EP 51

第5話 定役面《コトサダメ》

終節 ― 白札と黒札

 仮面籍庁の門を出た時、帝都カミザの空は、昼だというのにどこか白く曇っていた。

 月は出ていない。

 けれど、イロハ=ナギの視界の端には、まだ白いちらつきが残っていた。

 白札。
 黒縁の白札。
 灰札。
 確認命令。
 保留候補。

 審査所の中で置かれた札の色が、目を閉じても消えない。

 ユラ=シラビョウは、鈴祈舞面《ユラノスズ》を抱えたまま、迎えの者に連れられていった。

 もう、奉納舞には立てない。

 少なくとも、仮面籍庁が許すまでは。

 ハルマサ=アカツキは、暁刃戦面《アカツキノハ》の面箱を両手で持ち、深く一礼して去った。

 彼の腰には刀がある。

 けれど、その刀は今、公的には抜けない。

 セイラン=ナナツジは、仮記録扱いにされた報告書を抱え、陰陽寮へ戻る準備をしていた。

 記録は残った。

 だが、正式には読まれない。

 サヨ=ミカゲは、役名保留候補とされた。

 白影宮外の公式儀礼には、出られない。

 そしてイロハ自身も、もう白影宮へ自由には入れない。

 サヨの面を作るには、サヨがどんな役として立ちたいのかを知らなければならない。

 けれど、そのために会いに行く道を、いま閉じられた。

 月が喰った傷を、人が札で固定していく。

 イロハは、仮面籍庁の門前で立ち尽くした。

 黒漆の門は、何事もなかったように閉じている。

 門の奥には、棚がある。
 札がある。
 台帳がある。
 定役面《コトサダメ》がある。

 そして、そこに置かれた言葉は、帝都中へ写しとして送られていく。

 舞台へ。
 武家屋敷へ。
 陰陽寮へ。
 白影宮へ。

 人の痛みより早く、札だけが届く。

「イロハ殿」

 アヤメ=シラハが、隣に立った。

 彼女もまた、顔色が悪かった。

 怒りを抑えているのではない。

 もっと深いところで、守るべき相手の足元が紙で削られていくのを見た顔だった。

「白影宮へは、私から戻って報告します」

 イロハは答えられなかった。

 白影宮へ戻れない。

 その事実が、今になって胸に重く落ちてきた。

「サヨ様は」

 ようやく声が出る。

「怒っていましたか」

「怒っておられます」

 アヤメは即答した。

 少しだけ、イロハは驚いた。

 アヤメは続ける。

「ただし、声を荒らす方ではありません。静かに怒っておられます。あの方の怒りは、忘れない怒りです」

 イロハは、御簾越しに聞いたサヨの声を思い出した。

 わたしは、覚えています。

 今日、誰が何を封じられたのか。

 誰が何を言ったのか。

 あなたが、まだ作ると言ったことも。

 その言葉だけが、今のイロハの足元をかろうじて支えていた。

「私は」

 イロハは言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 何ができるのだろう。

 白影宮へ入れない。
 皇族面へ触れられない。
 《ナギノオモテ》は登録確認命令を受けた。
 ロウセツの工房には査察が来る。

 制度の前で、自分の手はあまりにも小さい。

 その時だった。

 仮面籍庁の門の脇から、灰白の官衣を着た下役が出てきた。

 彼はイロハたちへ軽く礼をし、手にした書付を読み上げる。

「追加通達です。仮面籍庁は、白化面および不安定役面の再検査に伴い、帝都内の仮置き面、未認定面、修復保留面についても順次確認を行います」

 イロハの背筋が凍った。

 下役は淡々と続ける。

「対象地域には、面師小路裏、灰面長屋、欠け面横丁を含みます」

「待ってください」

 イロハの声が、思ったより鋭く出た。

 下役が目を上げる。

「灰面長屋も、ですか」

「はい」

「欠け面横丁も」

「はい。仮置き面の不正使用、未認定面の流通、資格外修復の疑いがあるため、後日確認予定です」

 疑い。

 その言葉ひとつで、あの場所にある面が全部、裁きの台に乗せられる。

 灰面長屋。

 戦災で家の生面を失った者。
 仮面籍が途切れた者。
 古い役面を直しながら、かろうじて暮らしている者。
 子どものころのイロハと同じように、どの棚にも入れなかった者たち。

