壊れた舞台板のほうから、子どもたちの足音が聞こえていた。
とん、とん。
不揃いな音。
舞というには粗く、遊びというには妙に真剣だった。
だがイロハは、そちらへすぐには向かわなかった。
足元には、ミツの借り物の面がある。
さきほど紐を直し、耳の後ろが擦れないように当て布を入れた面。けれど、それはまだミツの面ではなかった。
イロハは、もう一度その面を手に取った。
内側を読む。
古い息の跡。
別の家の子どもがかつて使ったらしい、薄れた生面の名残。
削り直された頬。
無理に狭められた顎。
新しい面紐。
そして、ミツの息がまだ浅くしか染みていない内側。
ここに仮札を置けば、少しは安定するかもしれない。
ほんの一時だけでも、ミツの顔が水桶に映るかもしれない。
店の者が目を合わせてくれるかもしれない。
井戸で、誰の子だと問われずに済むかもしれない。
いつものイロハなら、そうしていた。
ユラの鈴祈舞面《ユラノスズ》に、失われた一節を仮置きした時のように。
ハルマサの暁刃戦面《アカツキノハ》に、抜刀の入口を一度だけ戻した時のように。
白化した面に触れ、喰われた役の輪郭を探し、消えかけたものを仮に結ぶ。
それが、自分にできる救いだと思っていた。
けれど今、指が止まった。
ミツには、戻すべき役がない。
ユラには、神楽師としての役があった。
失われたのは、神を迎える沈黙だった。
だから、その一節を仮に戻すことができた。
ハルマサには、守る者としての役があった。
失われたのは、何のために刀を抜くのかという入口だった。
だから、「ここから先へ、月を通さない」という言葉へ導くことができた。
カンナには、夜の香で宮を眠らせる役があった。
セイランには、読めぬものも記録に残そうとする役があった。
サヨには、まだ見つかっていない役がある。
けれどミツは。
この子は、まだ制度上どこにも置かれていない。
家の生面は焼けた。
仮面籍の控えは途切れた。
職面を持つ年齢でもない。
祈面も、官面も、武面もない。
この子には、戻すべき役がないのではない。
まだ、誰にも役を聞かれていないのだ。
そこでイロハが仮札を置いたら。
それは救いになるのか。
それとも、ミツの未来に、イロハが勝手に役を置いてしまうことになるのか。
面の内側に添えた指が、かすかに震えた。
「イロハさん?」
ミツが、不安そうに見上げている。
イロハは、はっとした。
手の中の面が、急に重く感じる。
この小さな面に、自分は何をしようとしていたのだろう。
痛みを取るだけならできる。
紐を直すだけならできる。
けれど、役を置くことは違う。
それは、その人がどこへ立つのかを決めることに近い。
救うため。
そう言えば、何でも許されるのだろうか。
イロハの胸の奥に、ロウセツの声が蘇る。
役がないなら、まず息をする役から作る。
あの言葉に、自分は救われた。
間違いない。
あの面がなければ、自分は灰面長屋の片隅で、誰にも映らない子どものままだったかもしれない。
でも。
息をする役を作るとは、どういうことだったのか。
イロハ=ナギという自分は、本当に自分で選んだものだったのか。
それとも、師匠が彫ってくれた面に導かれて、今の自分になったのか。
私が置いた役は、本当にその人のものなのか。
師匠が私に置いた役は、本当に私のものだったのか。
腰の鍵が、急に熱を持ったように感じた。
《ナギノオモテ》は、今日も閉じたままだ。
開けてはいけないと言われたから。
けれど、それだけではない。
今は、開けるのが怖かった。
中にある面を見た時、自分が何を思うのかが怖かった。
それは救いの顔なのか。
それとも、自分を作り変えた顔なのか。
サヨが、静かに近づいてきた。
薄布越しの視線が、イロハの手元に落ちる。
「手が止まりましたね」
イロハは、面から目を離せなかった。
「……置けません」
「役を、ですか」
「はい」
イロハは、小さく頷いた。
「この子には、戻すべき役がまだありません。そこへ私が仮置きをしたら、私がこの子の役を決めることになる」
ミツは、意味がわからないという顔をしている。
けれど、サヨはすぐに理解した。
「あなたは、その子を救いたい」
「はい」
「けれど、救うために役を置けば、その子を変えてしまうかもしれない」
「……はい」
言葉にされると、なおさら怖かった。
イロハは面を布の上に置き、両手を膝に乗せた。
指先には、まだ古い木の感触が残っている。
「私は、これまで仮置きで人を救えると思っていました。失われた役を、少しだけでも戻せるなら、それでいいと思っていました。でも、戻す役がない人にはどうすればいいのか、考えていなかった」
サヨは黙って聞いている。
「この子に必要なのは、仮の役かもしれない。でも、それを私が決めていいのか、わからないんです」
その時、アリノリ=シジョウの声が脳裏をよぎった。
死んでいないことと、公的に使用できることは別です。
血統上は。
儀礼上は。
