EP 56

第6話 灰面長屋

第四節 ― 映らない顔

 灰面長屋の古井戸は、長屋のさらに奥、壊れた舞台板の裏手にあった。

 井戸といっても、白影宮の庭にあるような清らかなものではない。縁石は欠け、縄は古く、滑車は錆びている。そばには、ひびの入った大きな水桶が置かれていた。

 水は濁っていた。

 底までは見えない。

 けれど、昼の光と軒の影と、干された欠け面の輪郭だけは、ぼんやりと映している。

 ミツは、その水桶の前に立った。

「ここ」

 小さな声だった。

「面をつけてないと、あんまり映らないんだ」

 イロハは息を呑んだ。

「前から?」

「うん。でも、みんなそういうものだって言う。ここにいる子は、よくぼやけるって」

 ミツは、借り物の面を両手で押さえた。

「今日は、直してもらったから」

 そう言って、水桶を覗き込む。

 イロハも、その隣から水面を見た。

 まず映ったのは、井戸の縁だった。

 欠けた石。
 傾いた軒。
 薄暗い空。
 イロハの顔。
 アヤメの立ち姿。
 後ろで警戒するゴウラの影。

 それらは、多少揺らぎながらも映っていた。

 だが、ミツの顔だけがぼやけていた。

 身体は映っている。

 肩も、手も、着物の継ぎ当ても、借り物の面を結ぶ紐も映っている。

 けれど、顔だけが定まらない。

 水面の中で、そこだけ墨を薄く拭き取ったように曖昧だった。面の輪郭はある。目の位置も、口の位置も見えそうになる。

 だが、見ようとした瞬間に崩れる。

 まるで水が、ミツを顔として認めるのをためらっているようだった。

「……そんな」

 イロハは思わず呟いた。

 ミツは慣れているのか、少し肩を落としただけだった。

「やっぱり、まだだめか」

「だめじゃない」

 イロハはすぐに言った。

 けれど、その先の言葉が出てこなかった。

 何がだめではないのか。

 どうすれば映るのか。

 それを、今のイロハは言えなかった。

 アヤメが水桶を覗き込み、眉をひそめる。

「イロハ殿。これは白化面と同じ異常ですか」

「わかりません」

 イロハは正直に答えた。

「でも、月痕とは違います。喰われているというより……最初から、映すための線が足りていない」

「線?」

「面と顔を結ぶ線です」

 イロハは、ミツの面を見た。

 借り物の面。

 痛くないように直しただけの面。

 そこにはまだ、ミツ自身の役も、家も、生面の根もない。

 だから水が迷っている。

 この子をどう映せばいいのか。

 誰の顔として返せばいいのか。

 その時、サヨが静かに前へ出た。

 アヤメが反射的に止めようとする。

「お待ちください」

「見ます」

「危険です」

「だからこそです」

 サヨは、薄布を少しだけ上げた。

 灰面長屋の濁った水桶の前に、面のない皇女が立つ。

 イロハは、胸が締めつけられるような思いでそれを見ていた。

 サヨは、ゆっくりと水面を覗き込んだ。

 水は揺れた。

 軒の影が広がる。

 干された欠け面の輪郭が、細く歪む。

 そして、サヨの顔が映るはずだった。

 しかし。

 映らなかった。

 正確には、ミツと同じだった。

 髪の線は映る。
 薄布の縁も映る。
 肩の形も、袖の色も映る。

 けれど、顔だけがはっきりしない。

 白影宮の静かな皇女の顔が、水の上で曖昧に滲んでいる。

 そこにいるのに、顔として返されない。

 アヤメが息を呑んだ。

「サヨ様……」

 今度は、呼び方を正す余裕もなかった。

 アヤメの手が、袖の内の短刀へ伸びる。

 イロハもまた、動けなかった。

 サヨまで。

 灰面長屋の子どもと、白影宮の皇女。

 片方は王朝の外縁にいる。
 片方は王朝の奥にいる。

 それなのに、同じように水面で顔が定まらない。

 ミツが、小さく言った。

「おねえさんも、ぼくと同じ?」

 サヨは、水面を見たまま答えた。

「少し、似ています」

 その声は震えていなかった。

 けれど、イロハには、その静けさの奥に深い痛みがあることがわかった。

 次の瞬間、水面の奥で白いものが動いた。

 月ではない。

 昼の水だ。

 空には月などない。

 それなのに、濁った水桶の底から、白い半面が浮かび上がる。

 目穴はない。

 けれど、見ている。

 口はない。

 けれど、声がある。

 第4話の鏡水に現れた、あの白い半面。

 鏡ノ客。

 けれど今回は、恐ろしくはなかった。

 水面に浮かぶその白は、刃のようでも、歯のようでもない。

 古い面箱の底に残った、誰にも拾われなかった顔の欠片のようだった。

 悲しいほど静かだった。

 イロハは思わず水桶へ手を伸ばしかけた。

 倒してしまえば消える。

 そう思ったのかもしれない。

 だが、指先が桶に触れる直前、声が聞こえた。

「面を持たぬ者は、映らぬのか」

