鈴の音が消えたあと、稽古板の上には、まだ小さな震えが残っていた。
ユラは鈴を胸に抱いたまま、何度も足元を見ている。
信じられない、という顔だった。
正しい神楽ではなかった。
作法としては崩れていた。
神前へ捧げるには、あまりにも幼く、不格好で、名づけようのない一歩だった。
けれど、足は出た。
舞台板は、その一歩を拒まなかった。
サヨは、その光景を見つめていた。
稽古板の端に残る、見えない足跡。
それを見ているうちに、彼女の中で、灰面長屋の夕暮れが蘇っていく。
灰色の長屋。
欠けた面を吊るした物干し紐。
煤けた面箱。
濁った水桶。
そして、壊れた小さな舞台板。
その上で、子どもたちが足を鳴らしていた。
とん、とん。
とん、たたん。
月を踏む遊び。
神楽とは呼べない。
祭礼でもない。
誰かに許された舞でもない。
けれど、あの足音は、今もサヨの耳の奥に残っていた。
「あの子たちは」
サヨは静かに口を開いた。
ユラが顔を上げる。
「あの子たちは、神楽を知りませんでした」
稽古場の空気が少し変わった。
若い神楽師が、入口で不思議そうにこちらを見る。
サヨは続けた。
「鈴もありませんでした」
ユラの手の中で、鈴が小さく揺れる。
「けれど、月が来ると言って、見つけて、踏んでいました」
「月を、踏む……」
ユラは、戸惑ったように繰り返した。
「それは、舞ではありません」
「そうかもしれません」
「神楽でもありません」
「はい」
サヨは頷いた。
「でも、始まりではありました」
ユラは言葉を失った。
始まり。
その言葉は、稽古板の上に静かに落ちた。
神楽には、決められた始まりがある。
沈黙があり、呼吸があり、神を迎えるための一歩がある。
その一歩を失ったユラは、舞台に立てなくなった。
だが、灰面長屋の子どもたちは、始まりの型など知らなかった。
彼らは、月が怖いから踏んだ。
自分たちが消えないように、足音を鳴らした。
サヨは、稽古板の端へ一歩近づいた。
アヤメが微かに動く。
けれど、サヨは板へは上がらない。
ただ、ユラの立っている場所を見つめる。
「ユラ」
「はい」
「正しい一歩でなくても、始めることはできますか」
その問いは、誰に向けられたものだったのだろう。
ユラへ。
イロハへ。
あるいは、サヨ自身へ。
イロハは、胸の奥を掴まれたように感じた。
正しい一歩でなくても、始めることはできるか。
それは、今この場にいる全員の問いだった。
ユラは、稽古板の上で立ち尽くしている。
「わかりません」
彼女は正直に答えた。
「でも」
鈴を握り直す。
「さっき、少しだけ、足が動きました」
「はい」
「正しくなかったのに」
「はい」
「月に見つからなかったのでしょうか」
その声には、子どものような頼りなさがあった。
イロハは、面箱の中の《ユラノスズ》を見た。
白い月痕は消えていない。
白札も剥がれていない。
月が見逃したのか。
それとも、舞になる前のものまでは喰えなかったのか。
まだわからない。
けれど、わからないからこそ見なければならない。
「もう一度、試してみてください」
イロハは言った。
「ただし、神楽を始めようとしないでください」
ユラは戸惑う。
「神楽師なのに?」
「はい」
「神楽師なのに、神楽を始めようとしない」
「今だけは」
イロハは頷いた。
「月を踏むつもりで」
ユラは、思わず小さく笑った。
その笑いは、泣きそうな笑いだった。
「そんなこと、舞殿の先生に聞かれたら叱られます」
入口の若い神楽師が、気まずそうに視線を逸らした。
けれど、彼は止めなかった。
それどころか、ほんの少しだけ、うなずいたようにも見えた。
ユラは稽古板の中央ではなく、端へ立ち直った。
正規の立ち位置ではない。
神前へ向かう正しい角度でもない。
少しずれている。
それだけで、彼女の身体はいつもと違う呼吸を始めた。
沈黙は来なかった。
いや、沈黙に似たものはあった。
けれど、それは舞殿全体を凍らせるようなものではない。
灰面長屋の夕暮れ、子どもたちが月を踏む前に一瞬だけ息を合わせた、あの不揃いな間に近かった。
ユラは鈴を構えない。
袖を正しく上げない。
膝を少し緩める。
足袋の先で、板を探る。
まるで、そこに月の影が落ちているかどうかを確かめるように。
サヨは、息を止めた。
イロハも、手を出さない。
アヤメも、セイランも、若い神楽師も、誰も口を挟まなかった。
ユラの足が上がる。
ほんのわずか。
そして。
とん。
稽古板が鳴った。
鈴は鳴らなかった。
