EP 50

第5話 定役面《コトサダメ》

第十節 ― 正しさで封じる者

 アリノリ=シジョウは、定役面《コトサダメ》をつけたまま、審査所の中央を見渡した。

 白漆の半面は、もう揺れていない。

 裏に映った白い半面も、見えない。

 だが、イロハにはわかっていた。

 消えたのではない。

 蓋をされたのだ。

 面箱の蓋を閉じるように。
 台帳の頁を閉じるように。
 読めないものを、読めないまま灰白の札の下へ押し込むように。

 アリノリは、下役へ小さく頷いた。

 下役が、審査結果の書面を読み上げる。

「鈴祈舞面《ユラノスズ》。白化月痕および神楽一節欠落のため、使用停止。奉納舞および祭礼参加、当面保留」

 ユラ=シラビョウは、声を出さなかった。

 ただ、袖の中の鈴を握りしめている。

 ちり、とも鳴らない。

 鳴らせないのではない。

 今、この場で鳴らせば、審査所の誰かがそれを「未許可の祭礼動作」と記録するかもしれない。

 そう思わせる場所だった。

「暁刃戦面《アカツキノハ》。抜刀役不安定のため、封役。東暁番衆正式任官、停止。再審は月痕安定後、上位武面師立ち会いのもと行うものとする」

 ハルマサ=アカツキは、静かに頭を下げた。

 その腰に刀はある。

 けれど、今その刀は公的には抜けない。

 番衆としても、武士としても、彼の刃は札で縛られた。

 それでも彼は、顔を上げた。

 目は死んでいない。

 イロハは、そのことだけを胸に留めた。

「星読式面《ナナツジノホシ》。式面使用は継続可。ただし、月齢読解および白化面関連方位判定については、補助観測者を付すこと。陰陽寮報告書のうち、反転文字、鏡水反応、白面状観測異常については仮記録扱い。上位確認待ち」

 セイラン=ナナツジの表情は硬かった。

 正式には届かない。

 だが、消されもしなかった。

 彼は、悔しさを飲み込むように筆を持ち直す。

 ヒヨリが袖の中で、小さく尾を動かした。

 残す。

 その一語を、何度も繰り返すように。

「面師イロハ=ナギ。中級面師資格は有効。ただし、白影宮への単独出入りを制限。皇族面および未成皇族面への直接作業を禁止。《ナギノオモテ》の登録確認命令を発する。ロウセツ=カガミ工房については、後日査察を行う」

