EP 47

第5話 定役面《コトサダメ》

第七節 ― 面師イロハ、宮中出入り制限

 イロハ=ナギ。

 その名が、審査所の中央に置かれた。

 面ではない。

 白絹でもない。
 報告書でもない。
 月痕のある役面でもない。

 今度は、イロハ自身が審査の対象だった。

 イロハは、膝の上の手に力を込めた。

 腰の鍵が重い。

 《ナギノオモテ》。

 師匠が自分に与えた面。

 自分の顔であり、自分の役であり、けれど仮面籍庁の台帳にはきっと正しく載っていない面。

 アリノリ=シジョウは、定役面《コトサダメ》をつけたまま、書面を静かにめくった。

 白漆の半面は、イロハの顔を見ない。

 見るのは資格。
 履歴。
 工房。
 所属。
 許可された範囲。

「面師イロハ=ナギ」

「……はい」

「中級面師資格、現時点で有効。町面師としての修復実績あり。職面、生面、軽度祈面の補修について、一定の技能を認めます」

 その言葉に、イロハはほんの一瞬だけ息を緩めた。

 資格を否定されるのではないかと思っていた。

 面師であることそのものを疑われるのではないかと。

 だが、アリノリはそれをしなかった。

 中級面師資格は有効。
 技能も認める。

 それは、かえって怖かった。

 否定されないからこそ、次に来る線引きが避けられない。

 アリノリは、淡々と続けた。

「ただし、白影宮および皇族面に関わる資格は別です」

 イロハの胸が、ぎゅっと縮んだ。

「別……」

「はい」

 アリノリは書面を一枚、卓上へ置いた。

「あなたは宮中面師ではありません。皇族面の制作、診断、修復、未成面への干渉については、原則として上位面師、または宮廷認定面師の立ち会いを要します」

 アヤメ=シラハが静かに口を開いた。

「イロハ殿は、白影宮の依頼を受けています」

「承知しております」

 アリノリは、少しも揺れない。

「白影宮が依頼したからこそ、正しい資格確認が必要なのです」

「サヨ様ご自身が、イロハ殿へ面を作れるかと問われました」

「皇女の御意向は尊重します」

 アリノリは丁寧に言った。

 丁寧すぎるほどに。

「しかし、皇族面は個人の希望のみで扱えるものではありません」

 アヤメの目が鋭くなる。

「皇女様の面です」

「だからこそです」

 その一言が、審査所を静かに押さえつけた。

 イロハは唇を噛んだ。

 サヨは、面を持たない皇女だ。
 誰もその面を作れなかった。
 宮廷面師たちは「記録にない」と言い、空白を空白のまま置いてきた。

 だからイロハが呼ばれた。

 けれど今、その事実さえも、資格確認という紙の前で細くなる。

 アリノリは、次の書面を取った。

「また、あなたの所属工房について確認します」

 イロハの指先が冷えた。

 来る。

 わかっていた。

 それでも、師匠の名がこの場で読まれることが怖かった。

「ロウセツ=カガミ」

 アリノリの声が、低く落ちる。

「元宮廷面師。現、資格剥奪者。無認可工房を面師小路裏にて運営。過去、無許可生面作成、および仮面籍未登録者への面授与疑いあり」

 イロハの喉が詰まる。

 無許可生面作成。

 仮面籍未登録者への面授与。

 それは、紙の上では罪なのだろう。

 だが、イロハにとっては違う。

 あの面がなければ、自分は今ここにいない。

 面師にもなっていない。

 誰かの欠けた面を直すことも、白化した役を診ることも、サヨの空の面箱を覗くこともできなかった。

 師匠は、自分に顔をくれた。

 それをこの場所では、違反と呼ぶ。

「師匠は」

 イロハは、思わず言った。

「私を助けてくれました」

 アリノリは、静かにこちらを見る。

「助けたことと、手続きを逸脱したことは別です」

 また、別。

 イロハの胸に怒りが刺さる。

「全部、別にするんですね」

「区別は必要です」

「区別しているうちに、人がこぼれたらどうするんですか」

「こぼれぬよう、制度があります」

「私は、こぼれていました」

