EP 60

第6話 灰面長屋

第八節 ― 面を持たぬ者のところへ

 下役の手は、まだ止まったままだった。

 灰札は、ミツの借り物の面へ触れる寸前で宙に浮いている。

 薄い灰色の紙。

 そこに書かれた文字は小さい。

 登録確認待ち。
 使用資格未確認。
 未認定面保留。

 けれど、その小さな文字ひとつで、ミツは明日から水を汲みに行けなくなるかもしれない。

 イロハは、ミツの前に立った。

「その面は、今日取り上げないでください」

 声は震えていた。

 けれど、退かなかった。

 下役はイロハを見る。

「取り上げるとは申しておりません。確認のため、灰札を貼るだけです」

「灰札を貼られたら、この子は使えなくなります」

「確認が済むまで、未認定面の使用は控えるべきです」

「それは、この子に顔なしで歩けと言っているのと同じです」

 下役は困ったように眉をひそめた。

 悪意の顔ではなかった。

 むしろ、なぜそこまで言われるのかわからないという顔だった。

「規定では、未認定面の常用は推奨されません。特に現在、白化面および不安定役面に関する再検査期間中です。仮置き面、借用面、登録不明面については、使用状況を確認する必要があります」

「でも、この面がなければ」

「面師イロハ=ナギ殿」

 下役の声が、少しだけ硬くなった。

「あなたご自身も、登録確認命令を受けています」

 イロハの胸が詰まった。

 言葉が止まる。

 下役は続けた。

「白影宮への単独出入り制限。《ナギノオモテ》の登録確認。ロウセツ=カガミ工房への後日査察。現在、あなたの判断による未認定面への関与は、すべて確認対象となります」

 正しい。

 制度上は、何ひとつ間違っていない。

 だからこそ、イロハは強く出られなかった。

 ここで無理にミツの面を守ろうとすれば、ミツの面だけでなく、ゴウラの店も、灰面長屋の他の面も、より厳しく見られるかもしれない。

 イロハが口を開けずにいる間に、下役は再び灰札を持ち上げた。

 ミツが、面を胸に抱きしめる。

「やだ」

 小さな声だった。

「これ、まだぼくのじゃないけど。でも、これないと、ぼく、どこにも行けない」

「確認が済むまでです」

「いつ済むの」

 下役は答えられなかった。

 確認がいつ済むのか。

 その問いもまた、規定の紙には書かれていない。

 ミツは、面を抱いたまま一歩後ろへ下がった。

 その背中が水桶に触れる。

 かすかに水が揺れた。

 さきほど、そこにはミツのぼやけた顔が映っていた。

 サヨの顔も、同じように映らなかった。

 イロハは、胸の奥に熱が上がるのを感じた。

 白影宮だけじゃない。

 サヨだけじゃない。

 この国で、面を持てなかった人たちは、ここにもいる。

 役名を保留された者は、宮の奥だけにいるのではない。

 井戸端にいる。
 横丁にいる。
 古い面を抱いて泣く女の腕の中にいる。
 借り物の面を胸に抱えた子どもの手の中にいる。

 イロハが一歩踏み出そうとした、その時だった。

「待ちなさい」

 サヨの声がした。

 アヤメが素早く振り返る。

「お待ちください」

 低い声だった。

 止めようとする声。

 けれど、サヨは静かに首を横に振った。

 その仕草だけで、アヤメは言葉を飲み込んだ。

 サヨは一歩、ミツの横へ出る。

 女房姿。

 薄布で顔を隠し、身分を示す飾りも外している。

 それでも、そこに立つだけで空気が変わる。

 下役たちは、彼女が誰なのかをまだ知らない。

 けれど、ただの長屋の女ではないことは察したらしい。先頭の男が姿勢を正し、少しだけ頭を下げた。

「失礼ですが、どちらの」

「名は、今は必要ありません」

 サヨは穏やかに言った。

 アヤメの表情がわずかに険しくなる。

 しかしサヨは続けた。

「わたしも、役名を保留された者です」

 その言葉に、路地の空気が変わった。

 下役の顔が、はっきりと強張る。

 イロハは息を呑んだ。

 サヨは、自分の身分を明かしてはいない。

 けれど、自分の傷を隠さなかった。

 役名を保留された者。

 その言葉は、ここにいる誰よりも灰面長屋の人々に届いた。

 ゴウラが目を細める。
 古面を隠していた女が布の隙間からこちらを見る。
