EP 61

第6話 灰面長屋

第九節 ― 小さな舞台板

 灰面長屋の奥に、その板はあった。

 舞台と呼ぶには、あまりにも小さい。

 四方を囲む幕もない。
 朱塗りの欄干もない。
 神前へ続く白砂もない。
 笛方も太鼓方もいない。

 ただ、古い板が三枚、地面より少し高く渡されているだけだった。

 片隅は割れ、釘は錆び、雨に濡れた跡が黒く染みになっている。板の下には、子どもたちが拾ってきた石や木片が詰められ、傾かないように支えられていた。

 その奥に、小さな祠があった。

 祠というより、かつて祠だったもの、と言うべきかもしれない。

 屋根は半分落ち、扉は片方なく、朱の色もほとんど剥げている。だが、扉の内側には、かすかに舞扇の文様が残っていた。

 ゴウラが、低く言った。

「昔はここにも、ウズメの小祠があった」

 サヨが振り返る。

「ウズメの」

「ああ。正規の舞殿に上がれねえ者たちが、ここで足を鳴らした。祭礼に呼ばれなかった者、面を失った者、役が合わなくなった者。そういう連中がな」

 イロハは、壊れた舞台板を見つめた。

 正規の舞台ではない。

 記録に残る祭礼でもない。

 けれど、ここにも舞があったのだ。

 面を持たぬ者たちの舞。

 役からこぼれた者たちの足音。

 子どもたちは、その舞台板の上で遊んでいた。

 五人ほどいた。

 ミツと同じくらいの子もいれば、もっと幼い子もいる。誰も正式な面はつけていない。布で顔を巻いている子、片目だけ欠けた面を頭の横にずらしている子、何もつけていない子。

