EP 53

第6話 灰面長屋

第一節 ― 欠け面横丁

 欠け面横丁は、灰面長屋のさらに奥にあった。

 表通りからは見えない。

 洗い場の脇を抜け、古い井戸を回り、干された面の下をくぐるように進むと、急に道幅が狭くなる。両側の軒が互いにもたれかかり、昼だというのに薄暗い。雨の日には、軒から落ちる水が真ん中の溝を伝って流れるのだろう。石畳の隙間には、黒く乾いた漆の粒がこびりついていた。

 そこに、面が並んでいた。

 正規の面屋では、決して表へ出されない面ばかりだった。

 片目の欠けた職面。

 頬の削れた古面。

 紐だけがやけに新しい、持ち主不明の祈面。

 役名札の剥がされた生面。

 死者から流れた面箱。

 大人用の面を小さく削り直し、子どもの顔に合わせたもの。

 割れ目を漆で無理に埋めたせいで、片頬だけ盛り上がった面。

 それらは、整った棚には置かれていなかった。

 古い戸板の上に並べられ、煤けた布の上に伏せられ、軒先の釘に紐で吊るされていた。値札の代わりに、木片へ墨で短く書かれている。

 要修理。
 仮置き可。
 紐替え済。
 片目欠け。
 登録不明。
 持ち主相談。

 イロハは、その文字をひとつずつ見ながら歩いた。

 胸の奥が、重くなる。

 ここでは面が、商品というより、行き場を失った人そのものに見えた。

 誰かに捨てられたわけではない。
 けれど、正しい場所へ戻れない。
 まだ使える。
 けれど、正式には使えない。
 誰かの顔だったはずなのに、今は誰の顔として扱えばいいのかわからない。

 欠け面横丁にいる人々は、イロハを見ると、ちらりと視線を向けた。

 すぐには近づいてこない。

 店先で古面を磨いていた女は、布を面の上へそっと被せた。
 細い老人は、吊るしていた面箱を軒の奥へ引っ込めた。
 子どもを連れた若い母親は、子どもの頬へ布をかけるようにして、道の端へ寄った。

