EP 63

第7話 ウズメの舞殿

序節 ― 舞台へ向かう朝

 舞台とは、許された者だけが立つ場所ではない。

 立てなかった者の足音を、床下に溜めておく場所でもある。

 面を持つ者は、役を舞う。
 面を持たぬ者は――さて、何を踏むのだろう。

 帝都カミザの朝は、薄い金色をしていた。

 夜の名残を抱いた瓦の上に、淡い光が滑っていく。白木の回廊はまだ冷たく、黒漆の門には朝露が細く光っていた。遠くで役面市の支度をする声が聞こえ、面師小路のほうからは、木粉と漆と湯気の匂いが流れてくる。

 けれど、イロハの耳には別の音が残っていた。

 とん、とん。

 灰面長屋の奥、壊れた小さな舞台板を踏む、子どもたちの足音。

 月を踏む遊び。

 神楽でもなく、祭礼でもなく、誰かに許された舞でもない。
 それでも、そこには確かに「始まり」があった。

 あの音を、サヨも聞いていた。

 御簾車の中、女房姿に身を隠したサヨ=ミカゲは、薄布越しに外を見ていた。白影宮の皇女としての装いではない。髪飾りも控えめで、袖の色も沈められている。だが、その静かな座り方だけは、どんな衣をまとっても隠しきれなかった。

 アヤメ=シラハは、車のそばを歩いていた。

 表向きは、面師イロハの調査に付き添う護衛。
 白影宮の名は伏せられている。

 けれど、アヤメの足取りには朝から緊張があった。

「白影宮外の公式儀礼参加は止められています」

 低い声だった。

 人目を避けるため、通りの角を曲がったところで、アヤメはようやくそう言った。

 イロハは御簾車の横を歩きながら、少しだけ肩をすくめる。

「参加ではありません。見るだけです」

「見ることも、時には儀礼になります」

 アヤメの返答は早かった。

 それは護衛としての警戒だけではない。第5話の審査以来、仮面籍庁がどこに目を光らせているか、誰にもわからなかった。

 ユラの鈴祈舞面《ユラノスズ》は使用停止。
 ハルマサの暁刃戦面《アカツキノハ》は封役。
 セイランの記録は仮記録扱い。
 イロハは白影宮への単独出入りを制限され、サヨは役名保留候補とされた。

 そこへ、ウズメの舞殿。

 舞、面、神前、役。

 どれも、仮面籍庁が目を向けるには十分すぎる言葉だった。

 御簾の向こうから、サヨの声がした。

「なら、なおさら見なければ」

 アヤメは一瞬、言葉を失った。

「サヨ様」

「わたしは、舞に参加するのではありません。神前に立つのでもありません。ただ、見るのです」

「ですから、その見ることが」

「役になる前の動きを」

 サヨの声は静かだった。

 けれど、その中に昨日までとは違う芯があった。

「灰面長屋で、面を持たない子どもたちは、舞台板を踏んでいました。誰に許されたわけでもないのに。どの台帳にも書かれていないのに」

 イロハは、その言葉に胸を押された。

 とん、とん。

 あの足音が、また聞こえた気がした。

 サヨは続ける。

「あの子たちは、面が追いつく前に足を鳴らしていました。ならば、わたしも知らなければなりません。面が作られる前に、何が始まるのかを」

 アヤメは黙った。

 反論はあったはずだ。

 危険だ。
 軽率だ。
 仮面籍庁に知られれば処分材料になる。
 白影宮へ戻ってからでも話し合える。

 だが、そのどれも口にしなかった。

 サヨは、もう白影宮の奥で待つだけの皇女ではなくなりつつあった。

 アヤメは、それを誰より近くで見ている。

「……見るだけです」

 やがて、アヤメはそう言った。

「舞台には上がらないでください」

 サヨは、少しだけ間を置いた。

「約束はできません」

「サヨ様」

「でも、無理には上がりません」

 アヤメは深く息を吐いた。

「その違いが、私には一番怖いのですが」

 イロハは思わず苦笑した。

 けれど、その笑いはすぐに消えた。

 自分も、怖かった。

 サヨを舞殿へ連れていくことが怖い。
 ウズメの気配に触れることが怖い。
 ユラの白札をもう一度見ることが怖い。
 そして何より、サヨの面に必要なものを本当に見てしまうことが怖かった。

