上で手を握った。

 アリノリが問う。

「ハルマサ=アカツキ。あなたは、番衆として刀を抜けますか」

 ハルマサは一瞬、答えを探した。

 抜けます、と言いたかったのだろう。

 だが、嘘は言えない。

 彼は唇を引き結び、静かに答えた。

「一度、抜きました」

「報告にあります」

 アリノリは頷く。

「面師イロハの仮置き補助、および白影宮近習アヤメ殿の立ち会いのもと、鉄鉢に映った満月反応を斬った、と」

「はい」

「その後、通常時に同じ抜刀は可能ですか」

 ハルマサは答えられなかった。

 沈黙。

 審査所の空気は、その沈黙すら記録していくようだった。

 アリノリは責めない。

 ただ、結論に向かって進む。

「一度抜けた、ということは理解しました。ですが、常に抜ける保証はありませんね」

 ハルマサの肩が、わずかに動いた。

「……はい」

 その返答は、武士として苦しいものだった。

 だが、彼はごまかさなかった。

 アヤメ=シラハは、厳しい表情でそれを見ていた。

 イロハは、アヤメの横顔を見る。

 アヤメはハルマサの痛みを、もう知らないわけではない。

 第2話の夜、彼女自身も一瞬だけ、自分が何を守る役なのか揺らいだ。
 サヨの言葉によって、ようやく戻ってきた。

 だから、役を喰われる恐ろしさはわかっている。

 それでも、護衛として見れば、抜刀役の不安定さは軽く扱えない。

 守る者が、守るべき瞬間に動けない。

 その危険を、アヤメは誰よりも知っている。

 だからこそ、彼女は黙っていた。

 その沈黙もまた、ハルマサには重かっただろう。

 アリノリは下役へ目を向けた。

「面を」

 面箱の黒鉄金具が外される。

 蓋が開く。

 暁刃戦面《アカツキノハ》が現れた。

 深朱の面。

 怒りに燃える面ではない。
 戦場の荒々しさを写した面でもない。

 そこにあるのは、静かな覚悟だった。

 踏み込む前に、呼吸を整える者の面。
 斬るためではなく、立ち塞がるための面。
 夜明け前の赤を宿した、若い武士の顔。

 しかし、右目元から頬にかけて、白い月痕が走っている。

 イロハは、その痕を見た瞬間、アカツキ家の中庭を思い出した。

 水面に浮かぶ、空にない満月。

 手が止まるハルマサ。

 小姓や女中たちの怯えた顔。

 そして、刀が抜けた瞬間の、静かな一閃。

 刃は人を斬らなかった。

 水面の満月だけを断った。

 あれは、間違いなくハルマサの役だった。

 それなのに。

 《コトサダメ》は、月痕を見逃さない。

 白漆の半面の細い目元が、《アカツキノハ》を捉えた。

 面の上に、薄い光が走る。

 白ではない。

 白に黒い縁が混じる。

 封役の色だった。

 イロハは息を呑む。

 アリノリが低く言った。

「暁刃戦面《アカツキノハ》。武面登録、有効。所有者、ハルマサ=アカツキ。東暁番衆見習い。任官試しにおいて抜刀不能。後日、限定状況下で抜刀成功。ただし、白化月痕継続」

