EP 66

第7話 ウズメの舞殿

第三節 ― 舞台に立てぬ皇女

 りん、と鳴った鈴の音は、すぐに消えた。

 けれど、消えたあとも、稽古板の上には何かが残っていた。

 音ではない。
 形でもない。
 それは、誰かが初めて息を吸ったあとのような、かすかな余白だった。

 ユラ=シラビョウは、自分の手の中の鈴を見つめていた。

 鳴った。

 ほんの短く、かすれて、頼りない音だった。
 けれど、鳴った。

 白札を貼られた鈴祈舞面《ユラノスズ》の前で、彼女の足は一度だけ動いた。正しい神楽の一歩ではなかった。舞殿の記録に残るような美しい所作でもなかった。

 でも、それはユラ自身の一歩だった。

「……こんなの」

 ユラは小さく呟いた。

「こんなの、神楽じゃないのに」

 声が震えていた。

 イロハは、すぐに答えなかった。

 神楽ではない、と言えば、ユラを傷つける。
 神楽だ、と言えば、白札の現実を無視することになる。

 だから、ただ見ていた。

 今の一歩が、どこから来たのかを。

 ユラの足元。
 鈴を握る指。
 沈黙を避けるように少し崩した膝。
 正しさから一度だけ横へ逸れた、その身体の動き。

 それは、灰面長屋の子どもたちの足音に似ていた。

 月が来る。
 見つける。
 踏む。

 誰かに教えられた舞ではない。
 けれど、怖さに飲まれないための動き。

 サヨは、その一歩をじっと見ていた。

 彼女の視線は、ユラの顔ではなく、足元に向けられていた。まるで、そこに自分が探しているものが落ちているかのように。

 その時、稽古場の入口にいた若い神楽師が、かすかに声を漏らした。

「白影宮の……」

 アヤメの視線が鋭く走る。

 若い神楽師は、はっと口を閉じた。

 だが、もう遅かった。

 ユラもその言葉を聞いていた。

 彼女はゆっくりとサヨを見た。

 御簾姿。
 面を持たぬ高貴な気配。
 アヤメ=シラハの護衛。
 イロハが連れてきた、舞台に立つ役を持たぬ者。

 ユラの顔から、血の気が引いた。

 彼女は慌てて鈴を置き、膝をつこうとした。

「申し訳ございません。わたし、知らずに」

「やめてください」

 サヨの声が、静かに止めた。

 強い声ではなかった。

 けれど、ユラの膝はその場で止まった。

 サヨは一歩だけ近づく。

 その一歩に、アヤメがわずかに反応した。
 だが、止めなかった。

「今日は皇女として来たのではありません」

 ユラは、困惑した顔でサヨを見上げた。

「では、何として」

 サヨは、すぐには答えられなかった。

 御簾の奥で、唇がわずかに動く。

 皇女として。

 役名保留候補として。

 面を持たぬ者として。

 白影宮の主として。

 それとも、灰面長屋の子どもたちの足音を聞いた者として。

 どれも嘘ではない。

 けれど、どれもまだ、サヨ自身の答えではなかった。

 彼女は静かに言った。

「……まだ、わかりません」

 ユラは目を見開いた。

 アヤメの表情が、痛むように揺れる。

 イロハは、その言葉を胸の奥で受け止めた。

 まだ、わかりません。

 サヨは、自分を定義できない。

 面がないから。
 役名が保留されているから。
 皇族面台帳に、自分の役がないから。

 けれど、それだけではない。

 サヨはもう、誰かに与えられた答えだけで立とうとしていない。

 だから、わからない。

 自分が何者として立ちたいのかを、まだ探している途中なのだ。

 ユラは、膝をつくのをやめ、ゆっくり立ち上がった。

「……わたしも」

 鈴を見下ろす。

「わたしも、今は神楽師としては立てません」

 サヨは答えた。

「でも、あなたは舞を覚えている」

「覚えています」

 ユラは頷く。

「型も、鈴も、袖も、呼吸も。どこで目を伏せて、どこで神前へ向き直るのかも、覚えています」

