EP 49

第5話 定役面《コトサダメ》

第九節 ― 定役面の裏に映る白い半面

 白札が、白絹の前に置かれたあとも、審査所の空気は戻らなかった。

 終わったはずだった。

 少なくとも、手続き上はそう見えた。

 ユラ=シラビョウの鈴祈舞面《ユラノスズ》は使用停止。
 ハルマサ=アカツキの暁刃戦面《アカツキノハ》は封役。
 セイラン=ナナツジの報告書は仮記録扱い。
 イロハ=ナギは白影宮への単独出入りを制限され、《ナギノオモテ》の登録確認命令を受けた。
 サヨ=ミカゲは、役名保留候補。

 札は置かれた。

 記録もされた。

 仮面籍庁としては、これで形が整ったはずだった。

 けれど、定役面《コトサダメ》の裏側で、何かがまだ震えていた。

 最初に気づいたのは、イロハだった。

 かさり。

 紙が擦れるような音。

 それは、風の音ではなかった。
 衣擦れでもない。
 下役が台帳をめくる音でもない。

 面の裏から聞こえている。

 アリノリ=シジョウの顔に当てられた白漆の半面。
 その裏側に貼られた、無数の役名符。

 既存の役を照合し、王朝の台帳に結び、許可された役と許されぬ役を分けるための符。

 それらが、一斉に震えていた。

 かさり。

 かさり、かさり。

 次第に音が大きくなる。

 アヤメ=シラハが刀へ手を近づけた。

 セイランは筆を止め、顔を上げる。

 ヒヨリが袖の中から飛び出し、セイランの膝の上で身を低くした。

 アリノリ自身も、その異変に気づいたらしい。

 彼は、わずかに眉を動かした。

 これまでどれほどの異議を受けても、どれほどの怒りを向けられても、揺らがなかった典役卿が、初めて自分の面へ意識を向けた。

「……定役符が」

 低い声だった。

 独り言に近い。

 イロハは、息を止めた。

 定役面《コトサダメ》の白漆が、内側から薄く光っている。

 月の白ではない。

 もっと乾いた白。

 紙の裏を透かした時に見える、墨の向こう側の白。

 アリノリは、ゆっくりと《コトサダメ》を顔から外した。

 審査所の者たちが息を呑む。

 定役面は、審査中に外されるものではないのだろう。

 だが、アリノリは外さざるを得なかった。

 面の裏側に貼られた役名符が、すでにただの紙ではなくなっていた。

 細い符が、白い鱗のように逆立っている。

 王朝の役名。
 官名。
 祭礼名。
 武面資格。
 祈面資格。
 宮中序列。
 白影宮方位。
 天帝宮方位。

 無数の符が震えながら、ひとつの形を避けるように揺れていた。

 その中心。

 役名符の隙間に、白いものが映った。

 半面だった。

 水ではない。

 鏡でもない。

 それなのに、そこには確かに映っていた。

 第4話の鏡水に現れた、あの白い半面。

 目穴はない。

 けれど、見ている。

 口はない。

 けれど、言葉よりも深く何かを告げている。

 面のようで、顔のようで、獣のようでもある。

 白漆の奥に、さらに白い半面が重なる。

 定役面《コトサダメ》の裏に、鏡ノ客がいた。

 イロハは、身体が動かなくなった。

 あれだ。

 鏡水の庭で見たもの。

 月が喰っているのではありません。
 あなたがたが、喰われた役を月に映しているのです。

 映るものは、喰われたものとは限りません。
 隠されたものも、月は映します。

 あの声が、耳の奥で蘇る。

 けれど今回は、白い半面は何も言わなかった。

 ただ、映している。

 《コトサダメ》の裏に。
 役名符の震えの奥に。
 アリノリ=シジョウ自身を。

 白い半面の表に、アリノリの顔が映った。

 整った髪。
 白金と墨黒の装束。
 閉じた黒檀の扇。
 穏やかな目。
 そして、その目の奥にある役。

 王朝を守る者。

 有る役しか認めぬ者。

 未在を恐れる者。

 定まらぬものを封じる者。

 それは、罵倒ではなかった。

 裁きでもない。

 ただ、映っている。

 鏡が、そこに立つ者の姿を返すように。

 エル=ネフリドは、アリノリを操ってはいなかった。

 命じてもいない。
 唆してもいない。
 定役面を乗っ取ってもいない。

 ただ、彼の役を映している。

 その人が、自分で選び、自分で守り、自分で正しいと信じている役を、白く返しているだけだった。

 だからこそ、イロハは怖くなった。

 もしこれが命令なら、拒める。

 もし呪いなら、解けるかもしれない。

 けれど、映されているのが本人の思想なら。

 本人がそれを正しさとして受け取ってしまったら。

 どうやって止めればいいのだろう。

 アヤメが低く言った。

「典役卿。その面を離してください」

 アリノリは答えない。

 彼は、《コトサダメ》の裏を見つめていた。

 白い半面に映る、自分自身の姿を。

 セイランが立ち上がりかける。

「これは、第4話……陰陽寮の鏡水に現れた白面と同種の観測異常です。記録を――」

「待ちなさい」

 アリノリの声が、静かに落ちた。

 その声は、先ほどまでと違っていた。

 驚きはある。

 だが、恐怖ではない。

 彼は白い半面を見て、怯えていなかった。

 むしろ、何かを理解したような顔をしている。

 イロハの背筋が冷えた。

 違う。

 それは警告だ。

 見せられているのは、危うさだ。

 未在を恐れすぎるあまり、定まらぬものを封じる者になっていると、突きつけられている。

