水桶の底へ沈んでいった白い半面が、イロハの胸の奥に、冷たい輪を残していた。
映らぬ者を、誰が見る。
その声はもう聞こえない。
けれど、耳の奥から消えなかった。
灰面長屋の古井戸。
濁った水。
ぼやけたミツの顔。
曖昧にしか映らなかったサヨの顔。
それらが、水の揺れと一緒に、別の景色へほどけていく。
イロハは、立っているはずだった。
今は灰面長屋にいて、隣にはサヨがいて、アヤメが周囲を警戒していて、ミツが借り物の面を押さえている。
なのに、足元の土が遠くなる。
鼻の奥に、焦げた木の匂いが戻ってきた。
焼けた家。
黒く崩れた梁。
灰をかぶった庭石。
風が吹くたび、白くなった灰が舞い、空と地面の境目を曖昧にしていた。
どこかで誰かが泣いていた。
けれど、それが自分の声だったのか、他人の声だったのか、幼いイロハにはわからなかった。
家の奥にあったはずの生面は、割れていた。
割れたというより、火に舐められて、形を保てなくなっていた。
白かったのか。
木地だったのか。
漆が塗られていたのか。
もう、覚えていない。
ただ、面だったはずのものが、黒く裂け、灰の中に落ちていたことだけは覚えている。
誰かが言った。
これはもう使えない。
別の誰かが、イロハの肩を掴んだ。
名を聞かれた。
イロハは答えたはずだった。
けれど、相手は眉をひそめた。
家を聞かれた。
イロハは何かを言おうとした。
でも、その言葉は喉の手前で崩れた。
役を聞かれた。
子どもに役などないはずなのに、この国では、子どもにも家の面がある。
生まれた場所を示す面。
どの家に属し、どの棚に置かれ、どの祭礼でどこに座るかを決める面。
それが、なかった。
幼いイロハは、灰の道に立っていた。
誰も迎えに来なかった。
誰かの袖を掴もうとした。
けれど、その袖は他の子を連れていった。
役所の前は寒かった。
石畳が冷たく、裸足に近い足の裏から、冷えが身体の中へ上がってきた。
大人たちは、書き板を持っていた。
札を持っていた。
台帳を開いていた。
彼らはイロハを見ているようで、見ていなかった。
イロハの顔ではなく、探していた。
どの家の面を持つのか。
どの棚に入るのか。
どの記録に載せればよいのか。
「この子は、どの家の面を持つ」
誰かが言った。
その言葉は、今でも耳の奥に残っている。
この子、ではなかった。
イロハではなかった。
どの家の面を持つ子なのか。
そう問われていた。
別の誰かが、焦げた面の欠片を持ち上げた。
「判別不能です」
「仮面籍の控えは」
「焼失しています」
「親族は」
「未確認」
「では、一時保留だ」
保留。
その言葉が、小さなイロハの上に降ってきた。
意味はわからなかった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、自分がどこにも行けなくなることだけはわかった。
一時保留。
何者でもないまま、どこかに置かれること。
いや。
どこにも置かれないこと。
イロハは泣こうとした。
けれど、泣けなかった。
泣くためには、誰かに見てもらう必要がある。
泣けば、誰かが気づいてくれるという信じ方が必要だった。
その時のイロハには、それすらなかった。
灰面長屋に移されたのは、その少し後だった。
細い路地。
低い軒。
煤けた面箱。
割れた面を干す紐。
古い井戸。
戸板の上に並ぶ、誰のものかわからない面。
今と同じ匂いがした。
湿った木。
古い漆。
煮炊きの煙。
そして、人に忘れられた面の匂い。
幼いイロハは、そこに座っていた。
膝を抱えていた。
誰かが粥をくれた。
食べたのか、食べなかったのか、覚えていない。
名前を呼ばれても、自分のことだとすぐに思えなかった。
顔を上げても、相手の視線が自分を少し通り抜けていく気がした。
面がない。
それは、顔がないということだった。
その時だった。
足音がした。
大人の足音。
役人の足音ではなかった。
役人の足音は、紙と札を連れてくる。
その足音は、木粉と煙管の煙を連れてきた。
幼いイロハは顔を上げた。
そこにいたのが、ロウセツ=カガミだった。
今より少し若い。
髪は乱れ、着物はきちんとしておらず、袖には漆の跡がついていた。正規の宮廷面師だったとは思えないほど、目つきが悪く、口元もだらしなかった。