 そこで、彼女は稽古板の端を見た。

「でも、始められないんです」

 その言葉が、稽古場に落ちた。

 イロハは、ユラを見る。
 サヨを見る。
 そして、自分の手を見る。

 ユラは舞えるが、始められない。

 サヨは皇女だが、立てない。

 イロハは面を作れるが、押しつけることを恐れている。

 三人とも、入口の前にいる。

 誰かに背を押されれば進めるかもしれない。
 でも、それでは本当に自分の一歩なのか、わからなくなる。

 イロハは、そこでようやく自分がこの舞殿へ来た理由を、少し理解した。

 ユラの白札をどうにかするためだけではない。

 サヨの未在面の輪郭を探すためだけでもない。

 自分自身が、面師として何をしてはいけないのかを知るために、ここへ来たのだ。

 ユラが言う。

「さっきの一歩は、舞じゃありません」

「はい」

 イロハは頷いた。

 ユラは少し驚いたようにイロハを見た。

 イロハは続ける。

「でも、舞ではないから、無意味というわけでもありません」

「では、何なんですか」

 その問いに、イロハはすぐ答えられなかった。

 答えを先に与えてはいけない気がした。

 ユラの一歩に、名前をつけるのは簡単だ。

 未役の足音。
 白札の外側の舞。
 神楽になる前の動き。

 けれど、いま言葉にしてしまえば、その一歩をまたイロハが決めてしまう。

 だから、イロハは首を横に振った。

「まだ、わかりません」

 サヨが、イロハを見た。

 同じ言葉。

 けれど、逃げではなかった。

 わからないまま見ること。
 わからないまま待つこと。

 それもまた、面師に必要なことなのかもしれなかった。

 ユラは小さく息を吐く。

「みんな、わからないんですね」

「はい」

 イロハは少し笑った。

「でも、わからないまま、もう一度見ることはできます」

 ユラは鈴を握り直した。

 サヨは稽古板の端へ視線を落とす。

 そこには、さきほどユラが踏んだ一歩の跡があるように見えた。

 もちろん、床に本当に跡が残っているわけではない。
 けれど、舞殿の床は覚えているようだった。

 正しい神楽ではなかった一歩を。

 白札の外側で鳴った、かすかな鈴を。

 サヨは、稽古板へ近づいた。

 アヤメがすぐに前へ出る。

「サヨ様」

「上がりません」

 サヨは言った。

「ただ、近くで見ます」

 アヤメはしばらく黙った。

 それから、一歩だけ退いた。

 サヨは稽古板の端に立つ。

 そこは、まだ舞台ではない。
 けれど、舞台に入る手前だった。

 サヨは足元を見る。

「ここに立つと」

 小さく呟く。

「足が、重いのですね」

 ユラが頷いた。

「はい」

「白影宮の御簾の前に立つ時とは違います」

「どう違いますか」

 ユラが尋ねた。

 サヨは考えた。

「御簾の前では、わたしは隠されます。見られないように、そこにいます」

 その声は淡々としていた。

「でも、ここでは、見られるために立つのですね」

 ユラは黙った。

 サヨは続ける。

「見られるために立つのは、少し怖いです」

 イロハは、その言葉を聞いた瞬間、鏡ノ客のことを思い出した。

 映す者。
 見る者。
 舞台の外側の観客。

 まだ姿はない。

 けれど、この舞殿では「見られること」そのものが、役と関わっている。

 サヨは面を持たない。

 だから、水面にも顔がうまく映らない。

 けれど、舞台に立つとは、自分を世界へ映すことでもある。

 サヨは、その怖さを今、初めて身体で知ろうとしている。

 ユラが静かに言った。

「わたしは、見られるのは好きでした」

 少し照れたように笑う。

「神楽師ですから。舞を見てもらえるのは、嬉しいことでした。神に見てもらう。人に見てもらう。舞殿に見てもらう」

 けれど、その笑みはすぐに翳った。

