EP 46

第5話 定役面《コトサダメ》

第六節 ― 星読式面《ナナツジノホシ》の沈黙

 星読式面《ナナツジノホシ》は、セイラン=ナナツジ自身の手で審査台へ置かれた。

 白木の面。

 淡青の星図。
 七つの星点。
 交差する辻文様。
 面紐に編み込まれた青銀の星糸。

 美しい式面だった。

 武面のような強さはない。
 神楽面のような華やかさもない。
 けれど、静かな夜空をそのまま面へ写し取ったような、澄んだ気配がある。

 その内側に、白い月痕がある。

 星を読む入口を塞ぐように浮かんだ、丸い満月の噛み跡。

 セイランは面を置くと、一歩下がった。

 彼の袖の中で、ヒヨリが小さく身を縮める。

 紙狐の尾だけが、袖口から覗いていた。

 震えている。

 イロハは、その震えを見逃さなかった。

 ヒヨリは、臆病だから隠れているのではない。

 この場の言葉が、危ないと知っているのだ。

 アリノリ=シジョウは、定役面《コトサダメ》越しに《ナナツジノホシ》を見た。

 白漆の半面は、神楽面にも戦面にも揺らがなかった。
 そして今、星読式面にも、やはり感情を見せない。

「星読式面《ナナツジノホシ》」

 アリノリの声が落ちる。

「陰陽寮所属、セイラン=ナナツジ使用。方位読解、星宿照合、式神管掌補助の式面。昨夜、式面内側に満月反応および白化月痕を確認」

 セイランは黙っていた。

 手元には報告書がある。

 正式報告。
 観測別記。
 そして、反転文字を封じた別紙。

 彼はそれらを抱えるように持っていた。

 記録する者。

 それが彼の役だ。

 しかし今、その記録そのものが審査台へ載せられようとしている。

 アリノリは続けた。

「陰陽寮より提出予定の報告には、反転文字、鏡水における暦外満月反応、白面状の観測異常が含まれるとのこと」

「はい」

 セイランの声は硬い。

「それらは事実です」

「事実であることと、正式記録として扱えることは別です」

 アリノリは、穏やかに言った。

 また、その言葉だった。

 別。

 舞いたいことと、祭礼に立てることは別。
 死んでいないことと、公的に使えることは別。
 事実であることと、正式記録として扱えることは別。

 イロハは、胸の奥が苦しくなる。

 この人は、いつも切り分ける。

 人の痛みを、役所の言葉で分けていく。

 セイランは、報告書を卓上へ置いた。

「反転文字は、私の筆跡でありながら、私の意思によるものではありません」

「その時点で、記録としての信頼性に疑義が生じます」

「だからこそ、異常として記録しました」

「反転文字。鏡水の観測異常。白面の客。いずれも、陰陽寮の正式記録としては扱いが難しい」

 アリノリの声は柔らかい。

 だが、言葉は確実にセイランの足元を削っていく。

 セイランは唇を引き結んだ。

「難しいからこそ、記録する必要があります」

 ヒヨリの尾が、袖の中で少しだけ動いた。

 読む者。

 第4話の夜、ヒヨリはそう書いた。

 命じる者ではない。
 読む者。

 セイランは、その言葉を受け取った。

 だから鏡水の庭で、封じる前に読んだ。
 筆跡が反転しても、声で記録した。
 読めぬものを、なかったことにしなかった。

 けれど、仮面籍庁は違う。

 読めない記録は、正式記録ではないと言う。

 アリノリは微笑んだ。

 その微笑みは、優しさにも見えた。

 だが、イロハには閉じた箱の蓋のように見えた。

「記録とは、読まれるためにあります」

 アリノリは言った。

「読めぬ記録は、混乱を招きます」

 セイランの顔色が変わった。

 ほんのわずかに。

 けれど、イロハにはわかった。

 その言葉は、深く刺さった。

 自分が書いた文字を、自分で読めなくなる恐怖。

 鏡水の庭で、セイランはそれを知った。

 記録する者にとって、それは刀を抜けない武士と同じだった。
 舞台へ入れない神楽師と同じだった。

 役の入口が、目の前で閉じる。

 アリノリは、そこを正確に突いたのだ。

 セイランの手が、報告書の端を握る。

 ヒヨリが袖口から顔を出した。

 紙の耳が震えている。

 セイランはそれに気づき、そっと袖を押さえた。

 隠すためではない。

 落ち着かせるために。

「読めないものを、読めないまま残すことも記録です」

 セイランは言った。

 声は少し震えていた。

 しかし、消えていなかった。

「反転しているなら、反転していると記録する。鏡水に満月が映ったなら、暦と合わないと記録する。白面の客が現れたなら、正体不明の観測異常として記録する。読める形に整える前に、読めなかったという事実を残す必要があります」