 欠け面横丁。

 正規の店に持ち込めない面。
 割れた生面。
 職を失った職面。
 名前はあるのに、役が曖昧になった人たちが隠れるように訪れる路地。

 そこに仮面籍庁が来る。

 白札と黒札を持って。

 イロハの視界が、また白くちらついた。

 月の白ではない。

 役所の白。

 消去するための白。

「イロハ」

 低い声がした。

 振り返ると、面師小路のほうから、小柄な使い走りの少年が駆けてきていた。

 ロウセツの工房でたまに荷を運ぶ子だ。

 少年は息を切らしながら、イロハへ折り畳まれた紙片を差し出した。

「ロウセツ親方から」

 イロハは震える指でそれを受け取った。

 紙には、短い文が書かれていた。

 灰面長屋へ行け。
 役を定められなかった者たちを見てこい。
 お前が何と戦うのか、そこにある。

 師匠の字だった。

 癖の強い、乱暴な字。

 だが、その字を見た瞬間、イロハの胸の奥に小さな火が戻った。

 ロウセツは知っている。

 仮面籍庁が来ることを。

 灰面長屋が、次に札を置かれる場所になることを。

 そして、そこに行かなければ、イロハが本当に戦う相手を見誤ることも。

 イロハは紙片を握りしめた。

「白影宮だけじゃない」

 呟きだった。

 けれど、アヤメには届いた。

「どこへ行くのです」

 イロハは顔を上げた。

 仮面籍庁の門は、まだ背後にある。

 けれど、もうそこだけを見てはいなかった。

「面を持てなかった人たちのところへ」

 アヤメの目が細くなる。

「灰面長屋ですか」

「はい」

「そこは、白影宮の管轄ではありません」

「わかっています」

「仮面籍庁の監視対象になります」

「だから行きます」

 イロハは、道具袋を肩にかけ直した。

 重い。

 だが、さっきまでとは違う重さだった。

 何もできない重さではない。

 持っていくべきものの重さだ。

「サヨ様の面を作るには、まだない役を知らなきゃいけない。なら、見なきゃいけません。役を定められなかった人たちが、どうやって息をしているのか」

 アヤメは少しだけ黙った。

 そして、静かに言った。

「私は白影宮へ戻り、サヨ様へ報告します」

「はい」

「ですが」

 アヤメの声が、わずかに柔らかくなる。

「あなたが灰面長屋へ行くことも、必ず伝えます」

 イロハは頷いた。

「お願いします」

 アヤメは、白影宮の方角へ一礼するように目を伏せ、それからイロハへ向き直った。

「イロハ殿」

「はい」

「今日、あなたは何度も危うい発言をしました」

「……すみません」

「謝ることではありません」

 アヤメは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「ただし、次は追い出されない言い方も覚えてください。サヨ様の面を作るまで、あなたに退席されるわけにはいきません」

 その言葉に、イロハはようやく小さく笑えた。

「努力します」

 セイランが近づいてきた。

 手には仮記録扱いになった報告書がある。

「私も、陰陽寮へ戻ります。ただ、灰面長屋の古い仮面籍記録を調べてみます」

「いいんですか」

「正式記録にはできないかもしれません」

 セイランは少し苦く笑った。

「ですが、仮記録なら残せます」

 ヒヨリが袖から顔を出し、尾で空中に小さく書く。

 残す。

 イロハは頷いた。

「お願いします」

 ハルマサは少し離れた場所に立っていた。

 封役札を添えられた面箱を抱えている。

 彼はイロハへ深く頭を下げた。

「私は、アカツキ家へ戻ります」

「ハルマサさん」

「刀を公的に抜くことはできません。ですが、灰面長屋へ仮面籍庁が向かうなら、東郭の動きは調べます」

「でも、あなたは」

「番衆ではありません」

 ハルマサは、静かに言った。

「今は。ただのハルマサ=アカツキです。けれど、守りたいものは消えていません」

 イロハは、胸が熱くなった。

「ありがとうございます」

 ユラもまた、面箱を抱えたまま近づいてきた。

 彼女は何も言わず、袖の中の鈴をイロハへ見せた。

 鳴らさない。

 ただ、そこにあることを示す。

 私はまだ舞を捨てていない。

 そう言っているようだった。

 イロハは、深く頷いた。

「必ず、また舞えるようにします」

 ユラは小さく首を横に振った。

「いいえ」

 細い声だった。

「わたしも、思い出します。神を迎える沈黙を。あなたに全部預けるのではなく」

 その言葉に、イロハは息を止めた。

 ユラは弱々しく見える。

 けれど、彼女もまた、自分の役を取り戻そうとしている。

 札を置かれても、舞台から遠ざけられても、まだ終わっていない。

 イロハは、もう一度仮面籍庁の門を見た。

 白札と黒札で人を閉じる場所。

 けれど、門の外には、まだ動く人たちがいる。

 封じられても、保留されても、仮に落とされても。

 それぞれの場所で、まだ終わらせない人たちがいる。

 イロハは、灰面長屋の方角へ歩き出した。

 帝都カミザの雅やかな通りから外れ、面師小路のさらに奥へ。

 白木の回廊も、朱塗りの舞台も、黒漆の門も遠ざかっていく。

 代わりに、古い木戸、傾いた軒、修理待ちの面を吊るした細い路地が近づいてくる。

 役を定められなかった者たちの場所。

 かつての自分に近い者たちの場所。

 イロハの足取りは、重かった。

 それでも、止まらなかった。

 そのころ。

 仮面籍庁の奥では、アリノリ=シジョウがひとり、定役面《コトサダメ》を白漆の面箱へ戻していた。

 下役たちはすでに退いている。

 審査所に残るのは、黒漆の棚と、白札の束と、閉じられた面箱だけだった。

 アリノリは《コトサダメ》を両手で持ち、しばらくその裏側を見つめた。

 役名符は、もう震えていない。

 けれど、符の隙間に、ほんの一瞬だけ白い半面が映った。

 鏡ノ客。

 目穴のない面が、彼を見ていた。

 王朝を守る者。
 有る役しか認めぬ者。
 未在を恐れる者。
 定まらぬものを封じる者。

 アリノリは、その白い半面を見ても、眉ひとつ動かさなかった。

「未在は、王朝を乱す」

 静かな声だった。

 言い聞かせるようでも、祈るようでもない。

 ただ、結論を確認する声。

「定まらぬ役は、定める。定められぬなら、封じる」

 彼は《コトサダメ》を面箱の内側へ収めた。

 白い半面は、蓋の影に隠れる。

 かちり。

 面箱が閉じられた。

 その瞬間、白漆の面箱の裏側に、小さな月痕が浮かんだ。

 噛み跡のような、細い白。

 アリノリはそれに気づいていた。

 気づいていて、何も言わなかった。

 ただ、面箱を棚へ戻す。

 黒漆の棚に、白漆の箱が収まる。

 仮面籍庁の奥で、札が静かに眠っている。

 白札も。
 黒札も。
 黒縁の白札も。

 月は空にない。

 それでも、役を喰う白は、もう王朝の棚の内側に残っていた。