 イロハの胸に、冷たいものが落ちた。

 自分の名が、札に縛られていく。

 白影宮への道。
 サヨと話す時間。
 空の面箱を診る手。
 師匠の工房。
 《ナギノオモテ》。

 そのすべてに、仮面籍庁の紐がかかる。

 呼吸が浅くなる。

 それでも、まだ終わりではなかった。

「サヨ=ミカゲ様。皇族血統は確認。ただし、儀礼上役名は未確認。役名保留候補として扱う。白影宮外の公式儀礼参加は、当面停止」

 御簾の向こうは、静かだった。

 香の煙だけが、細く立ち上っている。

 サヨの声はない。

 怒りも、嘆きも、抗議もない。

 だが、その沈黙は、消えた沈黙ではなかった。

 白影宮の夜に似ていた。

 月を映してしまう水面のような、深い沈黙。

 イロハは、もう黙っていられなかった。

「みんな、喰われたんです」

 声が震えた。

 それでも、止めなかった。

「ユラさんは舞を捨てたんじゃない。ハルマサさんは逃げたんじゃない。セイランさんの記録は嘘じゃない。サヨ様は存在しないんじゃない」

 審査所の全員が、イロハを見る。

 アヤメは止めなかった。

 セイランも筆を止めなかった。

 ハルマサが、わずかに顔を上げる。

 ユラの袖の中で、鈴が小さく震えた。

「みんな、壊れたんじゃありません。嘘をついたんじゃありません。逃げたんじゃありません。月に、役の入口を喰われたんです」

 イロハは、アリノリを見た。

「なのに、どうしてその傷を札で閉じるんですか」

 アリノリは、静かに答えた。

「だからこそ、保留するのです」

 その声は、少しも荒くない。

 柔らかく、低く、正しい。

 正しすぎて、刃よりも深く刺さる。

「だからこそ?」

「はい」

 アリノリは、《コトサダメ》の白漆の面越しに言った。

「喰われた役が不安定であるなら、今すぐ公的な場へ戻すことはできません。本人を責めるためではない。乱れを広げぬためです」

「救うためじゃない」

 イロハの声は低かった。

 自分でも驚くほど、怒りが静かだった。

 アリノリは頷く。

「乱れを広げぬためです」

「それは、救うことじゃありません」

「王朝を守ることです」

 その一言で、イロハははっきりと理解した。

 この人とは、同じものを見ていない。

 ユラの舞も。
 ハルマサの刀も。
 セイランの記録も。
 サヨの空白も。
 自分の面も。

 イロハには、人が見えている。

 傷ついた人。
 立てなくなった人。
 それでももう一度、役へ戻ろうとしている人。

 アリノリには、王朝が見えている。

 役の乱れ。
 台帳の不一致。
 祭礼の危険。
 未在が生む反射異常。
 定まらぬものが広がることへの恐れ。

 どちらかだけが嘘なのではない。

 だからこそ、折れない。

 アリノリは悪意で動いていない。

 彼は本当に、王朝を守ろうとしている。

 ユラを止めるのも。
 ハルマサを退けるのも。
 セイランの記録を仮に落とすのも。
 イロハを制限するのも。
 サヨを保留するのも。

 すべて、王朝を守るため。

 だからこそ、イロハは彼を敵だと思った。

 初めて、はっきりと。

 月のような怪異ではない。

 白い半面のような謎でもない。

 正しさで人を封じる者。

 その顔が、目の前にあった。

「王朝を守るためなら」

 イロハは言った。

「王朝の中で息ができない人は、どうなってもいいんですか」

 アリノリは、少しだけ沈黙した。

 ほんのわずかに。

 その沈黙に、人間の迷いがあったのかもしれない。

 けれど、次の言葉は典役卿のものだった。

「王朝が乱れれば、より多くの者が息を失います」

「だから、少ない人を閉じるんですか」

「閉じるのではありません。定まるまで保留します」

「その保留の間に、人は壊れます」

 イロハの声が震えた。

「ユラさんは舞台から遠ざけられる。ハルマサさんは刀を抜けないまま自分を責める。セイランさんの記録は正式に読まれない。サヨ様は、何者として息をするのかも決められない」