 アリノリは静かに聞いていた。

「それは、陰陽寮の見解ですか」

 セイランは一瞬、黙った。

 陰陽寮の見解。

 その言葉は重い。

 彼個人の記録なら言える。
 だが、陰陽寮全体の見解として言えるのか。

 まだ言えない。

 制度の内側にいる彼は、その線を越えられない。

 イロハは、セイランの苦しさを見た。

 アヤメもまた、無言で見ている。

 セイランは、深く息を吸った。

「陰陽寮所属、セイラン=ナナツジ個人の観測記録です」

 アリノリは頷く。

「では、正式記録ではありませんね」

 その瞬間、セイランの指が止まった。

 あまりにも鮮やかに、言葉の逃げ道を塞がれた。

 個人の観測記録。

 それは真実かもしれない。
 だが、正式ではない。

 正式でなければ、制度はそれを動かない。

 セイランは、何かを言おうとした。

 けれど、声にならなかった。

 ヒヨリが袖から飛び出した。

 小さな紙狐は、審査台の上に降り立つ。

 下役たちがざわめきかける。

 アリノリは手を上げ、それを止めた。

 ヒヨリは《ナナツジノホシ》の前へ進む。

 そして、尾で台の上に文字を書いた。

 読む。

 ただ一語。

 セイランの目が揺れた。

 ヒヨリは続けて、もう一つ書く。

 読めぬものも。

 さらに、もう一つ。

 残す。

 読む。
 読めぬものも。
 残す。

 それは、式神が主へ返した役だった。

 命じる者ではない。
 読む者。

 そして、読めぬものを読めぬまま残す者。

 イロハの胸が熱くなる。

 セイランは、ヒヨリの文字を見つめていた。

 やがて、静かに顔を上げる。

「典役卿」

「何でしょう」

「正式記録として扱えないのであれば、仮記録として保管してください」

 アリノリの目が、少しだけ細くなった。

「仮記録」

「はい」

 セイランは、声を整えた。

「反転文字、鏡水反応、白面の客については、正式判断に使用しなくて構いません。ですが、破棄せず、仮記録として残してください。今後、同様の現象が起きた場合に照合可能な形で」

 アリノリは沈黙する。

 イロハは、セイランを見た。

 彼は負けていない。

 正式記録にできないなら、仮記録で残す。

 制度の言葉で押し返している。

 それは大きな勝利ではない。
 だが、消されることへの抵抗だった。

 アリノリは、《コトサダメ》の奥で静かに言った。

「仮記録は、正式審査の根拠とはなりません」

「承知しています」

「誤読を招く恐れがあります」

「注記を付けます」

「陰陽寮上層の承認が必要です」

「私が申請します」

 セイランの声は、少しずつ強くなっていた。

 アリノリは、黒檀の扇を手に取る。

 開かないまま、卓を軽く叩いた。

 一度だけ。

「よろしい」

 短い言葉だった。

 セイランの肩が、わずかに下がる。

 だが、安堵するには早かった。

 アリノリは続ける。

「星読式面《ナナツジノホシ》については、白化月痕が確認されています。式面使用は継続可。ただし、月齢読解および白化面関連の方位判定については、補助観測者を付けること」

 セイランの顔に、苦い色が浮かぶ。

 使用停止ではない。

 封役でもない。

 だが、完全には認められなかった。

 自分ひとりの読解を、制度が信用しない。

「報告書は」

 アリノリは、下役へ視線を向けた。

「正式報告部分のみ受理。反転文字および鏡水の白面観測については、仮記録扱い。審査判定の直接根拠とはしない」

 下役が記す。

 仮記録。

 その三文字が紙に落ちた瞬間、セイランの報告書の上に置かれた重みが変わった。

 消されはしない。

 けれど、正式には扱われない。

 真実を記録しても、制度が正式記録にしない。

 イロハは、悔しさで喉が詰まった。

「それじゃ、なかったことにするのと同じじゃないですか」

 思わず言う。

 アリノリは、静かにこちらを見る。

「違います。仮記録として残します」

「でも、判断には使わない」

「不確定な記録を用いて、人の役を定めることはできません」

「不確定なまま、人の役を封じているのに?」

 室内の空気が止まった。

 アヤメが、イロハを見た。

 セイランも。

 ヒヨリも。

 アリノリだけが、変わらない。

 白漆の半面は、何の感情も見せない。

「面師イロハ」

 アリノリの声は低かった。

 怒ってはいない。

 だが、場の重みが増した。

「あなたの発言は記録します。ただし、審査の進行を妨げる場合は退席を命じます」

 アヤメがわずかに動いた。

 イロハは唇を噛む。

 ここで退席させられたら、何も見られなくなる。

 サヨの白絹も。
 自分の《ナギノオモテ》のことも。
 この先、何が決められるのかも。

 セイランが、静かに言った。

「イロハさん」

 その声には、怒りではなく制止があった。

 残すために、今は黙れ。

 そう言っているようだった。

 イロハは拳を握りしめ、座り直した。

「……すみません」

 アリノリは頷いた。

「続けます」

 セイランの報告書に灰札が添えられる。

 仮記録。

 灰色の札だった。

 白札ほど冷たくはない。
 黒札ほど重くもない。

 だが、正式ではない。

 宙に浮かせる札。

 セイランは、その札を見つめていた。

 ヒヨリが台から戻り、彼の袖へ入る。

 今度は隠れるのではなく、寄り添うように。

 セイランは、袖の上からそっとヒヨリを押さえた。

「……残っただけでも、よしとします」

 小さな声だった。

 イロハにだけ聞こえるほどの。

 だが、その声は悔しさを含んでいた。

 自分の記録が、正式な場所へ届かない悔しさ。

 読めぬものを読めぬまま残すことの難しさ。

 制度の中にいて、制度に届かない真実を抱える痛み。

 イロハは、セイランを見ながら思った。

 彼もまた、役を喰われかけているのだ。

 月にではない。

 制度に。

 記録する者でありながら、記録として認められない。

 それは、舞台から降ろされたユラや、刀を封じられたハルマサと同じだった。

 アリノリは、次の書面を手に取った。

「続いて、面師イロハ=ナギの宮中出入り資格、および所持面に関する確認へ移ります」

 イロハの心臓が、大きく鳴った。

 ついに、自分の番だ。

 腰の鍵が、急に重くなる。

 《ナギノオモテ》。

 師匠が与えた面。
 サヨのものに似ていると言われた面。
 まだ開けてはいけない面。

 仮面籍庁の棚が、いっせいにこちらを見る気配がした。

 イロハは、ゆっくり息を吸った。

 今度は、自分が定められる番だった。