EP 64

第7話 ウズメの舞殿

第一節 ― ウズメの舞殿

 ウズメの舞殿は、朝の光の中で、静かに開かれていた。

 灰面長屋の奥にあった舞台板は、板が三枚、地面より少し高く渡されただけのものだった。釘は錆び、端は欠け、足を置けばぎしりと鳴った。けれどそこには、面を持たぬ子どもたちの笑い声があり、月を踏む足音があった。

 ここは、違う。

 朱塗りの舞台は広く、磨かれた床は朝日を薄く返している。黒漆の柱は舞台を支えるように四隅に立ち、神前の御簾は奥深く垂れていた。御簾の向こうは見えない。だが、そこに何かがいると思わせる静けさがあった。

 舞台の脇には鈴棚がある。

 大小さまざまな鈴が、朱紐に結ばれて並んでいた。祭礼用の大鈴、神楽師が手に持つ小鈴、足首に結ぶ細鈴。どれもよく磨かれ、触れられるのを待っているようだった。

 さらに奥には、舞面の蔵があった。

 白木の扉に、舞扇と笑みの文様が彫られている。扉の前には香が焚かれ、舞に使われる面たちは、神前に出る前の眠りについているように静まり返っていた。

 すべてが整っていた。

 すべてが清められていた。

 だからこそ、イロハには、灰面長屋の壊れた板の音がよけいに思い出された。

 とん、とん。

 不揃いで、軽くて、けれど確かにそこにいると知らせる足音。

 サヨも、同じ音を思い出しているのかもしれなかった。

 彼女は舞殿の広さにも、鈴棚の美しさにも、面蔵の格式にも、すぐには目を奪われなかった。

 ただ、舞台の床を見ていた。

 磨かれた白木の床。

 無数の神楽師が踏み、滑り、回り、膝をつき、また立ち上がった場所。

 サヨは、その床が何かを待っているように見えたのだろう。

 踏まれるのを。

 足音を。

 まだ役の名になっていない、最初の一歩を。

「サヨ様」

 アヤメが小さく呼んだ。

 サヨは、はっとしたように顔を上げた。

「申し訳ありません」

「いえ。ただ、あまり長く見つめていると目立ちます」

 アヤメの声は低い。

 護衛として当然の警戒だった。

 舞殿には、すでに人の気配があった。朝の清掃をする者、鈴を点検する者、舞台袖で袖布を畳む者、面蔵の前で帳面を開く者。彼らはみな、イロハたちに気づいている。

 イロハは中級面師の札を出していた。

 だから門前で止められることはなかった。

 けれど、サヨの存在は目立った。

 女房姿に身を隠してはいる。白影宮の名も伏せている。だが、彼女の立ち方、視線の静けさ、周囲の空気が自然と道を空ける感じは、どうしてもただの女房には見えない。

 舞殿の者の中には、それに気づいて深く頭を下げる者もいた。

 おそらく、白影宮の関係者だと察した者だ。

 一方で、正体までは知らない若い者たちは、御簾を纏うサヨを不審そうに見ていた。

 面を持たぬ者が、舞殿にいる。

 その違和感は、言葉にされなくとも空気に滲んでいた。

 イロハは、その視線を感じて唇を引き結んだ。

 ここでも同じだ。

 白影宮でも、灰面長屋でも、仮面籍庁でも、舞殿でも。

 人はまず、面を見る。

 面がない者は、何者としてそこにいるのかを問われる。

 舞殿の奥から、若い神楽師が一人近づいてきた。

