EP 62

第6話 灰面長屋

終節 ― 映らぬ者も、ここにいる

 夕暮れが、灰面長屋の屋根を低く染めていた。

 白影宮へ戻るには、もう遅い時刻だった。

 それでも、サヨは急ごうとしなかった。アヤメは何度か空の色を見上げたが、最終的には何も言わなかった。ただ、御簾車の周囲と路地の影を確かめながら、サヨの歩幅に合わせていた。

 灰札の先触れが去った後も、長屋には薄い不安が残っていた。

 戸板の上の古面には、まだ布がかけられている。割れた生面を抱いて泣いていた女は、ようやく奥へ戻った。ゴウラは店先に座り直したが、いつものように面を磨く手つきには戻っていなかった。

 それでも、舞台板のほうからは、子どもたちの足音が聞こえていた。

 とん、とん。

 とん、たたん。

 月を踏む遊び。

 面を持たない子どもたちが、まだ役になる前の動きを、壊れた板の上で鳴らしている。

 イロハは、その音を聞きながら、古井戸のそばに戻った。

 濁った水桶は、まだそこにあった。

 さきほど白い半面が浮かんだ水。

 ミツとサヨの顔を、はっきり映さなかった水。

 ミツは、借り物の面を胸に抱いたまま、少し緊張した顔で立っている。面紐は直した。右耳の後ろの擦れも、今日はこれ以上ひどくならないはずだ。

 だが、それでこの子の顔がすぐに水へ映るわけではない。

「もう一度、見てもいい?」

 イロハが尋ねると、ミツは小さく頷いた。

「うん」

 水桶の前に、ミツが立つ。

 イロハとサヨも、そっと覗き込んだ。

 水面は夕暮れの色を映していた。

 灰色の空。
 長屋の軒。
 古井戸の欠けた縁。
 イロハの顔。
 アヤメの立ち姿。

 それらは、揺れながらも映っている。

 けれど、ミツの顔だけは、やはりはっきりしなかった。

 借り物の面の輪郭は見える。

 目元も、頬も、紐も見える。

 だが、そこにミツの顔としての芯がまだ通っていない。水の中で輪郭が揺れ、少し油を落としたようにぼやけている。

 ミツは、少し唇を尖らせた。

「まだ、ぼやけてる」

「うん」

 イロハは頷いた。

「でも、消えてはいない」

 ミツは、水面をじっと見た。

 ぼやけた顔。

 曖昧な輪郭。

 けれど、そこには確かに何かがある。

「ちょっといる」

「そう。ちょっといる」

 イロハは、静かに言った。

「映らないんじゃない。まだ、面が追いついていないだけです」

 それは、ミツへ向けた言葉だった。

 けれど、同時にサヨへ向けた言葉でもあった。

 サヨは、水面を覗き込んだ。

 ミツの横に、サヨの姿が映る。

 薄布。
 女房姿。
 隠した髪飾り。
 白影宮の香を薄く残した袖。

 けれど、やはり顔ははっきりしない。

 髪の線も、肩の形も映っている。そこにいることはわかる。だが、顔だけが水の中で定まらない。

 サヨは、しばらく自分の曖昧な反射を見つめていた。

 そして、静かに言った。

「では、わたしの面も」

 イロハは、サヨを見た。

「はい」

 言葉はすぐに出た。

「追いつかせます」

 サヨの目が、薄布の奥でかすかに揺れる。

 イロハは続けた。

「けれど、押しつける面にはしません」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが定まった。

 サヨの面を作る。

 それは、王朝に認めさせるためだけの面ではない。

 仮面籍庁に白札を剥がさせるためだけの面でもない。
 アリノリ=シジョウの《コトサダメ》に判定させるためだけの面でもない。
 白影宮の空の棚を埋めるためだけの面でもない。

