EP 65

第7話 ウズメの舞殿

第二節 ― 白札の神楽師

 りん、と鳴った音の余韻が、稽古場の板の上に残っていた。

 ユラ=シラビョウは、鈴を持ったまま立ち尽くしている。

 彼女の手の中の鈴は、まだ鳴っていない。指先も動いていない。けれど、舞殿の奥で聞こえた小さな音に、ユラの肩だけがわずかに震えた。

「……今の」

 ユラが呟く。

 イロハは答えなかった。

 答えられなかった。

 ここがウズメの舞殿だから鳴ったのか。
 ユラの中に残っている舞の気配が鳴らしたのか。
 それとも、面箱の中の《ユラノスズ》が、まだ自分は死んでいないと知らせたのか。

 どれとも言えたし、どれとも言えなかった。

 イロハは、開かれた面箱へ視線を落とす。

 鈴祈舞面《ユラノスズ》。

 白札は、面箱の蓋の内側に貼られている。
 仮面籍庁の細い印と、奉納舞参加保留の文字。

 その札は、面そのものには触れていない。

 けれど、面の呼吸を押さえつけているように見えた。

 イロハは指先を伸ばしかけて、止める。

 剥がせない。

 白札を剥がせば、ユラが救われるわけではない。むしろ、仮面籍庁への反抗として扱われ、ユラの立場をさらに悪くするかもしれない。

 たった一枚の紙。

 けれど、その紙の重さを、イロハは第5話で思い知っていた。

「イロハさん」

 ユラが、わざと明るい声を出した。

「面ばっかり見ても、つまらないですよ。どうせ白札つきですし」

「つまらなくありません」

「でも、舞えませんよ」

 ユラは笑った。

 けれど、その笑いは頬だけで作られていた。

「白札つきですから」

 その言い方は軽い。

 軽く見せようとしている。

 でも、鈴を握る指が白くなっていた。

 サヨは、それを静かに見ていた。

 面を持たない皇女と、白札によって舞台を止められた神楽師。立場は違う。けれど、どちらも「立てない者」だった。

 イロハは面箱の前から、ゆっくり立ち上がった。

「ユラさん。もう一度、見せてもらえますか」

「舞を?」

「舞ではなく、始めるところを」

 ユラは少し困ったように笑う。

「それができないんですけどね」

「だから、そこを見ます」

 イロハは面を見ない。

 ユラ本人を見る。

 面師としては、面を診るのが当然だった。木目、漆、内側に残った息、紐の擦れ、月痕の深さ。それらを読めば、多くのことがわかる。

 けれど、第6話でイロハは知った。

 面だけを先に見てはいけない時がある。

 面が追いついていない人を、面の側から決めてはいけない時がある。

 今、必要なのは《ユラノスズ》に何を置くかではない。

 ユラが、どこで止まっているのかを見ることだった。

 ユラは稽古板の端に立った。

 足袋の先を揃え、背筋を伸ばす。袖を静かに整え、鈴を持つ手を胸の前へ上げる。その動きは美しかった。無理に思い出しているのではない。身体が覚えている。

 呼吸も乱れていない。

 肩の落とし方。
 腰の入り方。
 視線の置き所。
 袖が空気を含む角度。

 すべてが神楽師のものだった。

 若い神楽師が、入口で小さく息を呑む。

 彼もわかっているのだ。

 ユラは、舞を忘れてなどいない。

 ユラは、ゆっくり息を吸った。

 稽古場が静まる。

 表舞台を掃く箒の音も遠のく。鈴棚の金具が触れ合う音も消える。朝の参道の声も、薄い幕の向こうへ引いていく。

 沈黙。

 神を迎える前の沈黙。

 舞が始まる前に、舞台が息を止める時間。

 ユラの足が、そこで止まった。

 出ない。

 右足の親指に力が入る。
 左足のかかとがわずかに浮きかける。
 けれど、その先へ進めない。

 鈴は鳴らない。

 ユラの唇が震えた。

「ほら」

 その声は、さっきよりも小さかった。

「ここまでは、来られるんです」

 イロハは黙っていた。

「鈴の持ち方も、袖の上げ方も、息の入れ方も、覚えています。次に何をするかも、頭ではわかっています」

 ユラは舞台板を見下ろす。

「でも、踏めない」

 鈴を持つ手が下がる。

「舞が怖いわけじゃないんです。神前が怖いわけでもない。失敗するのが怖いわけでも……たぶん、ない」

 笑おうとする。

 けれど、今度は笑えなかった。

「なのに、始められない」

 イロハは、一歩だけ近づいた。

「ユラさんが失ったのは、舞ではありません」

「……はい」

「型でも、鈴でも、身体でもありません」

「では、何ですか」

 ユラが顔を上げる。

 その目には、答えを求める怖さがあった。

 イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見た。

 白い月痕。

 それは、面の表情を壊しているのではない。

 舞台へ入るための道筋を、途中で噛み切っている。

「神を迎える沈黙へ入る入口です」

 イロハは言った。

 ユラの瞳が揺れる。

「入口……」

「はい。もっと言えば、その沈黙を破って、一歩目を踏む役」

 サヨが、静かに息を呑んだ。

 アヤメも、目を細める。

 イロハは続けた。

「第1話の時、私は一節だけ仮置きしました。だから、ユラさんは一瞬だけ舞を思い出せた。でも、戻ったのは舞全部ではなくて、消えかけた入口の形だけだったんだと思います」

