EP 48

第5話 定役面《コトサダメ》

第八節 ― 皇女サヨ、役名保留候補

 サヨ=ミカゲ。

 その名が告げられた瞬間、審査所の空気が変わった。

 それまで台の上に置かれてきたのは、面だった。

 鈴祈舞面《ユラノスズ》。
 暁刃戦面《アカツキノハ》。
 星読式面《ナナツジノホシ》。
 そして、イロハ=ナギの資格と所持面。

 だが、今から問われるのは、面を持たない皇女だった。

 いや。

 仮面籍庁の言葉で言えば、面ではなく、役名。

 その違いが、イロハにはもう怖かった。

 サヨ本人は、この審査所にはいない。

 皇女を仮面籍庁の審査台に座らせることは、形式上できないのだろう。
 けれど、審査から外されるわけでもない。

 部屋の左奥に、白い御簾が下ろされていた。

 それは、白影宮から持ち込まれたものだと聞いていた。細い銀糸で月のない雲文様が織られ、御簾の前には小さな香炉が置かれている。

 その香は、カンナ=ツキシロが焚いたものではない。

 だが、白影宮の夜を思わせる静かな匂いがした。

 御簾の向こうには、サヨ本人がいるわけではない。

 白影宮の控え所とこの審査所をつなぐ、古い宮中作法なのだとアヤメは言った。皇族が直接席に降りず、御簾越しに言葉だけを届けるためのもの。

 姿はない。
 面もない。
 けれど、声だけがそこに来る。

 それは、いかにもサヨらしい参加の仕方に思えた。

 存在しているのに、場に立てない。

 声は届くのに、顔がない。

 アヤメ=シラハは、その御簾の前に立った。

 彼女の背筋は、先ほどまでよりもさらに硬い。

 サヨに関わることになった瞬間、アヤメの役が変わる。

 白影宮近習ではなく、皇女の前に立つ盾になる。

 アリノリ=シジョウは、定役面《コトサダメ》をつけたまま書面を取った。

 白漆の半面が、わずかに御簾のほうへ向く。

「サヨ=ミカゲ様の役名は、現時点で皇族面台帳に確認できません」

 その言葉が落ちた瞬間、アヤメの気皇族面台帳に確認できません」

 その言葉が落ちた瞬間、アヤメの気配が鋭くなった。

「皇女様です」

 低い声だった。

 刃を抜いていないのに、鞘鳴りが聞こえた気がした。

 アリノリは静かに答える。

「血統上は」

「何を」

 アヤメの声が、一段低くなる。

 下役たちが目を伏せた。

 イロハの胸も冷たくなる。

 血統上は。

 それは、皇女であることを否定していない言葉だった。

 だが、同時に、別の何かを否定している。

 アリノリは続けた。

「儀礼上の役名がありません」

 審査所が沈黙した。

 血筋としては皇女。

 けれど、王朝儀礼上の皇女として立つための役名がない。

 その区別を、仮面籍庁は当然のものとして扱っている。

 イロハは、白影宮の面棚を思い出した。

 女房の面。
 庭番の面。
 香役の面。
 御簾守の面。
 夜警の面。

 すべて揃っていた。

 ただ、皇女の面だけがなかった。

 面紐もある。
 面箱もある。
 香も焚かれている。
 棚も空けられている。

 失われた棚ではない。

 面を待っている棚。

 そう見た時、アヤメは初めてイロハを見る目を変えた。

 だが、仮面籍庁は違う。

 待っているとは見ない。

 登録されていないと見る。

 存在しないのではない。
 割り当てられていない。

 セイランが第4話でそう言った。

 けれど、制度の前では、その違いさえ危うい。

 割り当てられていないものは、扱えない。

 扱えないものは、保留される。

 保留されたものは、立てない。

 アリノリが下役へ合図した。

 アヤメは白絹の包みを開いた。

 白影宮の空の面箱に敷かれていた布。

 そこには今、月は浮かんでいない。

 ただの白い絹に見える。

 けれど、イロハにはその奥に、箱の中の満月を見た夜の気配が残っているように感じられた。

 サヨの寝所の奥。
 黒漆の空の面箱。
 暦では欠けているはずなのに、箱の中だけに浮かぶ満月。

 その満月は、喰う月だったのか。
 それとも、まだない役を映していたのか。

 イロハには、まだわからない。

 だが、ひとつだけわかる。

 この白絹は、空白ではない。

 まだ何かを待っている。

 アリノリは、《コトサダメ》を白絹へ向けた。

 部屋の空気が、ぴんと張る。

 定役面の裏側に貼られている無数の役名符が、かさり、と音を立てた。

 かさり。

 かさり。

 紙の虫がいっせいに起きたような音だった。

 白漆の半面の額にある朱印が、薄く光る。

 右頬の金の矩形線が、白絹を測るように細く輝いた。