 割れた生面を抱いて泣いていた女が、泣き止みきれないまま顔を上げる。

 サヨは、灰札を持つ下役へ向き直った。

「その子の面を取り上げれば、その子は明日、誰として水を汲みに来ればよいのですか」

 下役は、少し間を置いて答えた。

「取り上げるわけではありません。確認が済むまでは、未認定面の使用は控えるべきです」

「では、その確認が済むまで、この子の朝は保留されるのですか」

 誰も動かなかった。

 ミツは、サヨを見上げている。

 イロハは、その言葉を聞いて胸が痛くなった。

 第5話で、サヨ自身がアリノリに問うた言葉。

 では、わたしは役名が定まるまで、何者として息をすればよいのでしょう。

 あの問いを、サヨは今、ミツへ向けている。

 自分のためではなく。

 灰面長屋の子どものために。

 下役は、帳面を握り直した。

「個別事情については、本査察時に確認いたします」

「本査察まで、この子は顔を借りることもできないのですか」

「未認定面の使用は」

「その言葉は聞きました」

 サヨの声は荒くならない。

 けれど、静けさの奥に強さがあった。

「わたしが聞いているのは、規定の名前ではありません。この子の明日のことです」

 下役は答えられない。

 サヨは、少しだけミツの方へ視線を落とした。

「朝、水を汲む。店へ行く。名前を呼ばれたら返事をする。そのたびに面が必要な国で、面を保留するということは、その人の朝も、声も、足も保留するということです」

 ミツは、借り物の面を強く抱きしめた。

 その手は震えていた。

 サヨは続ける。

「わたしは、それを今日知りました」

 その言葉は、イロハの胸へ深く落ちた。

 サヨも、見たのだ。

 白影宮の空の面箱だけではない。

 灰面長屋の水桶に映らない子どもを。

 自分と同じように、顔が定まらない者が、この国の外縁にいることを。

 サヨは、もう自分の孤独を自分だけのものとして抱いていない。

 それは、この国の歪みと繋がっている。

 役名を保留された皇女と、仮面籍からこぼれた子。

 遠すぎる二人が、同じ問いの前に立っている。

 下役は、しばらく黙った。

 そして、少しだけ声を落とした。

「……本日は先触れです。強制回収の権限はありません」

 ゴウラが低く息を吐く。

 下役は灰札を持ったまま、ミツの面を見た。

「ただし、所在確認は必要です」

 イロハがすぐに言った。

「私が記録します」

 下役が視線を向ける。

「面師イロハ=ナギ殿」

「仮置きはしません。役名補正もしません。紐穴調整と保護布の追加のみ。面の所在、持ち主状況、使用理由を記録します。仮面籍庁へ提出するなら、その写しを出します」

「あなたの記録は、現在確認対象です」

「それでも、何も書かないよりはましです」

 イロハは、セイランのことを思い出した。

 正式記録ではなく仮記録扱いにされた報告書。

 それでも彼は言った。

 仮記録なら残せます。

 ならば、自分も残す。

 たとえ正式でなくても。

 ミツの面がここにあり、この子が明日水を汲むために必要だということを。

 下役は迷っていた。

 規定の中に、目の前の状況をそのまま収める欄がないのだろう。

 サヨは静かに言った。

「灰札を貼らず、所在確認のみとしてください」

「それは」

「本査察までに所在を明らかにする必要があるのでしょう。ならば、貼ることではなく、記すことで足りるはずです」

 下役は、サヨを見た。

「あなたは、いったい」

 アヤメが一歩出た。

 その袖口から、白影宮の小さな袖印が一瞬だけ見えた。

 下役の目が、それを捉える。

 顔色が変わった。

 完全に名乗ったわけではない。

 だが、相手が白影宮に連なる者だと知るには十分だった。

 下役は、深くは問わなかった。

「……本日は、所在確認のみとします」

 路地のあちこちで、息を吐く音がした。

 ミツの肩から力が抜ける。

 イロハも、ようやく呼吸が戻った。

 だが、下役は続けた。

「ただし、後日査察時には改めて確認されます。未認定面であることに変わりはありません」

「わかっています」

 イロハは答えた。

 わかっている。

 今日、完全に守れたわけではない。

 灰札を一枚止めただけだ。