 淡い朱の稽古装束に、まだ正式な舞面はつけていない。腰に小さな鈴を結び、髪を後ろでまとめている。年はユラと近いだろう。彼は礼儀正しく一礼した。

「面師イロハ=ナギ様ですね。お話は伺っております」

「はい。白化面の件で、少し見せていただきたいものがあって来ました」

「承っております」

 若い神楽師はそう言ったが、目がサヨのほうへ一瞬だけ流れた。

 アヤメがすぐに半歩前へ出る。

「同行者です」

「失礼いたしました」

 神楽師は深く頭を下げた。

 その丁寧さは、嘘ではなかった。

 けれど、警戒も消えなかった。

 ここは舞殿だ。

 誰でも入れる市場ではない。

 神前に立つ者、舞面を扱う者、神楽に関わる者。そのすべてに役と作法があり、面と資格がある。

 イロハは、その格式を責めるつもりはなかった。

 神域を守るには、境界がいる。

 だが、境界はときに、人を外へ押し出す。

「ユラ=シラビョウさんは、いらっしゃいますか」

 イロハが尋ねると、若い神楽師の表情がわずかに曇った。

「ユラは……今は表舞台には出ておりません」

「白札の件ですか」

 神楽師はすぐには答えなかった。

 舞台のほうを一度見た。

 それから、小さく頷く。

「決まりですので」

 その言葉は、アリノリ=シジョウの「規定です」と同じ種類の冷たさを持っていた。

 ただし、ここには悪意がない。

 若い神楽師は、ユラを責めているわけではない。むしろ、痛ましそうだった。だが、白札を貼られた面を持つ者を、神前の表舞台へ立たせることはできない。

 神を迎える舞台だから。
 祭礼を乱せないから。
 舞殿を守らなければならないから。

 そのすべては、きっと正しい。

 正しいからこそ、ユラは舞台から遠ざけられている。

 イロハの胸に、小さな怒りが灯った。

 怒りというより、痛みだった。

「ユラさんは、舞えないわけではありません」

 イロハが言うと、若い神楽師は目を伏せた。

「存じています」

「なら」

「ですが、神を迎える沈黙に入れない舞を、神前へ出すわけにはいきません」

 その言葉に、空気が止まった。

 アヤメが少しだけ視線を鋭くする。

 サヨは黙って聞いていた。

 イロハは、若い神楽師を見た。

 彼は後悔したように唇を引き結んでいた。

 傷つけるために言ったのではない。
 だが、それでも言わなければならない立場だった。

「……すみません」

 神楽師は小さく頭を下げた。

「我々も、ユラに戻ってほしいと思っています。ただ、舞殿としては」

「わかります」

 イロハは、ゆっくり答えた。

 本当は、完全にはわからない。

 でも、ここで責めても何も進まない。

「ユラさんに会わせてください」

「はい。奥の稽古板におります」

「稽古板?」

「正式な舞台ではありません。神前へ出す前の稽古場です」

 その言葉に、サヨがわずかに顔を上げた。

 正式な舞台ではない場所。

 灰面長屋の小さな舞台板と、どこか響き合う言葉だった。

 若い神楽師は、イロハたちを舞殿の脇へ案内した。

 大舞台の横を通る。

 床は磨かれ、足袋で歩くだけでも音が吸い込まれるようだった。イロハは思わず足元を見た。ここを、いくつもの役が踏んできたのだろう。神楽師、舞姫、祝詞を読む者、鈴を鳴らす者、面をつけて神を迎える者。