 役名符が震える。

 皇族面台帳。
 宮中儀礼。
 祭礼序列。
 天帝宮方位。
 白影宮方位。
 皇女役名。

 見えない無数の線が、白絹へ伸びていく。

 イロハは息を止めた。

 何かが読まれる。

 そう思った。

 だが。

 何も起きなかった。

 白絹は、白いままだった。

 役名符は震えている。

 だが、どの符も白絹に触れられない。

 方位盤の星粒が円を描き続けた時と同じだった。

 属する場所がないのではない。

 既存のどの場所にも落ちない。

 《コトサダメ》は、沈黙した。

 その沈黙を聞いた瞬間、イロハは悟った。

 これは異常ではない。

 少なくとも、サヨが異常なのではない。

 《コトサダメ》が読めないのだ。

 まだ存在しない役を。

 王朝の台帳にない役を。
 祭礼の順番に置かれていない役を。
 天帝宮にも白影宮にも、まだ正しく割り当てられていない役を。

 この面は、既にある役を定める面だ。

 ならば、まだない役は読めない。

 それだけのことなのだ。

 だが、アリノリは違う顔をした。

 白漆の半面の奥で、彼は静かに結論へ向かっていた。

「判定不能」

 その声が、審査所に落ちる。

「ゆえに、保留が妥当です」

 アヤメが一歩前へ出た。

「判定不能なら、なぜ保留なのです」

「判定できない役名を、公的に認めることはできません」

「読めないだけでしょう」

 アヤメの声に、怒りが混じる。

「《コトサダメ》が読めないだけです」

 イロハは息を呑んだ。

 アヤメが、それを言った。

 制度の面が読めないことを、はっきり指摘した。

 アリノリは、微動だにしない。

「読めないものを、読めるものとして扱うことはできません」

「では、読めるまで待つのですか」

「はい」

「その間、皇女様は」

 アヤメの声が少し震えた。

「その間、サヨ様は何者として扱われるのですか」

 その時、白い御簾の向こうで、香が揺れた。

 誰も触れていない。

 だが、細い煙が、一度だけ月のない輪を描いた。

 そして、静かな声が届いた。

「保留されるのは、わたしですか」

 サヨ=ミカゲの声だった。

 姿は見えない。

 面もない。

 けれど、その声だけで、審査所の空気が変わった。

 イロハは胸を押さえた。

 白影宮の月見池のそばで聞いた声と同じだ。

 やわらかく、静かで、けれど人の欠落に触れる時だけ、強い痛みを帯びる声。

 アリノリは、御簾へ向き直った。

「いいえ。保留されるのは、役名です」

 サヨは少し黙った。

 その沈黙は、ユラの沈黙とも、ハルマサの沈黙とも違った。

 誰かに喰われた沈黙ではない。

 自分の言葉を選ぶための沈黙だった。

「では」

 御簾の向こうから、また声が届く。

「わたしは役名が定まるまで、何者として息をすればよいのでしょう」

 審査所の時間が止まった。

 イロハは、膝の上の手を握りしめた。

 その問いは、あまりにも静かだった。

 叫びではない。
 抗議でもない。
 涙でもない。

 ただ、まっすぐな問い。

 役名だけを保留するのだと、アリノリは言った。

 だが、サヨにとって役名は紙の上の項目ではない。

 この国で、どこに立てるか。
 誰の前に出られるか。
 どの儀礼に呼ばれるか。
 どの面棚に面箱を置けるか。
 どう呼ばれ、どう記憶されるか。

 それらすべてに関わるものだ。

 役名を保留することは、サヨの息を保留することに近い。

 アリノリは、すぐには答えなかった。

 定役面《コトサダメ》の役名符が、かさりとまた震える。

 だが、やはり白絹からは何も読めない。

 アリノリは、静かに言った。

「サヨ=ミカゲ様は、血統上、皇女であられます。その尊位を否定するものではありません」

「尊位があれば、役はなくてもよいのですか」

 サヨの声は穏やかだった。

 けれど、その穏やかさが胸を刺す。

「わたしは、祭礼に呼ばれません。皇女の面棚には、面がありません。女房たちはわたしを皇女と呼びますが、儀礼の時、わたしの席だけがいつも少し曖昧です」

 アヤメが目を伏せる。

 その曖昧さを、彼女はずっとそばで見てきたのだろう。

「皆が忘れた役は覚えています。香役の夜も、庭番の水面も、舞台から消えた小さな所作も。でも、わたし自身の役だけは、誰も言えない。わたしも、言えません」

 御簾の向こうの声が、ほんの少しだけ小さくなった。

「それでも、保留されるのは役名だけなのでしょうか」

 誰も答えない。

 アリノリでさえ、わずかに沈黙した。

 イロハには、その沈黙が初めて人間らしく感じられた。

