EP 55

第6話 灰面長屋

第三節 ― 密かに来た皇女

 御簾車は、灰面長屋の道には似合わなかった。

 いや、似合わないように作られているはずのものだった。

 白影宮で使われるような白木の車でも、銀糸の御簾でもない。車輪は古び、外側には煤けた布が掛けられている。遠目には、病人か年寄りを運ぶための粗末な車にしか見えない。

 けれど、イロハにはわかった。

 そこに漂う香の気配が、白影宮のものだった。

 沈香をさらに薄く焚いたような、夜の奥に残る静けさ。

 そして、車の横に立つアヤメ=シラハの姿。

 女房姿に身を隠してはいるが、その立ち方だけは隠せていない。背筋はまっすぐで、右手はいつでも袖の内の短刀へ届く位置にある。周囲を見る目は、灰面長屋の軒、井戸、物陰、吊るされた古面の裏までひとつずつ確かめていた。

 アヤメは、ここにいること自体に不満がある顔をしていた。

 だが、止めなかったのだ。

 止められなかったのかもしれない。

 御簾の内側から、静かな声がもう一度聞こえた。

「イロハ」

 サヨ=ミカゲの声だった。

 イロハは思わず一歩近づきかけ、それから周囲を見て立ち止まった。

 灰面長屋の人々が、こちらを見ている。

 古面商のゴウラも。
 面を隠した女も。
 戸板の陰にいる子どもたちも。
 そして、ミツも。

 ここで「サヨ様」と呼べば、何かが露見する。

 けれど、その前にアヤメが低く言った。

「声を落としてください」

 イロハは息を呑み、小さく頷いた。

 御簾が細く開く。

 中から降りてきたのは、白影宮の皇女ではなかった。

 少なくとも、見た目だけなら。

 地味な女房装束。
 目立たぬ灰桜の小袖。
 髪もいつものように整えられてはいるが、飾りは少ない。顔を隠すように薄い布をかけている。

 けれど、その立ち姿の静けさだけは隠せなかった。

 灰面長屋の狭い路地に立っても、サヨはサヨだった。

 高貴さというより、空白の中で自分を崩さずに立つ人の静けさ。

 イロハは、思わず言った。

「どうしてここに」

 サヨは、薄布の下からイロハを見た。

「あなたが白影宮へ来られないのなら、わたしが来るしかありません」

「でも、ここは」

「白影宮ではありません」

 サヨは静かに答えた。

「そして、公式儀礼の場でもありません」

 その言葉に、イロハは息を止めた。

 第5話の判定。

 サヨ=ミカゲ。
 役名保留候補。
 白影宮外の公式儀礼参加、当面停止。

 公式儀礼ではない。

 だから来た。

 その理屈は正しいのかもしれない。

 けれど、危うい。

 あまりにも危うい。

 アヤメも同じことを思っているらしく、険しい表情で言った。

「私としては、今でも反対です」

「知っています」

 サヨは穏やかに答えた。

「ですが、あなたは止めませんでした」

「止めても、来られたでしょう」

「ええ」

「ならば、せめて私の目の届くところにいていただくほうがましです」

 そのやり取りに、イロハは少しだけ胸が温かくなった。

 アヤメは不満そうだ。

 けれど、サヨをただ閉じ込める護衛ではなくなっている。

 サヨが自分の役を探そうとするなら、その危険を見張りながらも、道を空ける。そんな立ち方をしている。

 サヨは、灰面長屋をゆっくり見回した。

 その視線は、珍しいものを見る宮人の好奇心ではなかった。

 吊るされた欠け面。