「でも、今は怖いです。見られた時に、『ああ、あの子はもう舞えない』と思われるのが怖い」

 サヨはユラを見た。

「わたしは、見られた時に、『あの方は面がない』と思われるのが怖いです」

 二人の間に、静かな理解が生まれた。

 ユラは舞えるが、始められない。

 サヨは皇女だが、立てない。

 怖いものは違う。

 けれど、舞台の手前で足が重くなることは同じだった。

 イロハは、その二人を見ていた。

 自分は面を作れる。

 ユラの面に、仮の入口を置けるかもしれない。
 サヨの未在面に、仮の役を彫れるかもしれない。

 でも、それをしてはいけない。

 少なくとも、今は。

 この二人が、どこに足を置きたいのかを知らないままでは。

 稽古場の奥で、御簾がまたわずかに揺れた。

 鈴棚の鈴は動いていない。

 それでも、どこかに笑いの気配がある。

 ウズメ=ムゲン命は、まだ姿を見せない。

 ただ、舞台の下から、見えない手で床を軽く叩いているようだった。

 始めよ、と命じるのではない。

 始まるのを、面白がって待っている。

 サヨは、ふとユラへ尋ねた。

「ユラ」

「はい」

「舞は、必ず正しい形で始めなければならないのですか」

 ユラは困った顔をした。

「神楽としては、そうです」

「では、神楽になる前は」

 ユラは言葉に詰まった。

 神楽になる前。

 それは、舞殿ではあまり問われないことなのかもしれなかった。

 舞は作法を持ち、神楽は型を持ち、祭礼は順番を持つ。
 けれど、それらになる前の身体の動きは、どこに置かれるのか。

 サヨは、自分の足元を見た。

「わたしは、皇女として立つ作法を知りません」

 アヤメが小さく息を呑む。

 サヨは続けた。

「知る機会も、ありませんでした。面がなかったからです」

 声は静かだった。

 けれど、痛みがあった。

「でも、皇女になる前の一歩なら、探せるかもしれません」

 イロハは、胸が熱くなるのを感じた。

 サヨは、まだ答えを持っていない。

 けれど、待つだけではなくなっている。

 自分の足で探そうとしている。

 その瞬間、イロハの腰の道具袋の奥で、小さく何かが熱を持った。

 《ナギノオモテ》の鍵。

 イロハは、とっさに手を添えた。

 開けてはいけない。

 今ここで開ければ、自分の面の影がサヨの一歩に重なる。

 それでは、また押しつけになる。

 イロハは鍵を握り、静かに息を吐いた。

 開けない。

 今は見る。

 サヨがどこへ足を出すのかを。

 ユラがもう一度鈴を持ち直す。

「では」

 彼女は、少しだけ笑った。

「神楽になる前の、変な一歩を、もう一度やってみます」

 サヨも、ほんの少し笑った。

「見ています」

 その言葉に、ユラの顔が変わった。

 見られることへの怖さが、少しだけ別のものに変わる。

 裁かれるために見られるのではない。
 失敗を数えられるために見られるのでもない。

 見届けられるために見られる。

 ユラは稽古板の端に立った。

 沈黙。

 今度は、正しい沈黙ではなかった。

 少し揺れて、少し息が混じって、少し笑いの気配を含んだ沈黙。

 ユラは足を上げた。

 そして、不格好に踏んだ。

 とん。

 鈴が鳴った。

 りん。

 まだ短い。

 まだ危うい。

 でも、さっきよりも少しだけ澄んでいた。

 サヨは、その音を聞いて、胸元に手を当てた。

 イロハは、サヨの足元を見た。

 サヨはまだ動かない。

 けれど、足袋の先が、ほんのわずかに前へ向いていた。

 舞台に立てぬ皇女は、まだ舞台には上がっていない。

 だが、舞台のほうを向いた。

 それだけで、イロハには十分だった。

 まだ、一歩目ではない。

 けれど、一歩目の前の向きが生まれた。

 その小さな変化を、見逃してはいけない。

 面師として。

 未在面を彫ろうとする者として。