EP 59

第6話 灰面長屋

第七節 ― 灰札の先触れ

 灰白の官衣は、灰面長屋の色によく似ていた。

 けれど、住人たちはすぐに見分けた。

 長屋の灰は、火と雨と貧しさの色だ。
 官衣の灰は、札と台帳と保留の色だ。

 仮面籍庁の下役たちは、三人いた。

 先頭の男は細い筆箱を持ち、後ろの二人は灰色の札束と、面箱を確認するための帳面を抱えている。いずれも声を荒らさず、急ぎもせず、まるで決められた手順をなぞるように路地へ入ってきた。

 その静けさが、かえって横丁を凍らせた。

 ゴウラが、戸板の上に並べていた古面へ素早く布をかける。

 面を磨いていた女が、手元の祈面を懐へ隠した。

 井戸のそばにいた老人が、古い職面を背中の後ろへ回す。

 子どもたちは、一斉に戸板や桶の陰へ逃げた。

 ミツも、借り物の面を胸に抱えて一歩下がる。

 イロハは反射的に前へ出ようとした。

 だが、足が止まった。

 自分は第5話で、白影宮への単独出入りを制限され、《ナギノオモテ》の登録確認命令を受けた身だ。仮面籍庁の前では、今のイロハの言葉は弱い。

 中級面師の資格はある。

 けれど、それはこの場で灰札を止められる力ではない。

 そのことが、痛いほどわかった。

 アヤメはサヨの前に立っていた。

 女房姿のサヨを背に庇いながらも、刀へは手をかけていない。ここで刃を見せれば、かえって灰面長屋が危険になるとわかっているからだ。

 仮面籍庁の先頭の男は、路地の中央で立ち止まった。

「仮面籍庁より、事前確認に参りました」

 声は丁寧だった。

 怒鳴らない。

 脅さない。

 だからこそ、逃げ場がない。

「本日は本査察ではありません。白化面および不安定役面の再検査に伴い、灰面長屋、欠け面横丁に所在する未確認面、仮置き面、登録不明面の所在を確認いたします」

 その言葉が終わる前に、路地の奥で誰かがすすり泣いた。

 本査察ではない。

 ただの事前確認。

 そのはずなのに、住人たちの顔はすでに青ざめている。

 下役の一人が、灰色の札を取り出した。

 白札でも、黒札でもない。

 灰札。

 薄い灰色の和紙に、墨で細く印が入っている。中央には仮面籍庁の小印。下には、用途別に小さな文字が並んでいた。

 登録確認待ち。
 使用資格未確認。
 仮置き面提出命令。
 未認定面保留。
 後日査察対象。

 イロハは、その文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。

 白札や黒札ほど重くはない。

 けれど、灰面長屋にとっては十分すぎる。

 灰札を貼られた面は、確認が済むまで堂々とは使えなくなる。商いに出せない。水汲みにも行きにくい。祭礼どころか、通りを歩くことさえためらう。

 ここでは、正式な剥奪でなくても、生活が止まる。

「まず、こちらの面から」

 下役が、ゴウラの店先へ近づいた。

 ゴウラは布を押さえたまま、低く言う。

「これは修理待ちの古面だ。売り物じゃない」

「確認のみです」

「確認した後、札を貼るんだろう」

「必要に応じてです」

「その必要を決めるのは誰だ」

 下役は表情を変えなかった。

「仮面籍庁です」

 そのやり取りだけで、周囲の空気がさらに冷たくなった。

 下役は布をめくり、戸板の上に並ぶ面をひとつずつ見ていく。

 片目の欠けた職面。

「登録番号不明。灰札」

 紐だけが新しい古面。

「修復履歴不明。灰札」

 役名札の剥がされた生面。

「所有者確認待ち。灰札」

 死者から流れた面箱。

「由来確認要。灰札」

 灰色の札が、次々に置かれていく。

 貼る音は軽い。

 紙が木へ触れるだけの音。

 それなのに、イロハには、そのたびに誰かの息が塞がれる音に聞こえた。

 ゴウラの顔から、少しずつ血の気が引いていく。

 彼は怒鳴らない。

 怒鳴れば不利になることを知っている。