 彼らは、ただ足を鳴らしていた。

 とん、とん。

 とん、たたん。

 誰かが両手を広げる。
 誰かがくるりと回る。
 誰かが笑いながら転びそうになる。
 別の子がそれを真似して、わざと大げさに倒れる。

 舞というには、整っていない。

 神楽ではない。

 祭礼でもない。

 拍子も合っていないし、手の形もばらばらだ。足を置く位置も違う。袖もない。鈴もない。笛もない。

 けれど、そこには確かに何かがあった。

 顔を隠すためではなく、顔がなくても笑うための動き。

 役を示すためではなく、ここにいると知らせるための足音。

 子どもたちは、イロハたちに気づくと一瞬動きを止めた。

 だが、ミツが駆け寄る。

「入っていい?」

「いいよ」

「今、月を踏むやつやってた」

「月を踏むやつ?」

 ミツは舞台板に飛び乗り、足を高く上げた。

 とん、と板が鳴る。

「こう。悪い月が来たら、踏んで割る」

 イロハは、思わずハルマサの一閃を思い出した。

 鉄鉢の水面に映った満月を断った、あの静かな刀。

 ここでは、刀ではなく足だった。

 子どもたちは、月を踏む。

 誰かに教えられたわけではないのだろう。

 月が怖いから。
 白化が怖いから。
 面を喰われるのが怖いから。

 だから、遊びにする。

 踏んで、笑って、少しだけ怖さを小さくする。

 サヨは、その光景を見て立ち止まっていた。

 薄布の奥の目が、舞台板の上の子どもたちを見ている。

 子どもたちは、面を持たないまま跳ねている。

 誰にも許可を取っていない。
 祭礼札もない。
 祈面もない。
 神楽師の面もない。

 それでも、足音は鳴る。

 笑い声は上がる。

 サヨが、静かに言った。

「面がなくても、舞えるのですね」

 その言葉に、イロハは胸を突かれた。

 第1話のユラを思い出す。

 神を迎える沈黙を喰われ、舞台の入口を失った神楽師。鈴を握りしめても、足が動かなくなった少女。

 あの時イロハは、白化した鈴祈舞面《ユラノスズ》に一節を仮置きした。

 面が舞を呼び戻したのだと思っていた。

 けれど、ここには面がない。

 それでも子どもたちは舞っている。

 いや、舞と呼ばれなくても、足を鳴らしている。

 ならば。

 役は、面によってだけ与えられるものではないのかもしれない。

 役は、舞われることで呼び出されることもある。

 まだ名のない動き。

 まだ台帳にない足音。

 まだ儀礼に認められていない笑い。

 そこから、役が生まれることもあるのではないか。

 イロハは、壊れた小祠を見た。

 剥げた朱。
 欠けた屋根。
 扉の内側に残る舞扇の文様。

 その奥に、誰かが微笑んだような気がした。

 姿はない。

 白い半面も映らない。

 ただ、風が通った。

 祠の中に積もった埃がふわりと上がり、舞台板の上へ流れる。

 その瞬間、どこかで鈴が鳴ったように感じた。

 いや、鈴はない。

 誰も鈴を持っていない。

 ユラの鈴祈舞面もここにはない。

 それなのに、耳の奥で、りん、と小さな音がした。

 鈴のない鈴の音。

 神を迎えるためではなく、忘れられた舞台にも神が迷い込むことがあると告げるような音。

 サヨも、同じものを聞いたのかもしれない。

 薄布の下で、少しだけ顔を上げた。

 アヤメが辺りを見回す。

「今、何か」

「聞こえましたか」

 イロハが尋ねると、アヤメは眉を寄せた。

「音というより、気配です」

 ゴウラが、壊れた祠の前で深く息を吐いた。

「ここの祠は、もうずっと誰も祀っちゃいねえと思ってたがな」

 その声には、畏れよりも懐かしさがあった。

 舞台板の上では、ミツが他の子に混じって足を鳴らしている。

 さきほどまで灰札に怯えていた子が、今は「月を踏む」と言って笑っている。

 面は、少し傾いている。

 借り物の面だ。

 まだミツの顔に追いついていない。

 けれど、足音はミツのものだった。

 誰かに借りた足音ではない。

 イロハは、そのことに気づいた。

 面が追いついていなくても、息はしている。
 顔が水にぼやけても、足は板を鳴らしている。
 役が定まらなくても、動きは生まれる。

 ならば、面師がするべきことは、すべてを先に決めることではない。

 その人の足音を聞くこと。

 その人がどう息をして、どこへ立とうとしているのかを見届けること。

 それから、面を彫ること。

 イロハは、サヨへ向き直った。

「サヨ様」

「はい」

「あの舞台を見て、どう思われますか」

 サヨはすぐには答えなかった。

 子どもたちの足音を聞いている。

 とん、とん。

 たたん。

 とん。

 やがて、静かに言った。

「羨ましいです」

 イロハは少し驚いた。

「羨ましい?」

「はい」

 サヨは舞台板を見つめたまま続ける。

「あの子たちは、面を持っていません。けれど、自分の足で板を鳴らしています。誰かに役名を与えられなくても、そこにいると知らせています」

 薄布の奥の声が、ほんの少しだけ震えた。

「わたしは、白影宮でずっと待っていました。いつか面が与えられるのを。いつか、わたしの役名が見つかるのを」

 イロハは黙って聞いていた。

「でも、本当は、待つだけではいけないのかもしれません」

 サヨは、ミツたちを見た。

「面がなくても、まず足を鳴らしてよいのなら」

 その言葉は、静かな芽のようだった。

 まだ小さい。

 けれど確かに、サヨの中で何かが動き始めている。

 アヤメは、それを聞いて複雑な顔をした。

 守る側としては危うい考えだろう。

 白影宮の皇女が、面を与えられる前に自分から足を鳴らす。
 それは、王朝の儀礼から見れば危険なことだ。

 だが、サヨの面を作るためには、きっと必要なことでもある。

 イロハは、深く頷いた。

「第7話では、ウズメの舞殿へ行きましょう」

 言ってから、自分で少し驚いた。

 まるで、誰かに言わされたようだった。

 いや、違う。

 言葉は自分の中から出た。

 けれど、その背中を、鈴のない鈴の音がそっと押したような気がした。

 サヨは、イロハを見た。

「ウズメの舞殿」

「はい。正式な舞台です。けれど、きっと今の私たちに必要なのは、面をつけて舞うための作法だけじゃありません」

「では、何を見に行くのですか」

 イロハは、壊れた舞台板を見た。

 子どもたちが笑っている。

 足を鳴らしている。

 誰にも許されていないのに、誰にも止められていない舞。

「まだ役になる前の動きです」

 サヨは、その言葉を静かに受け止めた。

「まだ役になる前の動き」

「はい」

 イロハは頷いた。

「サヨ様の面には、それが必要だと思います」

 その時、風がもう一度吹いた。

 壊れた小祠の扉が、かた、と鳴る。

 祠の奥で、誰かが笑ったような気がした。

 あでやかで、軽やかで、けれどどこか底知れない笑み。

 舞台の端で、幕の陰からこちらを見ている語り手のように。

 イロハは、思わず祠へ頭を下げた。

 誰へ向けた礼なのか、自分でもわからなかった。

 ただ、その場に礼をしたくなった。

 サヨも、静かに頭を下げた。

 アヤメは少し遅れて、それに倣う。

 ミツが舞台板の上から叫んだ。

「イロハさんもやる?」

「え?」

「月を踏むやつ!」

 子どもたちが笑う。

 イロハは戸惑った。

 けれどサヨが、ほんの少しだけ楽しそうに言った。

「見てみたいです」

「サヨ様まで」

「面師は、面だけでなく舞も見るのでしょう」

 その言い方が少しだけいたずらっぽくて、イロハは苦笑した。

 仕方なく舞台板へ上がる。

 板は思ったよりも頼りなかった。

 足を置くと、ぎし、と鳴る。

 ミツが得意げに教える。

「まず、月が来る」

「うん」

「それを見つける」

「うん」

「踏む!」

 ミツが、とん、と板を踏んだ。

 イロハも真似をする。

 とん。

 板が鳴る。

 舞ではない。

 神楽でもない。

 けれど、その一歩で、胸の奥の重さがほんの少し揺れた。

 子どもたちが笑う。

 サヨも、薄布の奥で笑った気がした。

 鈴のない鈴の音が、もう一度、遠くで鳴った。

 それは、面を持たぬ者たちの舞台にも、物語は宿るのだと告げる音だった。