EP 52

第6話 灰面長屋

序節 ― 灰の面を干す町

 面は、顔を与えるものだという。

 けれど、顔を買えぬ者はどうするのか。

 面を失った者は、もう誰にも見られぬのか。

 舞台に上がれぬ者たちは、舞台の外で、それでも息をしている。

 ――ならば、そこにも舞はあるのだろうか。

 仮面籍庁の黒漆の門が、背後で遠ざかっていく。

 イロハ=ナギは、ロウセツから届いた紙片を握りしめたまま、帝都カミザの外縁へ向かって歩いていた。

 灰面長屋へ行け。
 役を定められなかった者たちを見てこい。
 お前が何と戦うのか、そこにある。

 乱暴な字だった。

 いつもの師匠の字だ。

 曲がっていて、跳ねていて、読む者への配慮など少しもない。けれど、イロハにはその字の奥に、乾いた木粉と漆の匂い、煙管の煙、そして照れ隠しのような無愛想さまで感じ取れた。

 師匠は、いつもそうだった。

 大事なことほど、長く言わない。

 説明する代わりに、見に行けと言う。

 考える代わりに、手を動かせと言う。

 そして今もまた、イロハを白影宮ではなく、灰面長屋へ向かわせている。

 白影宮へ戻ることはできなかった。

 仮面籍庁の判定により、イロハは白影宮への単独出入りを制限された。皇族面への直接作業も禁止された。《ナギノオモテ》には登録確認命令が出され、ロウセツの工房には後日査察が入る。

 その言葉は、まだ耳の奥に残っている。

 白札。
 黒縁の白札。
 灰札。
 保留候補。
 確認命令。

 どれも紙の言葉だった。

 けれど、それらは確かに人の足を止める。

 ユラは舞台から遠ざけられた。
 ハルマサは刀を公的に抜けなくなった。
 セイランの記録は仮記録に落とされた。
 サヨは役名保留候補とされた。
 そしてイロハ自身も、サヨの面へ近づく道を閉じられた。

 月が喰った傷を、人が札で固定していく。

 イロハは、唇を噛んだ。

 それでも、歩くしかなかった。

 帝都カミザの中心は、いつも通り美しかった。

 白木の回廊は朝の光を受けて淡く輝き、黒漆の門はきちんと磨かれ、朱塗りの舞台には祭礼のための布が掛けられていた。役面市の店先では、職面や祈面が整然と並び、仮面籍のある者たちが、今日もそれぞれの役を選び、整え、磨いている。

 面のある人々の町。

 そこでは、誰もがどこかへ属しているように見えた。

 商家の者は商家の面を持ち、神楽師は舞の面を持ち、武士は戦面を持ち、役人は官面を持つ。子どもでさえ、家の奥にしまわれた生面によって、どこの家の者かを示されている。

 けれど、イロハが路地を折れ、さらに奥へ進むにつれ、都の顔は少しずつ変わっていった。

 白木の回廊は途切れた。

 黒漆の門は見えなくなった。

 朱塗りの舞台の笛や太鼓の音も、遠く霞んでいった。

 代わりに現れたのは、灰色の板塀だった。

 雨に濡れて色の抜けた長屋。
 傾いた軒。
 割れた瓦。
 古い井戸。
 煤けた面箱を椅子代わりにしている老人。
 物干し紐に吊るされた、乾きかけの布と、修理途中の欠けた面。

 そこでは、面は棚に納められていなかった。

 干されていた。

 白い布と一緒に、割れた生面が風に揺れている。片目の欠けた職面が、紐で吊るされている。漆を塗り直された祈面が、日陰で静かに乾かされている。

 面は神聖な器ではなく、生活の道具だった。

 直して、干して、また使う。

 誰かに見せるためではない。
 明日も水を汲みに行くため。
 米を買うため。
 店先で追い返されないため。
 自分がまだ誰かであると、かろうじて示すため。

 灰面長屋。

 帝都の外縁にある、仮面籍からこぼれた者たちの町。

 イロハは、その空気を吸った。

 湿った木と、古い漆と、煮炊きの煙。
 干された布の匂い。
 雨漏りした畳の匂い。
 そして、どこか懐かしい、欠けた面の匂い。

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 ここを知っている。

 はじめて来たわけではない。

 幼い頃のイロハは、この匂いの中にいた。

 まだイロハ=ナギという名が、今ほど自分のものではなかった頃。

 生面を失い、家もなく、どの棚にも入れられなかった頃。

 役所の前で、誰かが言った。

 ――この子は、どこの家の面を持つ。

 別の誰かが答えた。

 ――記録にない。

 記録にない。

 その一言で、自分の足元が消えたような気がした。

 名前はあったはずだ。
 呼ばれていた気もする。
 泣いたことも、寒かったことも、手を引かれたことも覚えている。

 けれど、家の面がなかった。

 生面がなかった。

 だから、そこでは自分が何者なのか、誰にも言えなかった。

 イロハは立ち止まり、物干し紐に揺れる欠けた面を見上げた。

 片方の頬が割れている。

 けれど、その割れ目には丁寧に漆が入れられていた。

 完全には戻らない。

 でも、捨てられてはいない。

 その面を見ていると、胸の奥で別の記憶が疼いた。

 灰の降る道。

 焦げた木の匂い。

 誰かの袖を掴もうとして、空を掴んだ手。

 そして、低い声。

 ――息はできるか。

 イロハは目を伏せた。

 師匠の声だ。

 ロウセツ=カガミ。

 あの時、彼は名を聞かなかった。
 家も聞かなかった。
 役も聞かなかった。

 ただ、息はできるか、と聞いた。

 幼い自分は、答えられなかった。

 泣くこともできなかった。

 泣く役さえ、どこかへ落としてきたようだった。

 イロハは、手の中の紙片を握り直した。

 お前が何と戦うのか、そこにある。

 師匠。

 私は、何と戦えばいいんですか。

 月ですか。
 仮面籍庁ですか。
 定役面《コトサダメ》ですか。
 それとも、面を持たない者を映さない、この国そのものですか。

 答えは返ってこない。

 ただ、長屋の奥から、子どもの声が聞こえた。

「その面、こっちに干すと割れるぞ」

「だって、日が当たらないと乾かないじゃん」

「日が当たりすぎてもだめなんだよ。親方が言ってた」

 振り向くと、細い路地の先で、子どもたちが壊れた面箱を台にして、小さな面を並べていた。

 どれも本物の生面ではない。

 借り物。
 作りかけ。
 直し損ね。
 どこかの大人の面を削り直したもの。

 それでも子どもたちは、真剣な顔で面を扱っている。

 イロハは、胸の痛みを抱えたまま歩き出した。

 白影宮には行けない。

 けれど、ここには来られた。

 サヨの面を作るために、自分はまず、ここを見る必要がある。

 面を持てなかった人たちが、どうやって息をしているのか。

 役を定められなかった者たちが、どんな顔で今日を生きているのか。

 灰面長屋の奥から、風が吹いた。

 物干し紐に吊るされた欠け面たちが、からからと小さく鳴る。

 それは鈴の音ではなかった。

 神を迎える音でもない。

 けれどイロハには、それが舞台の外で鳴る、かすかな始まりの音に聞こえた。