EP 67

第7話 ウズメの舞殿

第四節 ― 沈黙の一歩

 ユラ=シラビョウは、もう一度、稽古板の端に立った。

 そこは正式な舞台ではない。

 神前の御簾の真正面でもない。
 祭礼の順路にも含まれていない。
 参列者の目に触れる場所でもない。

 ただ、舞が舞になる前に、神楽師が何度も足を置くための板だった。

 けれど今のユラにとっては、その板でさえ遠かった。

 彼女は鈴を持つ。

 指の形は正しい。

 袖を上げる。

 肩の力も、呼吸の間も、何ひとつ崩れていない。

 舞を忘れていない。

 それは、この場にいる誰の目にも明らかだった。

 入口近くでは、陰陽寮から記録のために同行していたセイラン=ナナツジが筆を止めていた。袖の中の紙狐ヒヨリも顔だけを出し、ぴたりと動かない。

 アヤメは、サヨの半歩後ろに立っている。

 護衛としての警戒は解いていない。

 それでも今だけは、刀の柄ではなく、ユラの足元を見ていた。

 サヨは稽古板の端をじっと見つめている。

 そこに、まだ自分が踏んでいない一歩の影を探すように。

 ユラが息を吸った。

 その瞬間、舞殿の空気が変わった。

 音が消える。

 表舞台を掃く箒の音も、鈴棚の金具が触れ合う音も、遠い参道のざわめきも、すべて薄く引いていく。

 沈黙。

 神を迎える前の沈黙。

 世界が、舞い出す者の足元だけを残して、息を止める。

 ユラの右足が、ほんの少し浮きかけた。

 しかし、そこで止まった。

 動かない。

 足袋の先が板に触れたまま、前へ出られない。

 鈴を持つ指が震える。
 袖がわずかに落ちる。
 呼吸が浅くなる。

 ユラは、泣きそうな顔で笑った。

「違うんです」

 声がかすれていた。

「怖いわけじゃない」

 イロハは頷いた。

「わかっています」

「忘れたわけでもない」

「わかっています」

「じゃあ、どうして」

 ユラの声が、そこで折れた。

「どうして、足が出ないんですか」

 誰も答えられなかった。

 神楽師たちも、アヤメも、セイランも、サヨも。

 皆、ユラが舞えることを見ている。

 そして、始められないことも見ている。

 イロハの手が、自然と面箱へ伸びかけた。

 鈴祈舞面《ユラノスズ》。

 白札の貼られた面箱。

 そこに触れれば、月痕の奥へ指を入れることはできるかもしれない。

 仮札を置けば、一歩くらいは戻せるかもしれない。

 第1話の時のように。

 消えかけた舞の一節を、ほんの一瞬だけ呼び戻すことは、できるかもしれない。

 だが、イロハはその手を止めた。

 指先が、面箱の縁に触れる寸前で止まる。

 違う。

 今、それをしてはいけない。

 ユラが自分で踏める入口を探さなければ、また誰かが役を置いたことになる。

 それがたとえ救うためでも。

 それがたとえ善意でも。

 それがたとえ、ユラ自身が望んだとしても。

 その一歩は、イロハが置いた一歩になってしまう。

 第6話の濁った水桶が脳裏に浮かんだ。

 映らないミツの顔。
 ぼやけるサヨの顔。
 水底に浮かんだ白い半面。

 救うのか。
 作り変えるのか。

 イロハは、息を吐いた。

 そして、面箱から手を離した。

「ユラさん」

「はい」

「正しい一歩を探さないでください」

 ユラが、顔を上げる。

「え?」

「最初から正しいと、たぶん月に見つかります」

 その言葉に、セイランが眉を動かした。

「月に、見つかる?」

 イロハは、ユラの足元を見たまま答えた。

「月は、役へ入る瞬間を喰います。第1話のユラさんも、第3話のハルマサさんも、そして第4話のセイランさんも。みんな、技術を失ったんじゃありません。役へ入る入口を噛まれた」