 古い井戸。
 煤けた面箱。
 戸板の上に並んだ未認定の面。
 面を抱えて隠れる子ども。
 布で顔を覆った女。

 それらを、ひとつひとつ受け止めている目だった。

「ここが、灰面長屋」

 サヨは呟いた。

 ゴウラが、低く答えた。

「そう呼ばれております。お忍びの方」

 その言い方に、アヤメの気配が一瞬鋭くなる。

 だが、ゴウラは頭を下げるだけだった。

 余計なことは聞かない。

 灰面長屋では、そういう礼儀もあるのだろう。

 サヨはゴウラへ小さく礼を返した。

「急に参って、申し訳ありません」

「ここは、急に来る者ばかりです」

 ゴウラは、しわがれた声で言った。

「家を失った者。面を失った者。役所から逃げてきた者。夜になってようやく、自分の顔がないことに気づいた者。急ではない者のほうが少ない」

 サヨは、少しだけ目を伏せた。

「そうですか」

 その声には、痛みがあった。

 イロハは、サヨがなぜここへ来たのかをようやく理解し始めていた。

 サヨは、白影宮から出たかっただけではない。

 自分が保留されたという事実を、白影宮の中だけで終わらせたくなかったのだ。

 サヨは、静かに言った。

「わたしは、役名を保留されました」

 アヤメがわずかに周囲を見た。

 だが、サヨは声を荒げない。

 ただ、そこにいる者たちへ向けて、隠さずに言う。

「ならば、保留された者がどこで息をしているのか、見ておきたいのです」

 横丁の空気が変わった。

 誰も、サヨが何者かを尋ねなかった。

 けれど、その言葉は、ここにいる人々の奥へ落ちた。

 保留された者。

 仮面籍に載らない者。
 役名札を剥がされた者。
 面を失った者。
 借り物の面で今日をやり過ごす者。

 灰面長屋には、その意味がわかる者が多すぎた。

 ミツが、イロハの後ろからそっと顔を出した。

 先ほど直した借り物の面をつけている。

 紐は少し整った。右耳の後ろも、もう痛くないはずだ。

 けれど、その面はまだミツのものではない。

 サヨの視線が、ミツに止まった。

 ミツは反射的に後ろへ下がろうとする。

 イロハは優しく言った。

「大丈夫」

 ミツは、イロハの袖をつまんだまま、サヨを見た。

 サヨは膝を少し折り、ミツの目線に近づいた。

 アヤメが慌てて周囲を見る。

 皇女が灰面長屋の土の上で膝を折るなど、本来なら許されないことなのだろう。

 だが、サヨは気にしなかった。

「あなたの面ですか」

 ミツは、少し迷ってから首を横に振った。

「借り物」

「そうですか」

「でも、イロハさんが直してくれたから、痛くなくなった」

 サヨは、イロハを見た。

 その目に、柔らかな感謝が浮かぶ。

 イロハは少しだけ視線を落とした。

「応急処置だけです。役を置いたわけじゃありません」

「置かなかったのですね」

 サヨは、そこを聞き返した。

 イロハは頷いた。

「置けませんでした。……いいえ、置いてはいけないと思いました」

 サヨは静かに聞いている。

 イロハは、言葉を探しながら続けた。

「ユラさんには、神楽師としての役がありました。ハルマサさんにも、守る役がありました。カンナさんにも、セイランさんにも。でも、この子には、まだ制度上の役がありません。そこに私が勝手に仮置きをしたら、それは、この子に別の誰かの役を押しつけることになるかもしれない」