 イロハは立ち止まった。

 その反応を責めることはできない。

 今の自分は、中級面師の札を持っている。

 面師小路の裏工房の者とはいえ、資格は正規のものだ。灰面長屋の人々にとって、正規資格を持つ面師は助けにもなる。壊れた面を直し、役が薄れた面を読めるかもしれない。

 けれど同時に、制度側の人間にも見える。

 仮面籍庁が動いたばかりだ。

 灰札が来る。

 未認定面が確認される。

 仮置き面が提出を求められる。

 その噂は、もうここまで届いているのだろう。

 イロハは、自分の道具袋へ手を添えた。

 いつもなら、この袋は安心をくれた。彫刻刀、仮札、面紐、古い漆壺、柔らかな布。面を直すためのものたち。

 でも今は、その道具袋さえ人を怯えさせているように思えた。

 自分は、助ける者として見られていない。

 裁く者の側から来たように見えている。

 その事実が、胸に刺さった。

「おい」

 しわがれた声がした。

 横丁の奥、古い店先に腰かけた老人が、イロハを見ていた。

 背は小さく、髪は灰色。片頬に、古い火傷の痕がある。膝の上には、磨きかけの古面が置かれていた。

 その面は、左の眉のあたりが割れていた。

 老人はイロハをじっと見て、目を細める。

「ロウセツ親方のところの子か」

 イロハは息を止めた。

「……はい」

 老人は、ふっと笑った。

「大きくなったな」

 その一言で、イロハの足元が揺れた。

 覚えられていた。

 自分は、この場所に。

 胸の奥から、忘れていた感覚がゆっくり上がってくる。

 小さな手。
 大人の袖。
 古い戸板の匂い。
 軒先に吊られた欠け面。
 寒さ。
 空腹。
 それから、誰かが自分を見て、見ないふりをした気配。

 でも、この老人は覚えていたのだ。

 あの時の、自分を。

「私を……知っているんですか」

 イロハの声は、自分でも驚くほど小さかった。

 老人は、膝の上の古面を布で拭きながら頷いた。

「知ってるとも。顔のない子が、ロウセツ親方に拾われていった。あの日は、この横丁じゃしばらく噂だった」

「顔のない子……」

「悪く取るな。ここじゃ、そういう言い方をする」

 老人は、割れた面を持ち上げた。

「面を失った者。生面を焼かれた者。仮面籍が切れた者。役名札を剥がされた者。ここでは皆、一度は顔のない者になる」

 イロハは、言葉を失った。

 老人は、面を横に置き、店先の小さな椅子を顎で示した。

「座れ。突っ立ってると、みんな余計に怯える」

 イロハは少しためらい、それから腰を下ろした。

 木の椅子は古く、片足が少し短い。座ると、かた、と揺れた。

 老人は隣の茶碗を差し出す。

「茶は薄いぞ」

「ありがとうございます」

 茶碗の中には、ほとんど色のない茶が入っていた。

 それでも、温かかった。

 イロハは両手で受け取り、少しだけ口をつける。

 横丁の人々は、まだこちらを見ている。

 けれど、老人が声をかけたことで、ほんの少し空気が変わった。面を隠した女が布を少しだけずらし、若い母親が子どもの肩から手を離す。

 老人は言った。

「わしはゴウラ。古面商だ。もっとも、表の面屋から見りゃ、面商じゃなくて面屑拾いだろうがな」

「ゴウラさん」

「お前、ロウセツ親方の工房で働いてるんだろう」

「はい」

「中級面師になったと聞いた」

 イロハは少しだけ肩を縮めた。

「一応、です」

「一応でも札があるなら立派なものだ。この横丁じゃ、札のある手は貴重だ」

 そう言いながら、ゴウラは片目の欠けた職面を手に取った。

「こいつを見ろ」

 イロハは、茶碗を置いて面を受け取った。

 商人用の職面だろう。口元に愛想笑いの線があり、眉は柔らかい。けれど右目が欠けている。欠けた部分には、別の木片がはめられ、漆で止められていた。

 乱暴な修理だ。

 けれど、必死さがある。

 イロハは内側を見た。

 薄い。

 役が薄い。

 もともとは小間物を売る商人の職面だったようだが、持ち主が変わったのか、長く使われなかったのか、役の呼びかけが弱っている。

「……商人の面ですね。でも、今の持ち主とは少し合っていない」

 ゴウラは目を細めた。

「わかるか」

「はい。片目が欠けたせいだけじゃありません。たぶん、もとの持ち主の商いと、今の持ち主の商いが違うんです。声が少しずれている」

「今は油売りが使ってる。もとは針売りの面だ」

 イロハは頷いた。

「無理に使えば、商いの言葉が滑ります。客の顔は見られるけれど、値を決めるところで迷うかもしれない」

「その通りだ」

 ゴウラは、満足げに鼻を鳴らした。

「ロウセツ親方の目だな」

 イロハは苦笑しかけて、止まった。

 師匠の目。

 それは褒め言葉なのだろう。

 けれど今は、その言葉が重い。

 ロウセツはイロハを救った。

 だが同時に、ロウセツは禁忌を犯した。

 役のない子どもに、面を与えた。

 自分の生まれながらの役を、作り変えるような面を。

 イロハは、腰の鍵を意識した。