 そこまで言って、彼はハルマサを見る。

「帝都警護において、抜刀役の不安定は看過できません」

 ハルマサは、静かに頭を下げた。

「承知しています」

「承知しているのですか」

 イロハは思わず振り向いた。

「ハルマサさん」

 ハルマサは、イロハを見た。

 その目には、諦めだけではないものがあった。

「私は、番衆を名乗る者です。守るべき時に抜けないかもしれない刀を、安定しているとは言えません」

「でも、一度抜けました」

「はい」

「あなた自身の言葉で、抜いたんです」

「はい」

 ハルマサは、静かに頷く。

「それを、私は忘れません」

 その声に、イロハは言葉を詰まらせた。

 ハルマサは、自分の一度を軽んじているわけではない。

 むしろ、大切にしている。

 だからこそ、今は嘘をつかないのだ。

 アリノリは、そのやり取りを静かに見ていた。

「面師イロハ。異議はありますか」

「あります」

 即答だった。

「この面は、まだ死んでいません」

 アリノリはわずかに頷く。

「死んでいないことと、公的に使用できることは別です」

 その言葉が、審査所に落ちた。

 イロハの胸が、強く痛む。

 まただ。

 また、この人は同じ場所へ戻してくる。

 舞いたいことと、祭礼に立てることは別。
 死んでいないことと、公的に使えることは別。

 この場では、命が残っているだけでは足りない。

 役として安定していることが求められる。

「でも」

 イロハは食い下がった。

「この面は、ハルマサさんを呼び戻しました。完全じゃなくても、まだ繋がっています。今封じたら、その繋がりまで閉じてしまいます」

「封役は破棄ではありません」

 アリノリは穏やかに言った。

「公的使用を停止し、役の再安定化を待つ措置です」

「待つだけで戻るものじゃありません」

「ならば、適切な資格を持つ者が再審に向けて修復を行うべきです」

「私がします」

「武面封役後の再認定修復は、中級面師の権限外です」

 イロハの言葉が止まる。

 それは、最初から用意されていた壁だった。

 技術ではない。

 権限。

 直せるかどうかではない。

 直してよいかどうか。

 アリノリは、黒縁の白札を取った。

 札の縁は黒く、中央は白い。

 剥奪ではない。
 だが、自由でもない。

 生かしたまま閉じる札。

 アリノリが筆を取ると、《コトサダメ》の朱印がかすかに光った。

 札に文字が浮かぶ。

 封役。
 番衆任官停止。
 公的抜刀役、保留。

 イロハは立ち上がった。

「待ってください」

 アリノリは筆を置かない。

「先ほども申し上げました。判定は――」

「ハルマサさんは、刀を抜けない武士じゃありません」

 イロハの声が、審査所に響いた。

「何のために抜くのかを、喰われたんです。そこを取り戻せば、抜けます。実際に抜けました」

「一度だけです」

「一度でもです」

「王朝警護は、一度だけでは務まりません」

 イロハは言い返そうとして、言葉を失った。

 それは間違いではなかった。

 警護とは、必要な時に必ず動く役だ。

 アヤメが厳しい顔をしている理由も、そこにある。

 けれど、その正しさだけで封じていいのか。

 喰われた者を、不安定だからと閉じていいのか。

 アヤメが、ここでようやく口を開いた。

「典役卿」

 アリノリが視線を向ける。

「白影宮近習として申し上げます。ハルマサ殿の役は不安定です」

 イロハはアヤメを見る。

 胸が一瞬、冷たくなる。

 だが、アヤメは続けた。

「しかし、彼は逃げたのではありません。第3話……いえ、アカツキ家での検分時、彼は自らの言葉で抜刀しました。その事実は記録されるべきです」

 セイランがすぐに筆を動かす。

 アリノリは頷いた。

「記録しましょう」

「記録するだけでは足りません」

「では、何を求めますか」

「封役ではなく、限定保留を」

 アヤメの声は静かだった。

「公的任官停止は理解します。ですが、戦面そのものを封じれば、回復の道を狭めます」

 イロハは息を呑んだ。

 アヤメは、ハルマサを無条件にかばっているわけではない。

 護衛として危険を認めている。

 それでも、封じきることには反対している。

 それは、彼女なりの最大限の譲歩であり、抵抗だった。

 アリノリは、少しだけ沈黙した。

 白漆の半面は何も語らない。

 やがて、彼は答えた。

「白影宮近習の意見として記録します。ただし、判定は封役相当です」

 アヤメの表情が硬くなる。

「理由は」

「戦面は、本人だけの役ではありません。周囲の安全に関わります」

 正しい。

 また、正しい言葉だった。

 正しすぎて、誰もすぐには破れない。

 アリノリは、黒縁の白札を《アカツキノハ》の面箱へ添えた。

 その瞬間、深朱の面の色が、ほんのわずか沈んだように見えた。

 ハルマサは、その光景を見ていた。

 怒らない。

 抗議もしない。

 ただ、静かに目を伏せる。

 イロハは、彼が折れてしまうのではないかと思った。

 だが、ハルマサは顔を上げた。

「典役卿」

「何でしょう」

「確認します。封役とは、私が守ることそのものを禁じるものですか」

 アリノリは答える。

「公的な番衆としての抜刀役を停止するものです」

「では、私が何を守りたいかまでは、封じられないのですね」

 室内が、わずかに揺れた。

 イロハはハルマサを見つめた。

 彼の声は静かだった。

 けれど、アカツキ家の中庭で刀を抜いた時と同じ芯があった。

 アリノリも、それを感じたのかもしれない。

 白漆の半面の奥で、わずかに沈黙した。

「心情までは、審査対象ではありません」

「承知しました」

 ハルマサは深く頭を下げた。

 それから、イロハのほうを向いた。

「面を封じられても、私が守りたいものは消えません」

 その言葉に、イロハの胸が熱くなった。

「ハルマサさん……」

「一度、刀を抜けました。あなたが、私の役を見てくださったからです。ならば、もう一度呼べるようになるまで、私は待ちます」

 彼は、黒縁の白札を見た。

「ただ待つのではありません。刀を抜けぬ間も、守ることを忘れません」

 イロハは頷いた。

 泣きそうになるのをこらえた。

 月は、彼から抜刀の入口を奪った。

 仮面籍庁は、彼の戦面を封じた。

 それでも、ハルマサの中から「守りたい」という役までは消せなかった。

 それが、わずかな救いだった。

 アリノリは、静かに宣言する。

「暁刃戦面《アカツキノハ》。封役。東暁番衆正式任官、停止。再審は月痕安定後、上位武面師立ち会いのもと行うものとします」

 下役が記録する。

 黒縁の白札が、面箱へ正式に結ばれた。

 その札の紐が締まる音が、部屋に小さく響く。

 きゅ、と。

 まるで、誰かの喉が締められたような音だった。

 ハルマサはもう一度礼をし、下がった。

 去り際、彼はアヤメにも頭を下げた。

 アヤメは、それに小さく応えた。

 互いに護衛の役を持つ者同士として。

 影から守る者と、表で道を開く者として。

 今はまだ、完全には並び立てない。

 けれど、この先どこかで、二人の役が交わる日が来るのだと、イロハは感じた。

 アリノリは、次の書面へ視線を落とす。

「続いて、星読式面《ナナツジノホシ》および陰陽寮報告書」

 セイランの筆が止まった。

 ヒヨリが、袖の中で身を縮める。

 今度は、記録する者が裁かれる番だった。