 踏むたびに、床がその役を覚える。

 ならば、踏ませてもらえなかった者の足音は、どこへ行くのだろう。

 サヨも同じことを考えているようだった。

 彼女の視線は、舞台の端を追っていた。

 中央ではない。

 神前に最も近い場所でもない。

 舞台の端。

 そこは、舞に入る者が最初に足を置く場所だった。

 舞殿の裏へ回ると、空気が少し変わった。

 表舞台の香と格式の匂いが薄れ、代わりに汗、木粉、古い布、鈴の金属臭が混じった匂いがした。

 稽古用の板床がある。

 大舞台ほど広くはない。だが、灰面長屋の舞台板よりはずっと整っている。壁には稽古用の鈴、布、古い舞扇が掛けられ、隅には面箱がいくつも並んでいた。

 そのひとつに、白札が貼られていた。

 イロハはすぐにわかった。

 ユラの鈴祈舞面《ユラノスズ》だ。

 面箱の前に、ユラ=シラビョウが座っていた。

 彼女は膝の上に鈴を置き、指先で紐を撫でている。第1話で見た時よりも、少し痩せたように見えた。けれど、イロハに気づくと、ぱっと顔を上げて笑った。

「イロハさん」

 その笑顔は明るい。

 明るくあろうとしている。

「来てくれたんですね」

 イロハは、少し胸が痛くなった。

「はい。診に来ました」

 ユラは面箱に貼られた白札を見て、肩をすくめた。

「舞えませんよ。白札つきですから」

 軽い口調だった。

 でも、その手は鈴の紐を強く握っていた。

 サヨが、静かにユラを見ていた。

 ユラもサヨに気づき、立ち上がろうとした。

 その動きの途中で、何かを察したのか、彼女の表情が変わる。

 御簾姿。
 アヤメの護衛。
 そして、面を持たぬ高貴な気配。

 ユラは慌てて膝をつこうとした。

 サヨが、それを止めた。

「今日は、そのような礼は不要です」

「ですが」

「わたしも、舞台に立つ役を持たぬ者として来ました」

 ユラは、言葉を失った。

 イロハも、少し驚いた。

 サヨは自分を皇女とは名乗らなかった。

 けれど、自分の欠落は隠さなかった。

 舞台に立つ役を持たぬ者。

 その言葉は、ユラの胸にも届いたようだった。

 ユラはゆっくり座り直す。

「……それなら、少しだけ気が楽です」

 そう言って笑った。

 今度の笑みは、さっきよりも本当のものに近かった。

 イロハは面箱の前に膝をついた。

 白札は、きれいに貼られている。

 鈴祈舞面《ユラノスズ》。

 使用停止。
 奉納舞参加保留。

 文字は細く、整っていた。

 だが、その下にある面の息を、イロハは知っている。

 白化し、噛まれ、それでも完全には死んでいない面。

 イロハは白札に触れず、面箱の縁にだけ指を添えた。

 剥がしてはいけない。

 剥がせば、ユラがさらに不利になる。

 制度の札は、紙でできているのに重い。

「開けてもいいですか」

 イロハが尋ねると、ユラは頷いた。

「はい」

 面箱が開かれる。

 中には、白化の痕を残した舞面が眠っていた。

 本来なら、鈴の音に似た明るさを持つ面だったのだろう。口元には柔らかな笑みがあり、目元には舞い出す直前の静けさがある。

 けれど、その目元から頬にかけて、薄い月痕が走っていた。

 白い噛み跡。

 第1話で見た時よりも、少しだけ深くなっている気がした。

 イロハは息を詰めた。

 仮置きした一節は、完全に残ってはいない。

 けれど、消えきってもいなかった。

 面の奥に、かすかな足音のようなものが眠っている。

 サヨが、面を覗き込んだ。

「この面は、まだ舞台を覚えていますね」

 ユラが驚いたようにサヨを見た。

「わかるんですか」

「少しだけ」

 サヨは静かに答えた。

「けれど、舞台へ戻る道が、途中で白くなっています」

 イロハは胸の奥が震えた。

 その見方は、面師の診断ではない。

 だが、正しい。

 ユラが喰われたのは、舞の技術ではない。
 神を迎える沈黙へ入る入口。
 舞台へ戻る道の、最初の白い部分。

「ユラさん」

 イロハは言った。

「少し、身体を見せてもらえますか」

「身体?」

「舞を忘れていないか、確認したいんです」

 ユラは苦笑した。

「忘れてはいません」

「はい。だから、確認します」

 ユラはしばらく黙った。

 やがて、鈴を手に取る。

 小さな鈴だった。

 細い朱紐がついている。

 ユラが立ち上がると、周囲の空気がわずかに変わった。

 彼女は確かに神楽師だった。

 足の置き方。
 腰の高さ。
 袖の扱い。
 鈴を持つ指の力。

 どれも、身体に染みついている。

 ユラは稽古板の端に立った。

 サヨが、じっと見つめる。

 アヤメは周囲を警戒しつつも、視線の端でユラの足を追っていた。

 若い神楽師は、入口近くで息を止めている。

 ユラは鈴を構えた。

 沈黙が落ちる。

 本当に、落ちたようだった。

 舞殿の裏の稽古場から、音が消えた。

 遠くの参道の声も、鈴棚の気配も、表舞台を掃く音も、すべて薄くなる。

 神を迎える前の沈黙。

 その手前で、ユラの足が止まった。

 動かない。

 足袋の先が、板に触れたまま動かない。

 ユラの肩が震える。

 鈴は、鳴らなかった。

「……ほら」

 ユラは、小さく笑った。

 笑おうとして、できなかった。

「ここまでは来られるんです。でも、ここから先に行けない」

 イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見た。

 月痕が、かすかに白く光ったように見えた。

 サヨは、稽古板の端を見ている。

 大舞台ではない。
 神前でもない。
 それでも、ここにも入口がある。

 ユラが入れない入口。

 サヨがまだ知らない入口。

 イロハが、勝手に役を置いてはいけない入口。

 その時、舞殿の奥で、かすかに鈴が鳴った。

 りん。

 誰も鈴を動かしていない。

 ユラの鈴も、まだ鳴っていない。

 それでも、確かに音はした。

 若い神楽師が顔を上げる。

 アヤメがわずかに身構える。

 サヨは、静かに舞台の床を見た。

 イロハは、その音を胸で聞いた。

 ウズメの舞殿は、まだ何も語らない。

 けれど、黙ってはいなかった。