けれど、その目だけは、妙にまっすぐだった。
ロウセツは、イロハの前にしゃがみ込んだ。
役人のようには聞かなかった。
名は、とも聞かなかった。
家は、とも聞かなかった。
役は、とも聞かなかった。
台帳を開くこともしなかった。
札を探すこともしなかった。
ただ、イロハを見た。
顔のない子どもとしてではなく。
記録に載せにくい厄介な子としてでもなく。
そこに座っている、息の細い子どもとして。
そして、低い声で聞いた。
「息はできるか」
幼いイロハは、答えられなかった。
息。
できているのかもしれない。
胸は動いている。
喉も痛い。
けれど、それが本当に息なのかはわからなかった。
この国で、どこにも置かれないまま吸う空気は、まるで自分のものではないようだった。
ロウセツは、返事を待った。
急かさなかった。
慰めもしなかった。
しばらくして、彼は小さく舌打ちした。
「できてねえ顔だな」
ひどい言い方だった。
けれど、幼いイロハはなぜか泣きそうになった。
初めて、自分の状態を言い当てられた気がしたからだ。
ロウセツは、背負っていた包みを解いた。
中から出てきたのは、未完成の白い面だった。
まだ漆も完全ではない。
目元の線も彫り切られていない。
口もない。
表情もない。
けれど、ただの白ではなかった。
灰の中に残る白ではない。
役所の札の白でもない。
月の喰う白でもない。
まだ何かになる前の白。
それを見た時、幼いイロハは、なぜか怖くなった。
その面は、自分を見ているようだった。
顔がないのに。
目もないのに。
それでも、自分を見ていた。
「役がないなら」
ロウセツは言った。
「まず息をする役から作る」
その言葉は、救いのように聞こえた。
同時に、刃のようにも聞こえた。
役を作る。
それは、この子を助けるということだ。
けれど、役を作るということは、この子が何者であるかに手を入れるということでもある。
その時の幼いイロハには、そんな怖さはわからなかった。
ただ、ロウセツの手元の白い面を見ていた。
息をする役。
それがあれば、息ができるのだろうか。
この国のどこかに、立てるのだろうか。
誰かに見てもらえるのだろうか。
ロウセツは、面をイロハの顔へ無理に当てたりはしなかった。
ただ、膝の上に置いた。
白い面は、幼いイロハの膝で軽かった。
軽いはずなのに、重かった。
これを受け取れば、何かが変わる。
それだけはわかった。
「いらねえなら捨てろ」
ロウセツは言った。
あまりにも乱暴な言い方だった。
「いるなら、持ってろ。顔ってのはな、誰かに決められる前に、自分で掴んどくもんだ」
幼いイロハは、白い面に触れた。
指先が震えた。
面は冷たかった。
けれど、少しだけ、息がしやすくなった気がした。
その瞬間。
今のイロハは、水桶の前で息を吸い込んだ。
景色が戻る。
灰面長屋の古井戸。
濁った水。
ミツ。
サヨ。
アヤメ。
ゴウラ。
白い半面は、もういない。
けれど、膝の上に置かれた未完成の白い面の感触が、まだ指に残っている。
イロハは、自分の腰の鍵に触れた。
《ナギノオモテ》。
あの白い面は、やがて自分の面になった。
自分をこの国に立たせてくれた。
イロハ=ナギとして息をするための顔になった。
それは間違いなく救いだった。
救いだったはずだ。
けれど。
役がないなら、まず息をする役から作る。
その言葉が、今になって怖く響く。
作る。
誰が。
何を。
どこまで。
もしロウセツがいなければ、自分はここで消えていたかもしれない。
けれど、ロウセツが面を作ったことで、自分は何か別のものへ変えられたのではないか。
イロハは、ミツを見た。
借り物の面をつけた子ども。
まだ自分の面を持たない子。
その子に、自分はさっき仮置きをしなかった。
勝手に役を置くことが怖かったからだ。
では、師匠はどうだったのだろう。
あの時、ロウセツは怖くなかったのだろうか。
救うためなら、作り変えてもよいと思ったのだろうか。
「イロハ」
サヨの声がした。
イロハは顔を上げた。
サヨは、こちらを見ていた。
薄布の奥の目は、静かだった。
責めてはいない。
ただ、見ている。
映らぬ者を、誰が見る。
その問いに、イロハは「私が見ます」と答えた。
ならば、自分自身の過去からも目を逸らせない。
