EP 54

第6話 灰面長屋

第二節 ― 仮面籍からこぼれた子

 ミツ=ハイノは、戸板の陰からなかなか出てこなかった。

 イロハが膝をついたまま待っていると、ゴウラが鼻を鳴らした。

「ほら、怖がるな。取って食いやしねえ」

「役所の人じゃない?」

 ミツは、まずそこを聞いた。

 小さな声だった。

 けれど、その問いには、子どもらしい警戒以上のものがあった。

 役所の人かどうか。

 この町では、それが最初に確かめるべきことなのだ。

 イロハは、少しだけ胸が痛んだ。

「違うよ。私は面師」

「札を貼る人?」

「面を直す人」

 ミツはまだ疑っているようだった。

 イロハは道具袋から、白い布に包んだ小さな面紐を取り出した。

「ほら。これは修理用。面を取り上げるためのものじゃない」

 ミツはようやく、戸板の陰から一歩出てきた。

 痩せた子だった。

 着物は何度も縫い直され、袖の長さが左右で少し違う。膝のあたりに灰色の汚れがついていて、足袋のつま先は薄く破れている。

 顔は、まだ幼い。

 けれど、幼い子ども特有の無防備さは少なかった。

 誰かに見られることに慣れていない顔だった。

 いや、違う。

 見られないことに慣れてしまった顔だった。

 ゴウラは、先ほどの子ども面をイロハへ渡した。

「これだ」

 イロハは両手で受け取った。

 小さな面。

 子ども用と言うには、目元の線が硬い。もとは大人の面だったものを削り直したのだろう。頬は薄く削られ、顎も丸く整えられているが、内側には古い大人の息の痕が残っている。