 サヨの表情が、薄布の奥で少し変わった。

「あなたは、それを恐れたのですか」

「はい」

「ご自分の面のことも」

 イロハは、胸の奥を押されたような気がした。

 サヨは気づいている。

 《ナギノオモテ》への迷いに。

 師匠に救われたことと、自分が何かへ作り変えられたのではないかという疑いに。

 イロハは、すぐには答えられなかった。

 その沈黙を、ミツが不思議そうに見ていた。

「ねえ」

 ミツがサヨに言った。

「あなたも、面がないの?」

 アヤメが息を呑む。

 ゴウラも目を細めた。

 イロハは止めようとしたが、サヨが先に答えた。

「ええ」

 ミツは目を丸くした。

「大人なのに?」

「大人でも、面のない者はいます」

「じゃあ、お店で目を合わせてもらえない?」

 あまりにもまっすぐな問いだった。

 サヨは少しだけ黙った。

 それから、柔らかく首を横に振る。

「わたしの場合、目は合わせてもらえます」

「じゃあ、いいじゃん」

 ミツの声には、子どもらしい素直さがあった。

 だが、次のサヨの言葉で、その素直さが静かに受け止められる。

「けれど、儀礼には呼ばれません」

「ぎれい?」

「皆が、この国の中でどんな役を持つのかを示す、大事な場所です」

「そこに行けないの?」

「はい」

「なんで」

「わたしの役名が、まだ定まっていないからです」

 ミツは、眉を寄せた。

「それ、ぼくと同じ?」

 サヨは、少しだけ微笑んだ。

 悲しい微笑みだった。

「少し、似ています」

 イロハは、その二人を見ていた。

 面のない皇女。

 仮面籍からこぼれた子。

 あまりにも違う。

 サヨは白影宮の奥で守られている。
 ミツは灰面長屋の路地で自分の面を抱えている。

 サヨは高貴な装束を隠している。
 ミツには隠すものすらない。

 サヨは面がないために公式儀礼へ出られない。
 ミツは面がないために店にも、井戸にも、学校にも入りにくい。

 立っている場所は正反対だ。

 けれど、同じ場所がある。

 この国の中に、自分を置く棚がない。

 イロハは、胸の奥が熱くなった。

 そうだ。

 自分がサヨを助けたい理由は、皇女だからだけではない。

 もちろん、サヨは皇女だ。
 白影宮の主であり、アヤメが命をかけて守る人であり、王朝にとって重要な存在だ。

 けれど、イロハがあの空の面箱から目を離せないのは、それだけではない。

 サヨは、かつての自分と同じだ。

 役を置く場所がなく、顔を待っている人。

 どこかの棚に入れられるのではなく、自分が何者として立つのかをまだ探している人。

 だから、作りたいのだ。

 サヨが、この国で息をするための面を。

 でも、それは押しつけてはいけない。

 イロハが勝手に決めてはいけない。

 ミツの面に仮置きをしなかったように。

 サヨの未在面も、イロハが一方的に彫って与えるものではない。

 サヨ自身が、何者として立ちたいのか。

 それを知らなければならない。

「イロハ」

 サヨが呼んだ。

 イロハは顔を上げる。

「はい」

「ここへ来て、少しわかりました」

 サヨは、灰面長屋の路地を見渡した。

 欠けた面。
 干された面。
 隠された面。
 借り物の面。

 どれも、完全ではない。

 けれど、人々はそれでも生きている。

「面がないことは、わたしだけの寂しさではなかったのですね」

 その言葉は静かだった。

 けれど、イロハの胸に深く落ちた。

「サヨ様……」

 アヤメが、小さく咳払いをした。

「呼び方にお気をつけください」

「あ」

 イロハは慌てて口を押さえた。

 ミツが首を傾げる。

「サヨさま?」

 アヤメの気配が一瞬だけ固まる。

 ゴウラが、わざと大きく咳をした。

「この横丁では、誰がどこの誰かは聞かん。そういう決まりだ」

 ミツはまだ不思議そうだったが、ゴウラの目を見て、何かを察したらしい。

「ふうん」

 それ以上は聞かなかった。

 サヨは、ゴウラに向かって静かに頭を下げた。

「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことじゃありません。ここじゃ、名を隠して来る者も、面を隠して来る者も珍しくない」

 ゴウラはそう言ってから、少しだけサヨを見た。

「ただし、お忍びの方。ここへ来たなら、きれいなものだけは見られませんぞ」

「そのために来ました」

 サヨの声は澄んでいた。

「見えないものを、見ないままにしておくほうが怖いのです」

 その時、ミツが自分の面を押さえながら言った。

「じゃあ、井戸に行く?」

「井戸?」

「顔が映るか、見るところ」

 イロハは、少し不穏なものを感じた。

 ゴウラの表情も変わる。

「ミツ」

「だって、面が直ったら映るかもしれない」

 ミツは、素直にそう言った。

 イロハは、サヨと視線を交わした。

 水。

 鏡。

 月。

 反射。

 第4話の鏡水。
 第3話の鉄鉢。
 第2話の月見池。

 嫌な連想が胸をよぎる。

 しかし空は昼だ。

 月はない。

 それでも、最近の異変は空の月だけでは済まないと、もうわかっている。

 サヨは静かに言った。

「見てみましょう」

 アヤメがすぐに反応した。

「危険です」

「あなたがいるでしょう」

「それでも」

「イロハもいます」

 アヤメはイロハを見た。

 その目は、責めるというより確認だった。

 行くのか。

 イロハは息を吸った。

 怖い。

 だが、ここで目を逸らせば、この場所へ来た意味がない。

「行きます」

 イロハは言った。

「ただし、私が先に見ます」

 ミツは、不思議そうに笑った。

「水桶だよ。怖くないよ」

 イロハは、その無邪気さに胸が痛くなった。

 そうだ。

 本来、水桶は怖いものではない。

 顔を映すだけのものだ。

 でも、この国では。

 面を持たない者の顔を、水さえ正しく映さないかもしれない。

 灰面長屋の奥、古井戸のほうへ、一行は歩き出した。

 軒先の欠け面たちが、風に揺れる。

 からから、と鳴った。

 まるで、これから映るものを、先に知っているかのように。