 イロハは、自分の胸に手を当てた。

「私も、白影宮へ行けない。サヨ様の面を作るために必要なことを聞けない。師匠の工房まで査察される。そこには、ほかの場所に行けない面があるんです」

 ロウセツの工房。

 木粉の匂い。
 漆の乾く匂い。
 欠けた面。
 古い面。
 誰の台帳にも載らない面。

 灰面長屋から持ち込まれる、傷だらけの顔。

 仮面籍庁がそこへ来れば、きっと札を置く。

 保留。
 停止。
 封役。
 未認定。

 その札の下で、どれだけの人がまた顔を失うのか。

「それでも、王朝を守ることになるんですか」

 アリノリは、静かに答えた。

「王朝がなければ、役は立つ場所を失います」

「役があっても、人が立てなければ意味がありません」

「人が立つために、役が必要です」

「役がない人にも、立つ場所は必要です」

 その言葉に、審査所の空気が深く沈んだ。

 役がない人。

 この国で、それは危険な言葉だった。

 面がない者。
 仮面籍に載らない者。
 役名を持たない者。
 まだない役を抱えた者。

 イロハ自身のことでもある。

 サヨのことでもある。

 そして、灰面長屋にいる誰かのことでもある。

 アリノリは、イロハを見た。

「あなたは、役なき者へも面を与えたい」

「はい」

 イロハは、今度は迷わなかった。

「必要なら」

「それは、王朝の根を揺るがします」

「揺れない王朝なら、面のない皇女なんて生まれなかったはずです」

 アヤメが息を呑んだ。

 セイランの筆が止まる。

 下役たちが一斉に目を伏せた。

 言い過ぎたかもしれない。

 けれど、イロハは言葉を戻さなかった。

 御簾の向こうで、香の煙が揺れた。

 サヨが聞いている。

 その気配だけで、イロハは立っていられた。

 アリノリは、怒らなかった。

 ただ、静かに言った。

「面師イロハ。あなたの考えは危うい」

「わかっています」

「危ういと知ってなお、進むのですか」

「進まなければ、サヨ様の面は作れません」

「作られぬほうが、王朝にとって安全かもしれない」

 その瞬間、イロハの中で何かが切れた。

 怒りではない。

 恐れでもない。

 もっと静かな決意だった。

「それでも、作ります」

 イロハは言った。

 審査所の白い空気を、まっすぐ切るように。

「サヨ様が、自分で何者として立つのかを選ぶなら。そのために面が必要なら。私は作ります」

 アリノリは、しばらく黙っていた。

 定役面《コトサダメ》の裏で、役名符がかすかに震える。

 白い半面は見えない。

 だが、きっとまだどこかで映している。

 アリノリの役を。
 イロハの役を。
 この場にいる者たちの、選ぼうとしている道を。

「その発言も、記録します」

 アリノリは言った。

 イロハは、小さく笑いそうになった。

 こんな時なのに。

 この人は、やはり記録するのだ。

 封じるために。
 保留するために。
 後で裁くために。

 でも、記録されるなら、それでもいいと思った。

 消されるよりはいい。

 残れば、いつか誰かが読む。

 セイランが記録する。

 ヒヨリが覚えている。

 アヤメが証言する。

 サヨが忘れない。

 なら、イロハの言葉は完全には消えない。

 アリノリは、下役へ最終書面を渡した。

「本審査の結果を、仮面籍庁名義で通達します。異議申立は所定の手続きに従うこと。白影宮、陰陽寮、アカツキ家、シラビョウ家へ写しを送付」

「承りました」

 下役が頭を下げる。

 白札。
 黒縁の白札。
 灰札。
 確認命令。
 保留候補。

 それらが、それぞれの箱に添えられていく。

 音は静かだった。

 紙と木と紐の音だけ。

 けれどイロハには、それがひとつひとつ、人の足元を閉じていく音に聞こえた。

 審査終了の合図が出される。

 アリノリは《コトサダメ》を外した。

 白漆の半面は、再び面箱へ戻される。

 その瞬間、イロハは見た。

 面の裏側。

 役名符の隙間に、まだほんの小さく白い半面の影が残っている。

 それは、言葉を発しない。

 ただ、こちらを見ていた。

 まるで、問いかけるように。

 おまえは何を作るのか。

 定められた役か。
 まだない役か。
 それとも、定めることも封じることもできない顔か。

 イロハは、その影を睨み返した。

 答えはまだない。

 けれど、逃げない。

 今はそれだけを決めた。

 アリノリは面箱の蓋を閉じた。

 かちり。

 乾いた音がした。

 審査所の空気が、ようやく少しだけ緩む。

 だが、それは解放ではなかった。

 裁きが終わっただけ。

 札は残っている。

 ユラは舞台に立てない。
 ハルマサは番衆になれない。
 セイランの記録は仮のまま。
 イロハは白影宮へ自由に行けない。
 サヨは役名を保留された。

 月が喰った傷を、制度が整った形で封じた。

 イロハは、灰白の札を見つめた。

 この正しさを破るには、怒るだけでは足りない。

 泣くだけでも足りない。

 面を直すだけでも、もう足りない。

 役を決める制度そのものと、向き合わなければならない。

 それを思った瞬間、胸の奥で何かが重く鳴った。

 怖い。

 けれど、もう見てしまった。

 だから、戻れない。

 御簾の向こうから、最後にサヨの声が届いた。

「イロハ」

 名を呼ばれた。

 それだけで、イロハの足元が少し戻る。

「はい」

「わたしは、覚えています」

 サヨの声は静かだった。

「今日、誰が何を封じられたのか。誰が何を言ったのか。あなたが、まだ作ると言ったことも」

 イロハは、喉の奥が熱くなった。

「はい」

「だから、忘れないでください」

 御簾の向こうで、香が細く揺れる。

「わたしたちは、まだ終わっていません」

 イロハは深く頷いた。

「終わらせません」

 その言葉は、小さかった。

 けれど、審査所の静けさの中では、はっきりと響いた。

 アリノリは何も言わなかった。

 ただ、閉じた面箱へ手を置いている。

 王朝を守る者。

 有る役しか認めぬ者。

 未在を恐れる者。

 定まらぬものを封じる者。

 イロハは、その姿を胸に刻んだ。

 この人は敵だ。

 けれど、倒せば終わる敵ではない。

 制度そのものの顔をした敵。

 ならば、自分が作るべき面も、ただの皇女面では足りない。

 まだこの国にない役を、この国の中に立たせる面。

 その輪郭が、ほんの少しだけ、胸の奥で熱を持った。