 それでは、足りない。

 制度に認めさせるだけでは、サヨを救ったことにはならない。

 サヨ自身が、何者として立つのか。

 何を覚え、何を見て、どんな足音をこの国に響かせるのか。

 それを選べる余白を持つ面でなければならない。

 役を押しつける面ではなく、まだない役を選ぶための面。

 イロハは、ようやくその輪郭に触れた気がした。

 水桶の底が、ふっと白く揺れた。

 アヤメが即座に身構える。

 サヨは動かなかった。

 ミツは、面を胸に抱いたまま、イロハの袖を掴む。

 濁った水の奥に、白い半面が一瞬だけ浮かんだ。

 鏡ノ客。

 今度も、恐ろしいほど静かだった。

 夕暮れの水面の奥で、その半面は、誰の顔でもないままこちらを見ていた。

 声が響く。

「ならば、彫る者よ」

 水が揺れた。

「救うのか」

 イロハの喉が乾く。

「作り変えるのか」

 答えは、なかった。

 少なくとも、今のイロハの中には、まだなかった。

 救うことと、変えること。

 その境目は、簡単に線を引けない。

 ロウセツは、幼いイロハを救った。

 けれど、その救いの中には、イロハを作り変えたものが含まれていたかもしれない。

 イロハがサヨの面を作る時も、同じ危うさを避けては通れない。

 面を彫るとは、人の顔に触れることだ。

 顔に触れるとは、その人の世界での立ち方に触れることだ。

 ならば、怖くないはずがない。

 イロハは、水面の白い半面を見つめた。

 逃げたくなった。

 けれど、逃げなかった。

「まだ、わかりません」

 声は震えていた。

 それでも、はっきり言った。

「でも、勝手には決めません」

 白い半面は、沈黙した。

 イロハは続けた。

「救うと言って、相手の役を私が決めることはしません。作ると言って、その人の余白を削り落とすこともしません」

 水面が小さく波打つ。

「見ます。聞きます。待ちます。その人がどこへ立ちたいのか、どんな足音を鳴らすのか。それを知らないまま、彫りません」

 白い半面は、ほんの少しだけ傾いた。

 笑ったようにも見えた。

 泣いたようにも見えた。

 やがて、その輪郭は水の底へ溶けていった。

 後に残ったのは、夕暮れの空と、ぼやけたミツの顔と、曖昧なサヨの顔。

 そして、そこに並んで映るイロハの顔だった。

 イロハ=ナギ。

 《ナギノオモテ》を持つ面師。

 救われた者。

 変えられたかもしれない者。

 それでも今、誰かの面を彫ろうとしている者。

 サヨが、静かに言った。

「その答えで、今はよいのだと思います」

 イロハは、サヨを見た。

「よいのでしょうか」

「わかりません」

 サヨは少しだけ微笑んだ。

「けれど、勝手に決めないと言ってくれる面師に、わたしは作ってほしいです」

 その言葉は、イロハの胸へ深く染みた。

 アヤメが小さく息を吐く。

「危うい話です」

「はい」

 イロハは頷いた。

「でも、危うくない面なんて、たぶんありません」

 アヤメは少し黙った。

 そして、珍しく柔らかい声で言った。

「ならば、その危うさを忘れないでください」

「はい」

 ミツが水桶を覗きながら言った。

「ぼくの面も、勝手に決めない?」

「決めない」

「じゃあ、ぼくが決めるの?」

「一緒に見る」

 イロハは答えた。

「ミツがどう歩くのか、この面がどう追いつくのか、一緒に見る」

 ミツは、少し考えた。

「じゃあ、明日も転ばないように歩く」

「それは大事だね」

「でも、ちょっと転んだら、面も覚える?」

「覚えると思う」

 ミツは満足そうに頷いた。

 その時、遠くから足音が聞こえた。

 壊れた小さな舞台板のほうだ。

 とん、とん。

 とん、たたん。

 子どもたちは、まだ遊んでいる。

 月を踏む遊び。

 面を持たないまま、足で自分を知らせる遊び。

 夕暮れが夜へ変わろうとしているのに、その音だけは明るかった。

 サヨは、御簾車へ向かいかけていた足を止めた。

 薄布の向こうで、舞台板のほうを振り返る。

「イロハ」

「はい」

「次は、舞を見たいです」

 イロハは、舞台板の足音を聞いた。

 鈴のない鈴の音が、またどこかで鳴ったような気がした。

 ウズメの小祠は壊れていた。

 けれど、完全に眠っているわけではないのかもしれない。

 正規の舞殿でなくても、面を持たぬ者の足音に、神は耳を澄ませることがある。

「ウズメの舞殿へ行きましょう」

 イロハは答えた。

「面をつけて舞うためだけではなく、面が生まれる前の動きを見るために」

 サヨは静かに頷いた。

「はい」

 アヤメは、少し心配そうな顔をした。

「白影宮の外出許可は、簡単には」

「公式儀礼ではありません」

 サヨが穏やかに言う。

 アヤメは眉を寄せた。

「またその理屈ですか」

「はい」

「……私の胃が持ちません」

 その言葉に、イロハは思わず少し笑った。

 サヨも、薄布の奥で笑ったようだった。

 灰面長屋の入口まで戻ると、ゴウラが店先から声をかけた。

「面師」

 イロハは振り返る。

 ゴウラは、古い片目の職面を手にしていた。

「また来い」

「はい」

「今度は、親方も連れてこい。あの馬鹿に聞きたいことが山ほどある」

 イロハは苦笑した。

「私もです」

 ゴウラは、ふっと笑った。

「なら、ちょうどいい」

 御簾車がゆっくり動き出す。

 イロハは最後に、灰面長屋を振り返った。

 吊るされた欠け面。
 煤けた面箱。
 濁った水桶。
 壊れた小祠。
 小さな舞台板。

 そして、そこから聞こえる足音。

 映らぬ者も、ここにいる。

 水面にはぼやけても、台帳には載らなくても、面が追いついていなくても。

 ここにいる。

 イロハは、その音を胸に刻んだ。

 サヨの面に必要なものが、少しだけ見えた。

 それは、王朝が与える役ではない。

 仮面籍庁が定める役でもない。

 まだ誰にも決められていない場所で、自分の足を鳴らすための余白。

 その余白を、どう彫るのか。

 答えはまだない。

 けれど、次に見るべき場所は決まった。

 ウズメの舞殿。

 面が役を与える前に、舞が何を呼ぶのか。

 それを見なければならない。

 灰面長屋の夜風が、欠け面を揺らす。

 からから、と小さな音がした。

 それは、舞台の外で鳴る鈴のようだった。