 面紐は新しい。

 けれど、紐穴は雑に開け直されていた。片方は少し高く、もう片方は低い。そのせいで、つけると面がわずかに傾くはずだった。

 イロハは内側を覗く。

 役がない。

 いや、完全にないわけではない。

 残っているのは、誰か別の家の子どもの名残だった。昔、その家で使われていた生面に近いもの。だが、ミツのものではない。

 合っていない。

 けれど、何もないよりはましだと、無理に顔へ結びつけられている。

 イロハは、面の内側に指を添えた。

「これ、つけると痛いでしょう」

 ミツは驚いたように目を上げた。

「なんでわかるの」

「紐穴がずれているから。右の耳の後ろ、擦れるんじゃない?」

 ミツは、反射的に右耳の後ろを押さえた。

 そこには、赤くなった擦り傷があった。

「……ちょっとだけ」

「ちょっとじゃないね」

 イロハは布を広げ、面をその上に置いた。

「いつから使ってるの?」

「春から」

「その前は?」

 ミツは黙った。

 ゴウラが代わりに言った。

「この子は戦で家を失った。ハイノの家筋はあったが、家の生面は焼けた。親族も見つからん。仮面籍の控えも途切れている」

 イロハは、息を詰めた。

 ミツは、自分の名前は持っている。

 ミツ=ハイノ。

 けれど、その名を支える家の面がない。

 生まれた家を示す生面がない。

 まだ職面を持つ年齢でもない。

 祈面をつけて神前に立つ立場でもない。

 つまり、この子は制度上、どこにも置けない。

 イロハは、ミツの顔を見た。

 その顔が、幼い頃の自分と重なった。

 役所の前。

 寒い朝。

 誰かが言った。

 ――この子はどこの家の面を持つ。

 誰も答えられなかった。

 その時、自分は名前を持っていたのだろうか。

 持っていたはずだ。

 でも、その名前を置く棚がなかった。

 だから、世界が自分をうまく見てくれなかった。

 ミツは、足先で地面をこすりながら言った。

「面がないと、店の人が目を合わせてくれないんだ」

 イロハは、何も言えなかった。

 ミツは続けた。

「おにぎりを買いに行っても、誰の使いかって聞かれる。水を汲みに行っても、どこの長屋の子かって聞かれる。名前を言っても、面はって言われる」

 小さな手が、自分の顔の前に上がる。

 面をつけていない口元を隠すように。

「でも、借り物の面をつけると、今度は誰の子かわからないって言われる」

 横丁の音が、遠くなった。

 古面を磨く布の音。
 軒先の面が触れ合う音。
 水桶の底で揺れる水の音。

 それらがすべて、ミツの言葉の後ろへ退いていく。

「面がないと、見てもらえない。でも、違う面をつけると、嘘つきみたいに見られる」

 ミツは、そう言ってから、しまったという顔をした。

 言い過ぎたと思ったのかもしれない。

 怒られると思ったのかもしれない。

 イロハは、ゆっくり首を横に振った。

「嘘つきじゃないよ」

 ミツは、顔を上げた。

「でも、この面、ぼくのじゃない」

「うん」

 イロハは、面を見下ろした。

「これは、ミツの面じゃない」

 ミツの顔がこわばる。

 ゴウラが眉をひそめた。

「おい、イロハ」

 イロハは続けた。

「でも、だからってミツが嘘つきになるわけじゃない。これは、まだミツの顔に追いついていない面なんだと思う」

「追いついてない?」

「うん。面のほうが、まだミツを知らない」

 ミツは、意味がわからないという顔をした。

 イロハは、少し考えてから言葉を選んだ。

「面って、つけたら終わりじゃないの。持ち主の息を覚えて、歩き方を覚えて、声を覚えて、だんだんその人に馴染んでいく。でもこの面は、もともと別の人の息を覚えている。だから、ミツの顔に合わせようとして、迷っている」

 ミツは、面をじっと見た。

「この面も、迷うの?」

「迷うよ」

 イロハは微笑んだ。

「面も、迷う」

 ゴウラが小さく笑った。

「ロウセツ親方みたいなことを言う」

「師匠なら、もっと乱暴に言います」

「違いない」

 そのやり取りで、ミツの肩が少しだけ下がった。

 イロハは、面紐を外し、内側を丁寧に拭いた。

「少し直してもいい?」

「取らない?」

「取らない」

「役所に渡さない?」

「渡さない」

「ほんとに?」

 イロハは、ミツの目を見た。

「ほんとに」

 ミツはしばらく迷い、それから小さく頷いた。

 イロハは道具袋から細い木片と柔らかな布、調整用の仮紐を取り出した。

 本格的な修復ではない。

 ここで新しい役を置くことはできない。

 してはいけない。

 ミツにはまだ、戻すべき役がない。

 ユラには、神楽師としての役があった。
 ハルマサには、人々の前に立ち、害を通さない役があった。
 カンナには、夜の香で宮を眠らせる役があった。
 セイランには、読めぬものも残す役があった。