保留されるのは役名です。
別です。
あの言葉は、冷たかった。
人を切り分ける言葉だった。
けれど今、イロハ自身もまた、同じように「別」を口にしようとしている。
救うことと、変えないことは別。
助けることと、決めることは別。
アリノリの「別」と、自分の「別」は何が違うのだろう。
イロハは、唇を噛んだ。
サヨが、静かに問う。
「あなたは、救われたことを疑っているのですか」
その問いは、まっすぐだった。
イロハの胸の一番痛いところへ届いた。
ロウセツのこと。
《ナギノオモテ》のこと。
灰面長屋で、顔のない子どもだった自分のこと。
イロハは、ゆっくり首を横に振った。
「疑ってはいません」
声は小さかった。
けれど、それだけは嘘ではなかった。
「私は、救われました。師匠が来てくれなかったら、私は今ここにいません。面師にもなっていません。サヨ様の面を作ろうなんて、思うこともできなかった」
サヨの目が、薄布の奥で静かに揺れた。
イロハは続ける。
「でも、救われたことと、変えられなかったことは別です」
その言葉を言い終えた瞬間、胸が痛んだ。
アリノリの言葉を借りたようで、嫌だった。
けれど、今の自分には必要な言葉でもあった。
「師匠は私を救ってくれました。でも、その時、私に何を置いたのか。私はまだ知りません。私の《ナギノオモテ》が、ただの救いだったのか。それとも、私の生まれや役を書き換えるようなものだったのか」
アヤメが息を呑んだ。
「それは……」
「わかっています」
イロハは、アヤメを見る。
「師匠を責めたいわけじゃありません。むしろ、責められない。私は本当に救われたから。でも、だからこそ怖いんです」
ミツが、小さく言った。
「救われても、怖いの?」
イロハは、少しだけ笑った。
「怖いよ」
「なんで」
「救ってくれた人が悪い人じゃないって、わかっているから」
ミツは首を傾げた。
イロハは、言葉を探した。
「悪い人に傷つけられたなら、怒ればいい。でも、助けようとしてくれた人の手で、自分が変わったかもしれないと思うと、どうしたらいいかわからなくなる」
ミツは完全には理解していないようだった。
でも、黙って聞いていた。
サヨが言った。
「ならば、わたしの面を作る時、あなたはどうしますか」
その問いは、第2話の夜からずっと続いていた。
わたしの面を、作れますか。
その答えを、イロハはまだ完全には持っていない。
けれど、ひとつだけ言えることがあった。
「勝手には決めません」
イロハは、サヨを見た。
「サヨ様を救うためだからといって、サヨ様が何者になるかを私が決めることはしません」
「では、どうやって作るのですか」
「聞きます」
イロハは答えた。
「見ます。待ちます。サヨ様が、何を見て、何を覚えて、何を選ぼうとしているのか。それを知らないまま、面は彫れません」
サヨは黙っていた。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
受け取っている沈黙だった。
イロハはミツの面へ視線を戻した。
「だから、この面にも今日は役を置きません」
ミツの顔が少し不安になる。
イロハは急いで続けた。
「でも、何もしないわけじゃない。紐を直す。痛くないようにする。水を汲みに行けるようにする。明日も見せてもらう。ミツがどんなふうに歩くのか、どんなふうに名前を呼ばれたいのか、少しずつ見る」
「それで、ぼくの面になる?」
「すぐにはならないかもしれない」
ミツの肩が落ちる。
イロハは、そっと言った。
「でも、ミツを見ないで面だけ決めるより、ずっといいと思う」
ミツは、しばらく黙っていた。
それから、自分の面を両手で持ち上げた。
「じゃあ、今日はこれで水汲む」
「うん」
「明日も、見せる」
「うん」
「ぼくが転んだら、面も転ぶ?」
唐突な問いに、イロハは少し目を瞬かせた。
「たぶん、転ぶ」
「じゃあ、面もぼくを覚える?」
イロハは、胸の奥が少し温かくなった。
「覚えると思う」
ミツは、少しだけ笑った。
「じゃあ、転ばないように歩く」
その言葉に、サヨも微笑んだ。
灰面長屋の薄暗い井戸端で、ほんのわずかに空気がほどける。
だが、その穏やかさの奥で、イロハの疑問は消えていなかった。
救済か。
改変か。
その答えは、今すぐには出ない。
ロウセツに聞かなければならない。
《ナギノオモテ》を開けなければならない日も、いずれ来る。
けれど今は、目の前の子どもの面を、勝手に決めないこと。
サヨの面を、急いで王朝の棚に収めようとしないこと。
それだけは、決められた。
その時、横丁の入り口から、硬い足音が近づいてきた。
革底ではない。
役所履きの、規則正しい足音。
ゴウラの顔色が変わる。
アヤメが即座にサヨの前へ半歩出た。
ミツは、面を胸に抱えた。
灰面長屋の空気が、一瞬でこわばる。
路地の向こうに、灰白の官衣が見えた。
仮面籍庁の下役たちだった。
手には、灰色の札束を持っている。