 だが、次に出てきた言葉は、やはり典役卿のものだった。

「未定義の役名を、確定して扱うことはできません」

 サヨは、静かに答える。

「では、わたしは未定義のまま生きてきたのですね」

 アヤメが息を呑む。

 イロハは、もう黙っていられなかった。

「違います」

 声が出ていた。

 アリノリがこちらを見る。

 だが、イロハは御簾のほうを見たまま続けた。

「サヨ様は、未定義なんかじゃありません。まだ、この国に作られていない役なんです」

 アリノリの空気が、わずかに硬くなる。

「面師イロハ」

「《コトサダメ》が読めないのは、ないからじゃありません。まだ台帳にないからです。まだ面になっていないからです。だから、定めるんじゃなくて、作る必要があるんです」

「皇族の役を、町面師が作ると?」

「町面師だから見えたんです」

 イロハは言った。

 自分でも驚くほど、声がまっすぐだった。

「面師小路には、台帳どおりじゃない面が来ます。欠けた面も、古すぎて役が薄れた面も、持ち主が変わった面も、どの棚にも合わない面も。私はそういう面を見てきました」

 腰の鍵が熱を持つような気がした。

「サヨ様の面箱は、失われたものじゃありません。待っているんです。まだない面を」

 御簾の向こうで、香の煙が細く揺れた。

 サヨが聞いている。

 それだけはわかった。

 アリノリは、静かに答える。

「あなたの見立ては記録します」

「また記録ですか」

「はい」

 彼の声は、変わらない。

「ただし、記録されていない役を、公的に認めることはできません」

 イロハは、言葉を失った。

 届かない。

 見えているものが違う。

 イロハには、白絹の奥にまだ彫られていない輪郭が見える。

 アリノリには、台帳に存在しない空白が見える。

 同じものを見ているはずなのに、まったく違うものとして受け取っている。

 下役が、白い札を差し出した。

 アリノリはそれを受け取る。

 そこに筆で文字を記す。

 サヨ=ミカゲ。
 皇族血統確認。
 儀礼上役名、未確認。
 役名保留候補。
 白影宮外公式儀礼参加、当面停止。

 アヤメが一歩踏み出した。

「典役卿」

 声が低い。

「それは、皇女様を白影宮に閉じ込める札です」

「いいえ」

 アリノリは答える。

「未定義の役名のまま、公式儀礼へ出ることによる混乱を避ける措置です」

「同じことです」

「違います」

 そのやり取りを、イロハはもう聞き飽きていた。

 違う。
 別。
 保留。
 安定。
 措置。

 正しい言葉が、人を少しずつ閉じていく。

 白札が、白絹の前に置かれた。

 その瞬間、白絹の端がかすかに波打った。

 月は浮かばない。

 けれど、イロハには見えた。

 白絹の奥で、まだ彫られていない面の輪郭が、ほんの一瞬だけ震えた。

 泣いているように。

 あるいは、怒っているように。

 御簾の向こうで、サヨの声が静かに響いた。

「アリノリ=シジョウ」

「はい」

「あなたは、王朝を守る方なのですね」

「その役をいただいております」

「では、覚えておいてください」

 サヨの声は、少しも荒くなかった。

 だが、審査所の誰もが息を止めた。

「王朝は、まだ名づけられていない役を抱えたままでも、続いてきました。わたしひとりを保留すれば守れるほど、この国は小さくないはずです」

 アリノリは沈黙した。

 イロハは、御簾を見つめる。

 サヨは弱い皇女ではない。

 面がない。
 役名がない。
 公式儀礼に立てない。

 それでも、彼女は人の欠落を覚えている。

 そして今、自分の空白を、初めて制度の前に差し出した。

 アリノリは、静かに頭を下げた。

「御言葉、記録いたします」

 サヨは、淡く答えた。

「ええ。記録なさい」

 その言い方に、イロハの胸が震えた。

 記録されるだけで終わるつもりはない。

 そう聞こえた。

 白札は置かれた。

 判定は覆らない。

 サヨは役名保留候補とされた。

 白影宮外の公式儀礼参加は、当面停止。

 だが、その場にいた者たちはもう知っていた。

 保留されたのは、ただの役名ではない。

 この国に、まだない役を認めるかどうか。

 その問いそのものが、白い札の下に置かれたのだ。

 アリノリは、白絹から視線を外した。

「続けます」

 彼の声は変わらない。

 だが、イロハには見えた。

 定役面《コトサダメ》の裏側で、無数の役名符がまだ震えている。

 読めなかったものを、読めなかったままにしておけない。

 その震えが、次の異変を呼ぶように思えた。