 ユラは、鈴を見つめた。

「では、私が舞えないのは」

「臆したからではありません」

 イロハは、はっきり言った。

「怠けたからでも、未熟だからでも、神に拒まれたからでもありません。入口を喰われたんです」

 その言葉を聞いた瞬間、ユラの顔が歪んだ。

 泣きそうになって、でも泣かなかった。

 代わりに、鈴を胸に抱いた。

「そう言ってもらえるだけで、少し息ができます」

 声が震えていた。

「みんな優しいんです。誰も私を責めません。けれど、責めないまま、舞台から少しずつ遠ざけてくれる」

 若い神楽師が俯いた。

 ユラは彼を責めるようには見なかった。

「わかっているんです。舞殿を守るためです。神前を乱さないためです。わかっているんですけど」

 鈴が、かすかに震える。

「優しく外されるのも、痛いんですね」

 稽古場に、重い沈黙が落ちた。

 サヨが、ゆっくり口を開く。

「わたしも、似ています」

 ユラがサヨを見る。

「面がないから、公式の儀礼に出られません。誰も怒鳴りません。誰もわたしを責めません。ただ、丁寧に、わたしのためだと言って、わたしの立つ場所を空白にします」

 サヨの声は静かだった。

「優しく外される痛みは、少しだけわかります」

 ユラは、しばらくサヨを見ていた。

 それから、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「礼を言われることではありません」

「でも、言わせてください」

 ユラは小さく笑った。

 今度の笑みは、少しだけ柔らかかった。

 イロハは、二人を見つめながら、自分の手を握った。

 仮置きしたい。

 ユラの入口に、もう一度仮の役を置きたい。

 そうすれば、一歩くらいは戻せるかもしれない。

 けれど、第6話の水桶の前で決めたはずだった。

 勝手には決めない。

 救うためと言って、相手の役をこちらで置かない。

 ユラには戻すべき役がある。
 それでも、今ここでイロハがまた一方的に入口を置けば、ユラは「イロハが戻した一歩」を踏むことになる。

 それは本当にユラの一歩だろうか。

 イロハは、伸ばしかけた手を下ろした。

「今日は、仮置きはしません」

 ユラが目を瞬かせる。

「しないんですか」

「はい」

「じゃあ、私は」

「ユラさん自身が、踏める入口を探します」

「そんなの」

 ユラは笑いかけた。

 けれど、その笑いは途中で止まる。

「……そんなの、あるんでしょうか」

「わかりません」

 イロハは正直に答えた。

「でも、仮に置いた入口ではなく、ユラさんの足が見つける入口を見たいんです」

 ユラは黙った。

 その沈黙は、さっきの舞の沈黙とは違っていた。

 少し戸惑い、少し怖がり、それでもかすかに何かを探し始める沈黙。

 サヨが稽古板を見た。

「灰面長屋では」

 その言葉に、イロハは顔を上げる。

 サヨは続けた。

「あの子たちは、正しい舞を知りませんでした。鈴もなく、面もなく、神前でもありませんでした」

 ユラは、静かに聞いている。

「でも、月が来ると言って、見つけて、踏んでいました」

「月を……踏む?」

「はい」

 サヨの声に、ほんの少し温かさが混じった。

「舞ではないのかもしれません。神楽でもないのかもしれません。でも、始まりではありました」

 ユラは、稽古板を見下ろした。

 正しい一歩。

 神を迎える沈黙。

 白札。

 舞殿の決まり。

 すべてが、彼女の足を縛っている。

 サヨは問う。

「正しい一歩でなくても、始めることはできますか」

 その問いが、稽古場の板の上に落ちた。

 誰もすぐには答えなかった。

 舞殿の奥で、また小さく、りん、と音がした。

 今度も、誰の鈴も鳴っていない。

 けれどユラは、確かにその音を聞いたようだった。

 彼女は、ゆっくりと息を吸う。

 鈴を構える。

 けれど、今度は神前の型に入らなかった。

 足を揃えすぎない。

 袖を整えすぎない。

 正しい沈黙を待ちすぎない。

 まるで灰面長屋の子どもたちが、月を踏む前に少し跳ねたように。

 ユラは、ほんのわずかに膝を緩めた。

 そして。

 とん。

 稽古板が鳴った。

 鈴は、まだ鳴らない。

 けれど、ユラの足は出た。

 正しい神楽の一歩ではなかった。

 舞殿の記録に残るような美しい型でもなかった。

 少しずれた、不格好な、けれど確かにユラ自身の一歩だった。

 ユラは、自分の足を見つめる。

「……出た」

 声が震えていた。

 イロハは、息を止めたまま頷いた。

「はい」

「でも、こんなの、神楽じゃありません」

「まだ、神楽になる前の動きです」

 その言葉を言った瞬間、舞殿の御簾が、風もないのにふわりと揺れた。

 奥の暗がりで、誰かが笑ったような気がした。

 嘲笑ではない。

 許しでもない。

 始まった、と告げる笑い。

 ウズメ=ムゲン命の気配が、稽古板の下から、舞殿全体へ静かに広がっていく。

 ユラの手の中で、鈴が小さく鳴った。

 りん。

 今度は、本当に鳴った。

 かすれて、短く、途中で切れそうな音。

 それでも、確かにユラの鈴だった。