 誰の声でもなかった。

 男でも女でもない。
 老いても幼くもない。
 遠いのに、水のすぐ下から響いてくる。

 イロハの手が止まる。

 アヤメは短刀の柄へ手をかけた。

 ゴウラが低く唸る。

 ミツは、面の紐を握りしめて固まっていた。

 白い半面は、ただ水面に浮かんでいる。

 問いだけを残して。

 面を持たぬ者は、映らぬのか。

 それはミツへの問いだった。

 サヨへの問いだった。

 イロハへの問いでもあった。

 かつて面を持たなかった自分。
 《ナギノオモテ》を与えられて、ようやく水に映るようになったかもしれない自分。

 では、その前の自分は。

 映らなかったのか。

 いなかったのか。

 誰にも見られなかった顔は、顔ではなかったのか。

 イロハの胸が冷たくなる。

 水桶の中の白い半面が、こちらを見ている。

 映しているのではない。

 問いを返している。

 サヨが、ゆっくりと口を開いた。

「映らないのではありません」

 静かな声だった。

 灰面長屋の濁った水の前で、サヨはまっすぐに立っていた。

「まだ、どう映ればよいのかを、誰も教えてくれなかっただけです」

 イロハは、息を忘れた。

 ミツがサヨを見上げる。

 アヤメも、短刀にかけた手を止めた。

 サヨは水面を見つめたまま続ける。

「面がなければ映らないのだと、誰かが決めたのでしょう。役名がなければ立てないのだと、誰かが決めたのでしょう。ならば、その決まりの外にいる者は、どう映ればいいのかわからないだけです」

 白い半面は、何も答えない。

 水面の中で、サヨの曖昧な顔とミツのぼやけた面が並んでいる。

 その間に、白い半面が浮かんでいる。

 三つの顔。

 どれも、まだ定まらない。

 けれど、そこにある。

 サヨは、ミツのほうを見た。

「あなたは、映っていないのではありません」

 ミツは、小さく瞬きをした。

「ぼく、ぼやけてる」

「ええ。ぼやけています」

 サヨは微笑んだ。

「わたしもです」

 ミツは、少し驚いた顔をした。

 サヨは続ける。

「でも、消えてはいません」

 その言葉に、ミツは水面をもう一度見た。

 ぼやけた輪郭。

 定まらない顔。

 けれど、確かにそこにある影。

「ほんとだ」

 ミツは、小さく言った。

「ちょっといる」

「はい」

 サヨは頷いた。

「ちょっと、います」

 イロハは、胸の奥が震えるのを感じた。

 それは、とても小さな言葉だった。

 ちょっといる。

 けれど、この国で面を持たない者にとって、その「ちょっと」はどれほど大きいだろう。

 完全に認められなくても。
 台帳に載らなくても。
 水面に鮮やかに返されなくても。

 消えてはいない。

 そこにいる。

 イロハは、水桶の縁から手を離した。

 倒してはいけない。

 この問いを消してはいけない。

 白い半面は、ほんの少しだけ揺れた。

 笑ったようにも見えた。

 泣いたようにも見えた。

 そして、もう一度だけ声が響く。

「映らぬ者を、誰が見る」

 イロハは、唇を噛んだ。

 答えはまだない。

 けれど、答えなければならない。

 面師として。

 かつて顔のなかった子どもとして。

 サヨの面を作ろうとしている者として。

「私が」

 声は小さかった。

 だが、水桶の前ではっきりと響いた。

「私が見ます」

 白い半面は、何も言わなかった。

 ただ、水の底へゆっくり沈んでいく。

 濁った水が揺れ、白い輪郭はほどけるように消えた。

 後には、軒の影と、欠け面の揺れる姿と、ぼやけたミツの顔、そして曖昧なサヨの顔だけが残った。

 アヤメが低く息を吐いた。

「今のは……第4話の鏡水に現れたものと同じですか」

「たぶん」

 イロハは答えた。

「でも、今日は違いました」

「違う?」

「怖がらせに来たんじゃない気がします」

 イロハは、水面を見つめた。

「見ろって、言いに来たのかもしれません。映らない人たちを」

 サヨは、薄布を下ろした。

 その顔はまた隠れる。

 けれどイロハには、もうサヨが見えなかったわけではない。

 水面が曖昧にしても。

 台帳が保留にしても。

 この人は、ここにいる。

 ミツも、ここにいる。

 イロハは、そっとミツの面紐を直した。

「今日はこれで大丈夫。でも、また見せて」

 ミツは頷いた。

「うん」

「水に映るかどうかだけで、決めなくていいから」

「うん」

 ミツは少し考えてから、サヨを見た。

「おねえさんも、また見る?」

 サヨは少し驚き、それから微笑んだ。

「ええ。わたしも、また見ます」

 灰面長屋の古井戸のそばで、風が吹いた。

 物干し紐に吊るされた欠け面が、からからと鳴った。

 それは、誰かの顔がまだここにあると知らせる、かすかな音のようだった。