 ここにいる者たちは、制度の前で声を荒げると、さらに立場が悪くなることを、よく知っている。

「これは預かり物だ」

 ゴウラが、割れ目を漆で埋めた祈面を押さえた。

「持ち主の婆さんが、これをつけねえと朝の祈りに行けん」

「祈面としての使用資格が確認できません」

「資格じゃなくて、あの婆さんの朝だ」

「確認が済むまで、使用は控えるようお伝えください」

「朝を控えろってのか」

 下役は少しだけ眉を動かした。

 だが、声は変えなかった。

「規定です」

 ゴウラは黙った。

 その沈黙のほうが、怒鳴り声よりも重かった。

 路地の奥で、腰の曲がった女が、割れた生面を胸に抱いて泣き始めた。

「それは駄目だよ。これは、うちの子の面だよ。割れてるけど、うちの子のだよ」

 下役の一人が近づく。

「確認のみです」

「持っていかないでおくれ」

「本日は持ち去りません」

「でも、札を貼るんだろう」

「確認のためです」

「札を貼られたら、あの子は学校へ行けない」

「確認が済むまで、使用は控えてください」

 女は、面を抱いたまましゃがみ込んだ。

 誰も彼女を叩いていない。

 誰も罵っていない。

 それでも、その女の朝は壊れようとしている。

 イロハは、拳を握りしめた。

 第5話の審査所が脳裏に蘇る。

 アリノリ=シジョウは言った。

 乱れを広げぬためです。

 王朝を守ることです。

 その言葉が、ここでは灰札になって路地へ降っている。

 王朝を守るための正しさが、割れた生面を抱く女の手を震わせている。

 下役たちは、悪意を持っているようには見えなかった。

 彼らは職務をしているだけだ。

 決められた区域へ来て、決められた面を確認し、決められた札を置く。

 それが、恐ろしかった。

 悪意がないまま、人の生活を止められることが。

「次」

 下役の視線が、ミツへ向いた。

 ミツはびくりと肩を震わせた。

 胸に抱えた子ども面を隠そうとする。

 しかし、隠そうとしたことで、かえって目立った。

「その面を確認します」

 ミツは首を横に振った。

「これは、ぼくの」

 声が震えていた。

「ぼくの……まだ、ぼくのじゃないけど、でも」

 言葉が絡まる。

 自分の面だと言いたい。

 でも、さっきイロハが言った。

 これはまだミツの面ではない。

 だから、嘘は言えない。

 でも、借り物だと言えば、取り上げられるかもしれない。

 ミツの小さな頭の中で、言葉が逃げ場をなくしているのが、イロハにはわかった。

 下役は、手を差し出した。

「確認のみです」

 その言葉が、今は刃のように聞こえた。

 ミツは後ずさる。

 後ろには水桶。

 逃げ場がない。

 イロハは、ついに前へ出た。

「その面は、私が調整中です」

 下役の視線がイロハへ移る。

 彼はすぐにイロハの顔を見て、次に腰の道具袋、そして手元の面師札を見た。

「面師イロハ=ナギ殿ですね」

 呼ばれた瞬間、イロハの背筋が冷えた。

 もう、ここにも届いている。

「あなたには、《ナギノオモテ》の登録確認命令およびロウセツ=カガミ工房への後日査察通知が出ています」

「知っています」

「現在、あなたが行う未認定面への仮置き、役名補正、仮面籍関連調整については、後日確認の対象となります」

 つまり、触るなと言っているのに近かった。

「私は仮置きはしていません」

「では、何を」

「紐穴の調整と、当て布の補修です。役は置いていません」

 下役は帳面へ何かを書いた。

「記録します」

 その言葉に、イロハは奥歯を噛んだ。

 記録。

 ここでは、何もかもが記録される。

 助けようとした手さえ、後で裁かれるために書き留められる。

 下役はミツへ向き直った。

「その面は、登録確認待ちとして灰札を貼ります」

「貼らないで」

 ミツが、か細く言った。