「昔」
イロハは、ぽつりと言った。
「私はここにいました」
ミツが目を丸くする。
ゴウラは黙っている。
アヤメの表情が少し変わった。
サヨだけが、最初から知っていたかのように静かだった。
「家の生面を失って、仮面籍に置く場所がなくなって。たぶん、役所では保留にされたんだと思います。私はその時、息ができなくなっていました」
イロハは、腰の鍵に触れたまま続ける。
「師匠が来てくれました。名も家も役も聞かずに、息はできるかって聞いてくれました」
サヨの目が、少し揺れる。
「それが、ロウセツ=カガミ」
「はい」
「あなたを救った方ですね」
「はい」
イロハは頷いた。
そして、少しだけ間を置いた。
「でも今は、それだけではないのかもしれないと思っています」
アヤメが眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「師匠は私に、息をする役を作ってくれました。だから私は生きられました。でも、役を作るということは、その人を少し変えてしまうことでもあります」
イロハはミツの面を見た。
「この子に私が勝手に役を置いたら、それは救いにもなるかもしれない。でも、その子を別の形にしてしまうかもしれない」
ミツは、よくわからないという顔でイロハを見ていた。
サヨは静かに言った。
「あなたは、ご自分が救われたことを疑っているのですか」
イロハは、首を横に振った。
「疑ってはいません」
それだけは、すぐに言えた。
「師匠がいなければ、私はここにいません。面師にもなっていません。サヨ様にも会えていません」
サヨは黙って聞いている。
「でも、救われたことと、変えられなかったことは別です」
その言葉を口にした瞬間、イロハは第5話のアリノリを思い出した。
死んでいないことと、公的に使用できることは別です。
血統上は。
儀礼上は。
保留されるのは役名です。
あの冷たい「別」と、今自分が言った「別」は違うのか。
同じなのか。
イロハにはわからなかった。
けれど、この痛みは、切り捨てるためのものではなかった。
見つめるためのものだった。
サヨは、ゆっくり頷いた。
「では、わたしの面を作る時も」
「はい」
イロハは答えた。
「救うためだと言って、勝手には決めません」
サヨは少しだけ微笑んだ。
「それを聞けて、よかった」
その言葉に、イロハの胸が痛んだ。
よかった。
そう言われるほど、自分はまだ何もできていない。
サヨの面は作れていない。
白影宮へも戻れない。
仮面籍庁には制限された。
それでも、サヨは今の言葉を受け取ってくれた。
ミツが、そっとイロハの袖を引いた。
「イロハさん」
「うん?」
「息をする役って、どんなの?」
イロハは少し考えた。
そして、ミツの前に膝をついた。
「たぶん」
言葉を選ぶ。
「朝起きて、水を飲んで、誰かに名前を呼ばれて、返事をしてもいいって思える役」
ミツは、不思議そうに瞬きした。
「それだけ?」
「うん。最初は、それだけでいいと思う」
ミツは、自分の借り物の面に触れた。
「ぼくにも、ある?」
イロハは、今度は迷わず答えた。
「ある」
「まだ面が追いついてないのに?」
「面が追いつく前から、ミツは息をしてる」
ミツは、少しだけ笑った。
「じゃあ、ちょっとある」
「うん」
イロハも笑った。
「ちょっとある」
その言葉は、さっきの水面の続きだった。
ちょっといる。
ちょっとある。
完全ではない。
でも、消えてはいない。
それを見落とさないことから、面作りは始まるのかもしれない。
イロハは、水桶の濁った水をもう一度見た。
今度は白い半面は映らなかった。
ただ、揺れる水面の中に、自分の顔が映っている。
イロハ=ナギの顔。
《ナギノオモテ》によって、この国に置かれた顔。
救いか、改変か。
答えはまだ出ない。
けれど、逃げない。
師匠にも、いつか聞かなければならない。
あの日、あなたは私に何を作ったのですか、と。
灰面長屋の風が吹いた。
物干し紐の欠け面が、からからと鳴る。
その音の向こうで、遠く、小さな足音がした。
子どもたちが、どこかの板の上を踏んでいるような音。
まだ舞とは呼べない。
けれど、ただの遊びとも違う。
イロハは、顔を上げた。
灰面長屋の奥に、壊れた小さな舞台板が見えた。