 《ナギノオモテ》は、今日も開けていない。

 師匠に言われたからだけではない。

 開けるのが、少し怖くなっていた。

 ゴウラは、そんなイロハの様子に気づいたようだった。

「どうした。親方と喧嘩でもしたか」

「いえ」

「なら、仮面籍庁か」

 イロハは顔を上げた。

 ゴウラは、皺だらけの顔で静かに笑った。

「ここに来る奴の悩みなんざ、たいてい面か役所だ。お前の場合は、両方だろう」

 イロハは、否定できなかった。

「仮面籍庁が、灰面長屋と欠け面横丁の面も再検査対象にすると言っています」

 ゴウラは笑みを消した。

 店先の空気が、一瞬で冷えた。

 近くで面を拭いていた女が手を止める。奥にいた子どもが、戸板の陰へ隠れた。

「……やっぱり来たか」

 ゴウラの声は低かった。

「ご存じだったんですか」

「来ないわけがない。白化だの不安定役だの騒ぎになりゃ、連中はまず上の面を調べる。それが終われば、次は下だ」

「下……」

「ここさ」

 ゴウラは横丁を顎で示した。

「正規の棚に置けない面。台帳と合わない面。持ち主がわからない面。役名札の剥がれた面。仮置きでなんとか息をしてる面。役所から見れば、全部乱れだ」

 イロハは、店先に並ぶ面を見た。

 乱れ。

 そう呼ぶことはできるのかもしれない。

 登録不明。
 持ち主不一致。
 修復不完全。
 未認定。

 仮面籍庁の言葉なら、いくらでも名前をつけられる。

 けれど、イロハにはそれらが生活に見えた。

 誰かが明日も店に立つための面。
 子どもが水を汲みに行くための面。
 老人が「まだ自分はここにいる」と示すための面。

 ゴウラは、片目の職面をイロハから受け取った。

「お前は、何しに来た」

 その問いに、イロハはすぐに答えられなかった。

 師匠に言われたから。

 灰面長屋を見ろと言われたから。

 自分が何と戦うのかを知るために。

 いくつも答えはある。

 けれど、どれもまだ自分の言葉になっていなかった。

「……見に来ました」

 イロハは、ようやく言った。

「ここで、面を持てなかった人たちが、どうやって息をしているのかを」

 ゴウラは黙っていた。

 イロハは続ける。

「私は、白影宮の皇女様の面を作ろうとしています。でも、その方には初めから面がありません。役も、台帳にありません。仮面籍庁は、役名保留候補にしました」

 ゴウラの目が、わずかに動いた。

「皇女様が、か」

「はい」

「上にも、そういう者がいるのか」

 その言い方に、イロハは胸を突かれた。

 上にも。

 そうだ。

 サヨは王朝の奥にいる。

 灰面長屋の人々とは、何もかも違う。

 住む場所も、食べる物も、着るものも、守る者の数も。

 けれど、面がないという一点で、同じ場所に触れている。

 存在しにくい。

 この国の中に、自分を置く棚がない。

「だから、見たいんです」

 イロハは言った。

「役を定められなかった人たちの面を。定められなくても、どうやって生きているのかを」

 ゴウラは、しばらくイロハを見ていた。

 やがて、低く笑った。

「面師らしくなったな」

「そうですか」

「少なくとも、役人の顔ではない」

 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

 ゴウラは店の奥へ手を伸ばし、古い小さな面を取り出した。

 子ども用の面だった。

 いや、正確には子ども用に削り直された大人の面だ。頬の幅を狭め、顎を削り、紐穴を開け直してある。けれど、目元の線はまだ大人のままで、子どもの顔にはどこか重すぎる。

「なら、まずこれを見てやれ」

「これは」

「ミツの面だ」

「ミツ?」

 ゴウラは横丁の奥へ声をかけた。

「ミツ。出てこい。ロウセツ親方のところの面師だ」

 しばらく沈黙があった。

 それから、戸板の陰から小さな子どもが顔を出した。

 年は七つか八つほど。

 髪は短く、ところどころ跳ねている。着物は何度も継ぎ当てされていた。顔には面をつけていない。けれど、面をつけていないことを隠すように、手で口元を押さえている。

 その子の目が、イロハをじっと見た。

 怯えと警戒。

 そして、ほんの少しの期待。

 イロハは息を呑んだ。

 自分を見ているようだった。

 幼い頃の。

 どこの棚にも置かれず、誰の役にも入れず、ただ息の仕方だけを忘れかけていた頃の自分を。

 ゴウラが言った。

「この子は、まだ自分の面を持っていない」

 ミツは、戸板の陰から半分だけ出てきた。

 イロハはゆっくり膝をつき、目線を合わせた。

「こんにちは。イロハ=ナギです」

 ミツは少し黙ってから、小さく答えた。

「……ミツ=ハイノ」

 名前は言える。

 けれど、その名の後ろに、家の面の響きが薄い。

 イロハは、そのことに気づいてしまった。

 胸の奥が、また痛んだ。

 欠け面横丁の風が、軒先の面を揺らす。

 から、と小さく、面同士が触れ合う音がした。

 それは、次に診るべき顔がここにあると告げる音のようだった。