「これ貼られたら、水汲みに行けない」

「確認が済むまで、使用は控えてください」

「でも、水汲まないと」

「長屋の管理者へ相談を」

「管理者なんていない」

 ミツの声が少し大きくなった。

「ゴウラじいがいるけど、管理者じゃない。みんな、自分で水汲むんだ」

 下役は困ったように眉を寄せた。

 だが、手にした灰札は下ろさない。

「規定です」

 また、その言葉だった。

 規定。

 王朝を守るための形。

 誰も殴っていない。
 誰も怒鳴っていない。
 誰も悪意を見せていない。

 けれど、札を貼れば、ミツは明日、水を汲みに行けなくなる。

 店の人に目を合わせてもらえない。

 井戸でも誰の子か問われる。

 借り物の面でさえ使えなくなれば、ミツはまた顔のない子に戻る。

 イロハは叫びそうになった。

 けれど、声が出ない。

 ここで感情だけで反発すれば、ミツの面は即座に提出命令を受けるかもしれない。ゴウラの店も、灰面長屋全体も、より厳しく見られるかもしれない。

 正しさに対して、怒りだけでは足りない。

 そのことを、第5話で痛いほど知ったばかりだった。

 下役の手が、ミツの面へ伸びる。

 灰札が、薄く揺れた。

 その時。

「待ちなさい」

 静かな声が、路地に落ちた。

 大きな声ではなかった。

 けれど、不思議なほど通った。

 下役の手が止まる。

 イロハも、アヤメも、ゴウラも、ミツも、声のほうを見た。

 サヨが一歩前へ出ていた。

 女房姿のまま。

 薄布で顔を隠したまま。

 けれど、その立ち方は、もうただの女房ではなかった。

 アヤメが小さく息を呑む。

「お待ちください」

 だが、サヨは止まらない。

 灰面長屋の濁った井戸端に、面のない皇女が立つ。

 下役は、彼女が誰かをまだ知らない。

 それでも、ただならぬ気配を感じたのか、姿勢を正した。

「どなたですか」

 サヨは、すぐには名乗らなかった。

 ただ、ミツの面に向けられた灰札を見た。

 そして静かに言った。

「その札を貼れば、この子は明日、誰として水を汲みに来ればよいのですか」

 下役は返答に詰まった。

 それは規定の欄にない問いだった。

 登録確認待ち。
 使用資格未確認。
 仮置き面提出命令。
 未認定面保留。

 そこには、明日の水汲みについては書かれていない。

 イロハは、サヨを見つめた。

 第5話で、サヨ自身が問うた言葉を思い出す。

 役名が定まるまで、わたしは何者として息をすればよいのでしょう。

 今、サヨはその問いを、ミツのために使っている。

 サヨは続けた。

「確認が済むまで、使用を控える。そうおっしゃいましたね」

「はい。規定により」

「では、その確認が済むまで、この子の朝は保留されるのですか」

 灰面長屋の路地が、静まり返った。

 下役の持つ灰札が、風にかすかに揺れる。

 誰も答えなかった。

 答えられなかった。

 ミツは、面を抱いたままサヨを見上げている。

 イロハは、胸の奥で何かが強く震えるのを感じた。

 白影宮だけじゃない。

 面を持てなかった人たちは、ここにもいる。

 そして、サヨはもうそれを見てしまった。

 自分と同じ問いが、この長屋の子どもの朝にも落ちていることを。

 下役は、少しだけ表情を硬くした。

「規定の範囲内で、必要な確認を行います」

 サヨは、静かに答えた。

「ならば、その規定は、朝を迎える者の顔を見ていません」

 その一言に、イロハは息を呑んだ。

 アヤメの手が、そっと袖の内から離れる。

 ゴウラは、深く目を伏せた。

 灰札は、まだミツの面には貼られていない。

 しかし、仮面籍庁の下役たちはここにいる。

 この場は、まだ終わっていない。

 そしてイロハは、この瞬間はっきりと理解した。

 制度と戦うとは、札を破ることだけではない。

 札が見ていない顔を、ここにいると示すことなのだ。