 第6話の夜、鏡ノ客は問うた。

 救うのか。
 作り変えるのか。

 イロハはまだ答えを持っていない。

 ただ、「勝手には決めない」とだけ答えた。

 ならば、見なければならない。

 サヨが自分でどこへ足を出そうとするのか。
 役になる前の動きが、どこから生まれるのか。

 面を彫る前に。

 線を引く前に。

 帝都の道は、やがて舞殿へ続く参道へ変わった。

 ウズメの舞殿は、帝都カミザの内でも古い神域に属している。天帝宮ほど高くはない。白影宮ほど静かでもない。だが、そこには別の種類の気配があった。

 朝から参道には人がいた。

 舞面を納めに来た神楽師。
 鈴を修理する職人。
 祭礼用の布を運ぶ若者。
 祈面を抱えた女。
 舞を習う子どもたち。

 みな、それぞれの面を持っている。

 面を抱く者。
 面箱を背負う者。
 すでに面をつけている者。

 その中で、サヨだけが面を持たない。

 御簾車の中にいても、イロハにはそのことが痛いほどわかった。

 周囲の人々は、サヨの正体を知らない。
 けれど、何かを感じるのか、御簾車が通ると少しだけ道を空けた。

 アヤメが小さく警戒を強める。

 イロハは、サヨの横顔を見た。

 薄布越しの顔は、まだ水面のように曖昧だった。
 けれど、昨日と違っていた。

 映らない者ではない。

 まだ面が追いついていない者。

 そう思えるようになっただけで、イロハの中の見え方は変わっていた。

 参道の途中、小さな水鉢があった。

 参詣者が手を清めるためのものだ。

 水面に、朝の空が映っている。

 イロハは足を止めかけた。

 白い半面が映るのではないかと思った。

 しかし、何も映らなかった。

 ただ、揺れる空と、参道の鳥居の影と、イロハ自身の顔が映っているだけだった。

 ほっとしたはずなのに、少しだけ物足りない。

 見られていないことが、かえって不安になる。

 エル=ネフリドは、現れなかった。

 ウズメの舞殿へ向かう道では、鏡の客よりも先に、舞台の神が待っているのかもしれなかった。

 やがて、朱塗りの鳥居が見えてきた。

 朝日を受けた朱は、燃えるようではなく、舞台の幕がゆっくり上がる前の色に似ていた。

 その奥に、黒漆の柱と白木の床を持つ大きな舞殿がある。屋根の端には金の鈴が吊るされ、風もないのに、ほんのかすかに揺れていた。

 りん、と音がした。

 実際に鳴ったのか、耳の奥で鳴ったのか、イロハにはわからなかった。

 サヨが御簾の内側で顔を上げる。

「今の音」

「聞こえましたか」

「はい」

 アヤメも眉を寄せている。

「鈴は、鳴っていないように見えます」

 イロハは舞殿を見た。

 鈴は揺れている。

 けれど、音を出すほどではない。

 それでも、確かに聞こえた。

 鈴のない鈴の音。

 灰面長屋の小祠でも聞いた音。

 ウズメ=ムゲン命の気配が、朝の舞殿の床下から、静かに立ち上がっている。

 イロハは息を吸った。

 木の匂い。
 古い漆の匂い。
 焚きしめられた香の匂い。
 そして、何度も踏まれて磨かれた舞台板の匂い。

 ここには、無数の足音が眠っている。

 許された者の足音。
 役を持つ者の足音。
 神を迎えた者の足音。

 そして、もしかしたら。

 立てなかった者の足音も。

 サヨが御簾車から降りる。

 アヤメがすぐに手を添えた。

 サヨは舞殿を見上げた。

 昨日、灰面長屋の壊れた舞台板を見た時と同じように。

 けれど、その目は少し違っていた。

 圧倒されているのではない。
 ただ、問うている。

 面がなくても、ここで一歩を踏めるのか。

 自分は何を踏めばよいのか。

 イロハは、その横に立った。

「行きましょう」

 サヨは頷いた。

「はい」

 朱の鳥居をくぐる。

 その瞬間、舞殿の奥の御簾が、風もないのにわずかに揺れた。

 誰かが笑ったような気がした。

 まだ幕は上がっていない。

 けれど、舞台はもう、こちらを見ていた。