 イロハには、そう見えた。

 だが、アリノリは違った。

 彼は、ゆっくりと言った。

「なるほど」

 静かな声だった。

 審査所の者たちが、誰も動けない。

 アリノリは、白い半面に映る自分を見つめたまま続けた。

「未在は、やはり反射異常を呼ぶ」

 イロハは、息を呑んだ。

「違います」

 声が出ていた。

「違います、アリノリ様。それは――」

「何が違うのです」

 アリノリは、こちらを見た。

 定役面を外しているのに、その目にはまだ《コトサダメ》の重みがあった。

「今、我々は確かに見ました。皇女の白絹を判定不能とした直後、定役面の裏に白面状の異常が現れた。第4話においても、白影宮の白絹と式面を鏡水へ置いた際、同様の反射異常が生じた」

 セイランが顔を強張らせる。

 彼の報告が、別の意味に使われようとしている。

「これは、未在の役が周囲の面、記録、儀礼具へ干渉する証です」

「違います」

 イロハはもう一度言った。

「これは、あなたを映しているんです」

 室内が静まった。

 アリノリの視線が、細くなる。

「私を」

「はい」

 イロハは、自分の声が震えるのを感じた。

 けれど、止めなかった。

「その白い半面は、誰かを操っているんじゃありません。あなたが今、何をしようとしているかを映しているんです。定まらないものを全部封じようとしているあなたを」

 下役たちが息を呑む。

 アヤメは、動かずイロハの前に立つ準備をしていた。

 セイランの筆は止まったままだ。

 アリノリは、しばらく黙った。

 怒鳴らない。

 顔色も変えない。

 ただ、白い半面とイロハを見比べる。

「面師イロハ」

 やがて、彼は静かに言った。

「あなたは、現象を自分の願望に沿って解釈している」

 イロハの胸が痛む。

「願望じゃありません」

「あなたは、未在を認めたい。定まらぬ役に面を与えたい。役名のない者を、そのまま王朝の中に立たせたい。だから、この異常を警告として見ている」

 言葉は冷静だった。

 冷静すぎた。

「ですが、私は典役卿です。王朝の秩序を守る役を持つ者です。私が見るべきは、感情ではなく、制度に及ぼす影響です」

 アリノリは、もう一度《コトサダメ》の裏を見た。

 白い半面は、まだそこにいた。

 何も言わない。

 ただ映している。

 アリノリが何を選ぶのかを、見ている。

「未在が周囲の面へ反射異常を起こす」

 彼は言った。

「ならば、未在は管理されねばならない」

 イロハは言葉を失った。

 届かない。

 白い半面を見ても、届かない。

 警告を、自分の正しさの証に変えてしまう。

 それが、アリノリ=シジョウの恐ろしさだった。

 彼は異常を無視していない。

 見えていないわけでもない。

 見たうえで、自分の思想へ組み込む。

 イロハにとっての警告は、彼にとっての根拠になる。

 アヤメが低く言う。

「典役卿。その解釈は危険です」

「危険を避けるための解釈です」

「サヨ様を封じる理由に使うつもりですか」

「サヨ=ミカゲ様を封じるのではありません」

 アリノリは、静かに《コトサダメ》を顔へ戻した。

 白い半面は、その裏に隠れた。

 だが、消えたわけではない。

 役名符の震えはまだ残っている。

「未定義の役名を、王朝全体へ不用意に広げぬための措置を取るのです」

 イロハの手が、ぎゅっと握られる。

「それを、封じるっていうんです」

 アリノリは、白漆の半面越しに答えた。

「定まらぬ役は、封じるべきです」

 その言葉が、審査所に落ちた。

 重く。

 冷たく。

 逃げ場のない形で。

 定まらぬ役は、封じるべき。

 それは、反転した報告書の文字と同じだった。

 未在を定めよ。
 定まらぬ役は、封じよ。

 月が書いたのか。
 鏡ノ客が映したのか。
 それとも、人の制度が最初からそう言っていたのか。

 もう、わからない。

 だが、確かなことがひとつだけあった。

 アリノリは、その言葉を自分の意思で選んだ。

 操られてはいない。

 喰われてもいない。

 彼は、王朝を守るために、自分でそう言った。

 それが何より怖かった。

 白い半面は、《コトサダメ》の裏で、かすかに揺れた。

 笑ったようにも見えた。

 悲しんだようにも見えた。

 あるいは、ただ映しただけだったのかもしれない。

 イロハは、白絹の前に置かれた白札を見た。

 ユラの面箱。
 ハルマサの封役札。
 セイランの仮記録。
 自分の出入り制限。
 サヨの役名保留候補。

 すべてが、同じ線でつながっていく。

 月が喰った役を、人が札で閉じる。

 そしてその正しさを、定役面が保証する。

 イロハは、ようやく本当の敵を見た気がした。

 月だけではない。

 白い半面でもない。

 人が、人を守るためだと言いながら、まだない役を封じてしまうこと。

 その怖さが、目の前に座っていた。

 アリノリは、下役へ告げる。

「本件の結論をまとめます」

 その声には、先ほどよりも強い確信があった。

「白化面および不安定役面への措置を、正式に通達します」

 イロハは、息を吸った。

 次に下される言葉が、どれほど重いものになるかを知りながら。

 それでも、聞かなければならなかった。

 ここから先へ、制度がどのように人を封じるのか。

 それを見届けなければ、戦い方さえわからない。