 セイランは黙った。

 自分の星読式面《ナナツジノホシ》に浮かんだ満月の痕を思い出したのだろう。

 イロハは続ける。

「なら、入口らしい入口から入ろうとすれば、また見つかるかもしれません」

 ユラは戸惑う。

「でも、神楽には入口があります。沈黙があって、呼吸があって、一歩目がある。それを崩したら」

「神楽ではなくなるかもしれません」

 イロハは正直に言った。

 ユラの顔が曇る。

 けれど、イロハは目を逸らさなかった。

「でも、今探しているのは、神楽そのものではありません」

「では、何を」

「神楽になる前の、ユラさんの一歩です」

 サヨが、静かに息を吸った。

 その言葉を聞いている。

 自分にも関わる言葉として。

「正しくなくていいんです」

 イロハは言った。

「綺麗でなくてもいい。舞殿の帳面に残る形でなくてもいい。神楽師として認められる一歩でなくてもいい」

 ユラの手の中で、鈴が小さく揺れた。

「それは……舞じゃありません」

「はい」

「神に見せるものでもありません」

「はい」

「では、何のために」

 ユラの声には、迷いと、ほんの少しの怒りが混じっていた。

 舞えない神楽師に、舞でないものを踏めと言う。

 それは残酷な言葉にも聞こえただろう。

 イロハは受け止めた。

「月に、あなたの始まりを全部渡さないためです」

 稽古場が静まり返った。

 ユラの目が揺れる。

「月に」

「はい。あなたの正式な一歩は、喰われました。でも、あなたの中にある全部が喰われたわけじゃない。さっき、足は出ました。鈴も鳴りました」

「でも、あれは」

「正しくなかった」

 イロハは頷いた。

「だから、残っていたのかもしれません」

 サヨが稽古板の端を見る。

 灰面長屋の子どもたちの足音が、そこに重なっているのかもしれなかった。

 月を踏む遊び。

 誰も正しいとは言わない。
 誰も神楽とは呼ばない。
 けれど、そこにいることを示すための動き。

 ユラはしばらく黙っていた。

 それから、鈴を胸元へ引き寄せた。

「正しくない一歩を、踏む」

「はい」

「神楽師なのに」

「神楽師だからです」

 ユラは、イロハを見る。

「神楽師だから?」

「はい」

 イロハは稽古板を見た。

「正しい舞だけを知っている人なら、正しさから外れた一歩がどれほど怖いかも知っているはずです。でも、それを踏めたなら、きっと戻れる場所も変わります」

 ユラは息を呑んだ。

「戻る場所が、変わる」

「完全に前と同じ舞台には、戻れないかもしれません」

 イロハは、白札の貼られた面箱を見る。

「でも、前と同じでなければ舞えないわけじゃない」

 その言葉は、ユラだけでなく、サヨにも届いた。

 サヨは、胸元に手を当てる。

 面がないから、公式儀礼には立てない。
 皇女の役がないから、皇女としての舞台に上がれない。

 それでも、前と同じでなければ立てないわけではない。

 そもそも、サヨには「前」がない。

 ならば、これから探すしかない。

 アヤメが、サヨの横顔を見た。

 心配と、誇らしさと、恐れが混じった視線だった。

 ユラは、もう一度稽古板の端に立った。

 今度は、深く息を吸わなかった。

 神を迎える沈黙を、完璧には作らなかった。

 袖を上げすぎない。
 鈴を構えすぎない。
 足を揃えすぎない。

 少しだけ、崩す。

 少しだけ、遊ぶ。

 灰面長屋の子どもたちのように、月を見つけて踏むつもりで。

 沈黙が来る。

 だが、それはさっきほど硬くない。

 舞殿全体が息を止めるのではなく、誰かが幕の裏で笑いをこらえているような沈黙だった。

 ユラの足が動く。

 とん。

 不格好な音がした。

 けれど、板は受け止めた。

 ユラの身体が少し傾く。

 アヤメが一瞬手を伸ばしかける。

 しかし、ユラは倒れなかった。

 自分で戻る。

 そして、鈴を鳴らした。

 りん。

 さっきよりも、長い。

 まだ細い音だった。
 でも、途中で切れなかった。

 ユラは、目を見開いた。

「鳴った」

 声が震える。

「今、鳴りましたよね」

「鳴りました」

 イロハは答えた。

 サヨも頷く。

「聞こえました」

 セイランは、震える筆先で記録しようとして、途中で止まった。

 紙狐ヒヨリが袖口から顔を出し、床に小さな足跡のような折り目をつける。

 若い神楽師は、入口で目元を押さえていた。

 ユラは笑った。

 泣きながら笑った。

「こんなの、神楽じゃないのに」

「まだ、神楽になる前の動きです」

 イロハは言った。

「でも、消えていません」

 その瞬間、舞殿の奥の御簾がふわりと揺れた。

 風はない。

 鈴棚の鈴が、いくつも小さく震える。

 りん。

 りん。

 りん。

 誰も触れていないのに、音が重なる。

 舞殿が笑っている。

 そう思った。

 嘲笑ではない。

 正しさから外れた者を責める笑いではない。

 閉じた場に、少しだけ隙間が開いたことを喜ぶ笑い。

 ウズメ=ムゲン命の気配が、舞台板の下を通り、柱を伝い、神前の御簾の奥へ抜けていく。

 ユラは、鈴を抱きしめた。

 イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見る。

 白札は剥がれていない。

 月痕も消えていない。

 制度上、ユラはまだ奉納舞へ戻れない。

 でも、稽古板の上に一歩が生まれた。

 誰かが置いた役ではなく、ユラ自身が探し当てた、正しくない始まり。

 イロハはそれを見届けた。

 そして、胸の奥で静かに思う。

 サヨ様の面にも、これが必要だ。

 完成された役ではない。

 正しい皇女の型でもない。

 最初から台帳に載るための形でもない。

 月に見つからないほど小さく、けれど本人だけが確かに踏める一歩。

 その余白を、どう彫るのか。

 まだわからない。

 だが、面の輪郭より先に、足音が必要なのだと、イロハは確かに知った。