 言った瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。

 アヤメがイロハを見た。

 セイラン=ナナツジの筆が止まる。

 ヒヨリが袖口から顔を出す。

 イロハは、もう止まれなかった。

「仮面籍がなくて、生面もなくて、どこの棚にも入れなかった。師匠が面をくれなかったら、私は今も存在が不安定なままでした」

 アリノリは、黙って聞いていた。

 白漆の半面は表情を変えない。

 けれど、その沈黙は優しさではない。

 判定の前の空白だった。

「あなたの事情は理解します」

「事情じゃありません」

「ですが、制度上の扱いは変わりません」

 アリノリは書面へ視線を戻す。

「資格剥奪者の工房で養成された面師が、皇族の未成面に単独で関与することは認められません」

 イロハの胸が、ずんと沈んだ。

 仮置きでユラの舞を一度だけ戻した。

 ハルマサの戦面から、彼の本当の役を見た。

 サヨの面は、失われたものではなく、まだ作られていないものだと気づいた。

 それでも、役所の一文で白影宮へ入れなくなる。

 面師としての手が、紙で縛られる。

 アリノリは、静かに続けた。

「加えて、あなたが所持する面について確認が必要です」

 イロハの手が、腰の鍵へ伸びた。

 アヤメが一歩前へ出る。

 セイランも顔を上げた。

 アリノリの声は変わらない。

「《ナギノオモテ》」

 名が出た瞬間、イロハの視界の端が白く揺れた。

 仮面籍庁の棚が、いっせいにこちらを向いたような気がした。

「あなたが所持する面を、確認させていただきたい」

「できません」

 イロハは即答した。

 声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。

 アリノリは静かに問う。

「なぜです」

「これは、私の面です」

「だからこそ、確認が必要です」

「違います」

 イロハは、鍵を握った。

「これは、私が私として立つための面です。誰かに疑われて、台帳に照らされるためのものじゃありません」

 アリノリは怒らない。

 ただ、穏やかに言う。

「面は、本人だけのものではありません。王朝の中で顔として扱われる以上、公的な確認が必要です」

「公的じゃなければ、顔じゃないんですか」

「公的に認められなければ、周囲がその顔をどう扱うべきか判断できません」

 イロハは息を呑んだ。

 この人は、本当にそう信じている。

 公的に認められない顔は、人を守れないと。

 だが、イロハは知っている。

 公的に認められる前に、必要な顔がある。

 夜の裏工房で、泣きながら与えられる面がある。
 どの棚にも入れない子どもが、それでも明日を生きるために必要な面がある。

 アヤメが、イロハの前へ立った。

「典役卿。イロハ殿は白影宮の依頼を受けています。所持面の強制確認は、その依頼への干渉と見なします」

「強制はいたしません」

 アリノリは言った。

「本日は確認命令を発するのみです。提出期日を定め、正規の手続きを経て行います」

「それでも、白影宮は抗議します」

「承知しました。抗議も記録いたします」

 アヤメの目が冷える。

 記録する。

 その言葉で、どれだけの怒りが棚にしまわれてきたのだろう。

 セイランが静かに筆を動かす。

 彼は、今のやり取りもすべて書いている。

 せめて、残すために。

 アリノリは白札ではなく、灰白の細い札を取った。

 再確認命令に使う札らしい。

 そこに文字が浮かぶ。

 《ナギノオモテ》登録確認命令。
 提出期日、後日通達。
 未提出時、未認定面扱い。

 イロハの手が震えた。

 未認定面扱い。

 その言葉だけで、《ナギノオモテ》が自分から遠ざかる気がした。

「続いて、宮中出入り資格について判定します」

 アリノリは別の書面を手に取る。

「面師イロハ=ナギ。白影宮への単独出入りを当面禁止。皇族面および未成皇族面への直接作業を禁止。作業を要する場合は、仮面籍庁または宮廷認定面師の立ち会いを必要とします」