ユラの手の中の鈴は、ただ小さく揺れただけだった。
だが、舞台の奥で、かすかに音がした。
りん。
鈴のない鈴の音。
誰も触れていない鈴棚の奥から、あるいは神前の御簾の裏から、あるいは板の下に溜まった無数の足音の底から、細い音が立ち上がった。
ユラが目を見開く。
「今のは」
イロハは答えられなかった。
サヨが、静かに言った。
「舞殿が、聞いたのだと思います」
「舞殿が?」
「はい」
サヨは稽古板を見つめた。
「神楽ではないかもしれません。けれど、始まりだと」
ユラの唇が震えた。
その目に、涙が浮かぶ。
「始まり」
「はい」
「こんな一歩でも」
「はい」
サヨは頷いた。
「わたしには、始まったように見えました」
その言葉に、ユラは顔を伏せた。
涙が一粒、稽古板へ落ちる。
木の上に、小さな丸い染みができた。
ユラはすぐに袖で拭おうとして、手を止める。
その染みも、足音の一つのように見えたのかもしれない。
セイランが、ようやく筆を動かした。
しかし、書き始めてすぐに眉を寄せる。
「記録名が、ありません」
イロハは振り向いた。
「記録名?」
「これは神楽ではない。舞殿の正式稽古でもない。白札対象者の非公式動作……では、あまりにも」
袖から紙狐ヒヨリが顔を出し、セイランの筆先を前足で軽く叩いた。
そして、床に小さな文字のような折り目をつける。
足音。
セイランは、それを見て黙った。
「……足音」
彼は小さく呟く。
「そう記録しておきます。正式記録ではなく、仮記録として」
アヤメが少しだけ口元を緩めた。
「また仮記録ですか」
「正式記録にできないものを、何も書かないよりはましです」
セイランの声には、以前よりも柔らかい意地があった。
イロハは、ユラの足元を見た。
今の一歩は、舞ではなかった。
神楽でもなかった。
けれど、記録されずに消えてよいものでもなかった。
サヨは、板の端へさらに一歩近づいた。
今度はアヤメも止めなかった。
サヨは、ユラが踏んだ場所を見つめる。
「正しい一歩でなくても、始めることはできる」
自分に言い聞かせるような声だった。
ユラが顔を上げる。
「サヨ様も、何かを始めたいのですか」
アヤメが緊張する。
イロハも息を止めた。
サヨはすぐには答えなかった。
自分の胸元に手を当てる。
そこには、面がない。
役名もない。
台帳に定められた皇女の役もない。
けれど、灰面長屋の足音を聞いた。
ユラの不格好な一歩を見た。
舞殿がそれに応える音を聞いた。
「始めたいのだと思います」
サヨは言った。
それは、とても小さな答えだった。
けれど、初めての答えだった。
「何を、とはまだ言えません」
彼女は続ける。
「けれど、保留されているだけではなく、何かを始めたいのだと思います」
イロハの腰の奥で、《ナギノオモテ》の鍵が熱を帯びた。
今度は、はっきりと。
まるで、サヨの言葉に反応したかのように。
イロハは、そっと鍵を押さえた。
開けない。
まだ開けない。
これはサヨの一歩だ。
自分の面の影を重ねてはいけない。
だが、見逃してもいけない。
イロハは道具袋から紙を取り出した。
面の輪郭を描くための紙ではない。
いつもなら、頬の線、目元、鼻梁、紐穴の位置を描き込む紙。
けれど今、イロハが引いたのは、顔の線ではなかった。
一本の短い線。
足跡のような、板を踏む音のような線。
そこから少し遅れて、もう一本。
まだ面にはならない。
けれど、サヨの未在面に必要な最初の動きだった。
ユラはそれを見て、不思議そうに尋ねた。
「面の設計ですか」
「まだ、面ではありません」
イロハは答えた。
「では?」
「足音です」
サヨが、紙の上の線を見た。
自分のものか、ユラのものか、灰面長屋の子どもたちのものか。
そのどれでもあって、どれでもない線。
サヨは小さく息を吸った。
「面を作るのに、足音を描くのですね」
「はい」
イロハは、紙を大切に畳んだ。
「たぶん、サヨ様の面には、それが必要です」
その時、舞殿の奥の御簾がふわりと揺れた。
笑いの気配が、また走る。
誰かが、幕の陰で頬杖をつきながら、面白そうにこちらを見ているようだった。
ウズメ=ムゲン命。
その名を口にする者はいなかった。
けれど、この場にいる全員が、何かが見届けたことを感じていた。
ユラは、もう一度だけ足を鳴らした。
とん。
今度も鈴は鳴らなかった。
だが、舞台の奥で、鈴のない鈴の音が静かに応えた。
りん。
正しい一歩ではない。
けれど、始まった。
そして始まったものは、まだ名がなくても、もう完全には消えない。