 それも、白影宮の気配がなければ難しかった。

 制度はまだ来る。

 札はまた貼られるかもしれない。

 それでも、今日のミツの朝は保留されなかった。

 それだけでも、意味がある。

 下役は帳面に何かを書き込んだ。

「対象面、所在確認。使用者、ミツ=ハイノ。仮面籍未確認。管理者、欠け面横丁古面商ゴウラ。補修関与、面師イロハ=ナギ。後日確認」

 ミツが小さく呟く。

「いっぱい書かれた」

 イロハは苦く笑った。

「でも、面は持っていかれなかった」

「うん」

 ミツは面をぎゅっと抱いた。

「明日、水汲める?」

「汲める」

 イロハは答えた。

「でも、一人じゃなくて、誰かと行こう」

「じゃあ、ゴウラじい」

「わしは朝が弱い」

 ゴウラがぼやいた。

 ミツは少しだけ笑った。

 その小さな笑いが、張り詰めていた空気をほんの少し緩めた。

 下役たちは、他の面についても所在だけを確認することにしたらしい。灰札はすべて引っ込めたわけではなかったが、少なくともその場で貼る数は減った。

 それでも、住人たちの不安は消えない。

 古い職面を隠した老人は、まだ戸板の陰から出てこない。
 割れた生面を抱いた女は、面に頬を押し当てたまま泣いている。
 古面商たちは、布を完全には外さない。

 今日だけは逃れた。

 けれど、明日以降はわからない。

 その不安が、路地の上に薄く残っていた。

 下役たちが横丁の奥へ移動していくと、アヤメが小さく息を吐いた。

「危険なお振る舞いでした」

 サヨは静かに答えた。

「そうですね」

「ですが」

 アヤメは少し言葉を探した。

「必要なことでもありました」

 サヨはアヤメを見た。

 薄布の奥で、ほんの少し微笑む。

「ありがとうございます」

 アヤメは目を逸らした。

「礼を言われることではありません。私は、あなたをお守りする役です」

 サヨは、静かに言う。

「わたしが、面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役」

 アヤメの表情が、わずかに揺れた。

 第2話の夜、サヨがアヤメの役を呼び戻した言葉。

 その言葉が、灰面長屋の路地で再び響いた。

 イロハは、その二人を見ていた。

 そして、自分の中にも、ひとつの言葉が生まれつつあるのを感じた。

 自分はサヨを救いたい。

 けれど、皇女だからではない。

 王朝に必要だからでもない。

 白影宮から依頼されたからでもない。

 サヨは、かつての自分と同じだ。

 この国に、役を置く場所がない。

 そしてミツもまた、同じ場所に立っている。

「白影宮だけじゃない」

 イロハは、ぽつりと言った。

 サヨが振り返る。

「はい」

 イロハは、灰面長屋を見渡した。

 欠けた面。
 灰色の長屋。
 水桶。
 古井戸。
 布で隠された面。
 泣き止まない女。
 借り物の面を抱くミツ。

「面を持てなかった人たちは、ここにもいる」

 言葉にした瞬間、イロハは自分が何と戦うのか、少しだけ見えた気がした。

 月だけではない。
 白化面だけではない。
 仮面籍庁だけでもない。

 人を見ず、面だけを見るもの。

 朝を見ず、規定だけを見るもの。

 まだない役を、乱れとして封じようとするもの。

 それと戦わなければならない。

 その時、路地の奥から、また子どもたちの足音が聞こえた。

 とん、とん。

 さきほどより少し賑やかだった。

 ミツが顔を上げる。

「あ、舞台板のところだ」

「舞台板?」

 サヨが尋ねる。

 ミツは頷いた。

「壊れてるけど、みんなそこで遊ぶの。面がなくても怒られないから」

 面がなくても、怒られない。

 その言葉に、サヨが静かに反応した。

 イロハも、路地の奥を見た。

 壊れた小さな舞台板。

 灰面長屋の片隅にある、正規の舞台ではない場所。

 そこから、子どもたちの足音が響いている。

 とん、とん。

 不揃いで、軽くて、けれど確かに誰かがそこにいると知らせる音。

 サヨが言った。

「見てもよいですか」

 イロハは頷いた。

「行きましょう」

 灰札の気配がまだ消えない路地を抜け、イロハたちは、面を持たぬ子どもたちの小さな舞台へ向かった。