 イロハの耳が、じんと鳴った。

 白影宮への単独出入り禁止。

 皇族面への直接作業禁止。

 サヨの面を作るために、サヨがどんな役として立ちたいのかを知る必要がある。

 そう言ったばかりだった。

 そのためには、白影宮へ通わなければならない。
 サヨと話さなければならない。
 空の面箱を診なければならない。
 まだない役の輪郭を探さなければならない。

 それが、紙一枚で止められる。

「そんなの」

 イロハは声を絞り出した。

「サヨ様の面を作るなって言っているのと同じです」

「違います」

 アリノリは答える。

「正しい手続きを踏んで作るべきだと言っています」

「その正しい手続きで、誰も作れなかったんです」

 その言葉に、初めて審査所がはっきり揺れた。

 下役たちが目を伏せる。

 アヤメの表情が変わらないまま、気配だけが鋭くなる。

 セイランの筆が止まる。

 イロハは続けた。

「宮廷面師も、台帳も、仮面籍庁も、サヨ様の面を見つけられなかった。記録にないって言って、異常なしって言って、ずっと空のまま置いてきたんでしょう」

「面師イロハ」

 アリノリの声が低くなる。

 怒りではない。

 だが、明らかに場を押さえる声だった。

「発言は慎重に」

「慎重にしていたら、サヨ様はずっと面のないままです」

 イロハは、初めて真正面からアリノリを見た。

 白漆の半面の奥に、人の目がある。

 冷たい。
 だが、虚ろではない。

 この人は、この人なりに王朝を守ろうとしている。

 それがわかるからこそ、イロハは苦しかった。

「私は、サヨ様の面を勝手に作ろうとしているんじゃありません。サヨ様が、何者として立ちたいのかを聞こうとしているんです」

「皇族の役は、個人の意思のみで定まるものではありません」

「でも、本人の意思なしに作る面は、顔じゃありません」

 沈黙。

 長い沈黙だった。

 アリノリは、イロハを見ていた。

 《コトサダメ》の白い半面が、かすかに光ったように見えた。

 けれど、判定は変わらない。

「あなたの見解は記録します」

 アリノリは言った。

「その上で、判定を下します」

 灰白の札が、イロハの名札の前に置かれた。

 白影宮単独出入り禁止。
 皇族面直接作業禁止。
 《ナギノオモテ》登録確認命令。
 ロウセツ工房、後日査察。

 最後の一文で、イロハの息が止まった。

「工房を……?」

「はい」

 アリノリは静かに頷く。

「資格剥奪者ロウセツ=カガミの工房において、未認定面の制作、修復、保管が行われていないかを確認します」

「師匠は」

 イロハは言いかけて、止まった。

 師匠は、やっている。

 未認定面どころではない。

 欠けた面、預かれない面、制度に乗らない面、仮置きの面。

 灰面長屋や欠け面横丁から持ち込まれる、どの棚にも入らない面を、ロウセツは直している。

 それが見つかれば。

 どれだけの面が取り上げられるのか。

 どれだけの人が、また顔を失うのか。

 イロハの手が冷たくなる。

 第6話へ続く道が、目の前で開いたようだった。

 白影宮だけではない。

 サヨだけではない。

 この制度は、師匠の工房の奥にある面にも手を伸ばす。

 灰面長屋にいる、かつての自分のような者たちにも。

 アヤメが低く言った。

「仮面籍庁は、ロウセツ殿の工房まで審査対象にするのですか」

「必要があれば」

「その必要を、どなたが判断するのです」

「仮面籍庁です」

 閉じた答えだった。

 アヤメの手が、ほんの少し刀へ近づく。

 だが、抜かない。

 ここで刀を抜けば、すべてが仮面籍庁の思う通りになる。

 乱れとして記録される。

 イロハは、灰白の札を見た。

 仮置きで人を救えても、役所の一文で道が閉じる。

 自分がどれほど弱いか、はっきりと思い知らされた。

 面師の手は、面に届く。

 けれど、制度が扉を閉じれば、その手は持ち主に届かない。

 アリノリは、書面を整えた。

「以上をもって、面師イロハ=ナギに関する暫定措置とします」

 暫定。

 その言葉は、永久よりもずっと冷たく聞こえた。

 いつか解除されるかもしれない。
 だから今は従え。

 そう言われているようだった。

 イロハは、灰白の札から目を離せなかった。

 すると、袖の中からヒヨリが小さく顔を出し、セイランの手元の紙に尾で文字を書いた。

 残す。

 セイランは、黙って頷いた。

 彼は書いている。

 イロハの発言も。
 アリノリの判定も。
 白影宮の抗議も。
 ロウセツ工房への査察命令も。

 残すだけでは足りない。

 けれど、残らなければ戦えない。

 イロハは、ゆっくり息を吸った。

 今ここで泣いている場合ではない。

 怒鳴って追い出される場合でもない。

 まだ、サヨの白絹が残っている。

 皇女の未登録役名が、これから審査される。

 自分が制限されたことより、もっと大きなものが次に来る。

 イロハは、鍵から手を離した。

 《ナギノオモテ》は、まだ開けない。

 けれど、守る。

 師匠の工房も。
 サヨのまだない面も。
 灰面長屋の、どこにも載らない顔も。

 アリノリは、次の書面を手に取った。

「続いて、サヨ=ミカゲ様の役名確認に移ります」

 審査所の空気が、さらに深く沈んだ。

 ついに、面を持たない皇女が、紙の上で裁かれようとしていた。