 けれど、ミツにはまだ、制度上の役がない。

 ここでイロハが勝手に仮置きをすれば、それは救いではなく、押しつけになる。

 この子を、この子ではないどこかの棚に無理やり入れることになる。

 イロハは、指先を止めた。

 怖い。

 初めて、自分の手が怖かった。

 直すことと、決めることは違う。

 助けることと、作り変えることは違う。

 第5話で、アリノリは何度も「別です」と言った。

 その言葉が嫌いだった。

 人の痛みを切り分ける言葉に聞こえた。

 けれど今、その「別」が自分の中に刺さっている。

 救われたことと、変えられなかったことは別なのかもしれない。

 ロウセツは、自分を救った。

 でも。

 自分は《ナギノオモテ》を与えられたことで、何か別のものに作り変えられたのではないか。

 イロハは、腰の鍵を無意識に押さえた。

 ミツがそれに気づく。

「そこに、面があるの?」

 イロハは息を止めた。

「……うん」

「イロハさんの?」

「そう。私の面」

「つけないの?」

 イロハは、すぐには答えられなかった。

 《ナギノオモテ》。

 師匠が与えた面。

 イロハ=ナギとして、この国に立つための面。

 けれど今は、その面が何なのか、自分でもわからなくなっている。

「今日は、まだ」

 イロハはそう答えた。

 ミツは不思議そうに首を傾げた。

「自分の面なのに?」

「うん」

 イロハは、少し笑った。

「自分の面だから、怖い時もある」

 ミツは、黙ってそれを聞いていた。

 子どもには難しい話だったかもしれない。

 でも、わからないなりに受け取ってくれたようだった。

 イロハは、面の紐穴を少し整え、右側へ薄い当て布をつけた。耳の後ろが擦れないように、紐の通し方を変える。

 役は置かない。

 名も書かない。

 ただ、この子が今日、痛くなく面をつけられるようにする。

 それだけなら、今のイロハにもできる。

「つけてみて」

 イロハは、面をミツへ差し出した。

 ミツは恐る恐る受け取り、顔へ当てた。

 紐を結ぶ。

 今度は、少しだけまっすぐだった。

 ミツは目を瞬かせる。

「痛くない」

「よかった」

「ずれてない?」

「少しはずれてる。でも、前よりはいい」

「……ぼくの面になる?」

 その問いに、イロハは胸を突かれた。

 なる。

 そう言ってあげたかった。

 でも、言えなかった。

 この面は、まだミツの生面ではない。

 仮面籍にも載っていない。

 役名も安定していない。

 そして何より、ミツ自身がこれから何者として立つのかを、まだ誰も知らない。

 イロハは、正直に言った。

「まだ、わからない」

 ミツの目が少し沈む。

 イロハは続けた。

「でも、今日この面をつけて水を汲みに行く時、少し痛くなくなる。それはできた」

 ミツは、面の上から耳の後ろを触った。

「うん」

「明日も、少し直せるかもしれない。明後日も。そのうち、この面がミツの息を覚えるかもしれない。別の面が必要になるかもしれない。まだわからない」

「わからないばっかり」

「うん」

 イロハは頷いた。

「でも、勝手に決めるよりは、わからないまま一緒に見るほうがいいと思う」

 ミツは、じっとイロハを見た。

 面越しの目だった。

 少しだけ、光が戻っている。

「イロハさんも、そうしてもらった?」

 イロハは、答えられなかった。

 ロウセツは、自分にそうしてくれただろうか。

 勝手に決めずに、一緒に見てくれただろうか。

 それとも。

 息をするために必要だったから、先に面を与えたのだろうか。

 救うために。

 作り変えることになっても。

 ゴウラが静かに言った。

「その答えは、親方に聞くしかないな」

 イロハは、うつむいた。

「……はい」

 欠け面横丁の奥で、風が吹いた。

 吊るされた面たちが、からからと鳴る。

 ミツは、少しだけ面を押さえながら、路地の明るいほうを見た。

「これなら、井戸に行けるかな」

「行けるよ」

 イロハは言った。

「でも、誰かに何か言われたら、ゴウラさんのところに戻っておいで。私も、今日はこの辺りにいるから」

「うん」

 ミツは、小さく頷いた。

 その時、横丁の入り口のほうが少し騒がしくなった。

 人の気配。

 車輪の音。

 布で隠した小さな御簾車が、灰面長屋の狭い道へ入ってくる音だった。

 ゴウラが眉をひそめる。

「なんだ、こんな奥まで」

 イロハは顔を上げた。

 御簾車の横に立つ影を見て、息を呑む。

 白羽のように静かな立ち姿。

 周囲を警戒する、鋭い目。

 アヤメ=シラハだった。

 そして御簾の内側から、静かな声がした。

「イロハ」

 サヨ=ミカゲの声だった。

 イロハは立ち上がった。

「サヨ様……?」

 灰面長屋の空気が、一瞬で変わる。

 面を持てなかった子どもの前に、面のない皇女が現れた。