EP 69

第7話 ウズメの舞殿

第六節 ― 舞殿が笑う

 とん。

 ユラの足音が、もう一度、稽古板を鳴らした。

 その音は小さかった。

 けれど、舞殿の奥へ吸い込まれるように消えたあと、何かが返ってきた。

 りん。

 鈴ではない。

 ユラの手の中の鈴は、まだ鳴っていない。鈴棚の鈴も揺れていない。神前の御簾の向こうにも、人の気配はない。

 それでも、音はした。

 りん、と。

 まるで、板の下に溜まっていた古い足音が、ユラの一歩に応えたように。

 ユラは息を呑んだ。

 サヨも、稽古板の端を見つめたまま動かない。

 アヤメの手が、刀の柄に触れかけて止まる。これは敵意ではない。斬るべきものでも、払うべき怪異でもない。けれど、護衛としては見過ごせない異変だった。

 セイランは筆を持ったまま固まっていた。

 袖口から顔を出した紙狐ヒヨリだけが、耳を立てるように紙の角をぴんと伸ばしている。

 風はなかった。

 なのに、神前の御簾が揺れた。

 ふわり、と。

 誰かが、内側から息を吹きかけたように。

 続いて、舞台板がかすかに軋んだ。

 表舞台の広い板ではない。ユラが立っている稽古板だけでもない。舞殿全体が、足裏で感じるほどわずかに、ぎしり、と鳴った。

 それは、古い建物の軋みではなかった。

 もっと近い。

 笑いをこらえた喉の奥のような音だった。

 客席の暗がりに、気配が走る。

 誰も座っていないはずの席。
 朝の光が届かない柱の陰。
 舞台を見上げるために設えられた、空の場所。

 そこに、一瞬だけ、誰かが身を乗り出したような感じがした。

 イロハは息を止めた。

 笑われているのではない。

 ユラの不格好な一歩を嘲っているのではない。

 許された、という感じでもなかった。

 神が慈悲深く頷いたのでもない。

 もっと、いたずらっぽい。

 もっと、古くて、明るくて、危うい。

 閉じた戸が、内側から少しだけ開いた時のような笑い。

 隠していたものが、つい表へこぼれ出てしまった時の笑い。

 始まった、と告げる笑い。

 ウズメ=ムゲン命。

 名を呼ばなくても、その気配は舞殿の床下から湧き上がっていた。

 イロハは、ようやく理解した。

 ウズメの舞は、正しい型をなぞるだけのものではない。

 神前に定められた順番で、定められた面をつけ、定められた足運びで舞う。もちろん、それも舞だ。長く受け継がれてきた神楽であり、舞殿が守ってきたものだ。

 けれど、それだけではない。

 舞は、閉じた場所を開く。

 沈黙を破る。

 隠されたものを、表へ引きずり出す。

 泣いている者を笑わせるためではなく、泣いていることを隠せなくするために。
 閉じ込められた者を慰めるためではなく、閉じ込められていることを舞台の上へ出すために。

 笑いとは、軽さではない。

 笑いとは、封じられたものに隙間を作る力だ。

 イロハの胸の奥で、何かがつながった。

 白影宮の空の面箱。
 灰面長屋の水桶。
 ユラの白札。
 サヨの未在。
 そして、自分の《ナギノオモテ》。

 どれも、閉じられたものだった。

 箱に閉じられた月。
 水面に映らない顔。
 札で止められた舞。
 台帳にない皇女。
 救済か改変かもわからない面。

 それらを無理に開ければ壊れる。

 だが、閉じたままでは息ができない。

 ならば、必要なのは鍵ではないのかもしれない。

 最初の足音。

 内側から戸を少しだけ揺らす、一歩。

 イロハは、手の中の紙を見た。

 さきほど引いた、短い線。

 足跡のような線。
 まだ面の輪郭にもならない線。

 そこに、今のユラの一歩が重なった。

 サヨ様の面には、表情より先に、足音がいる。

 その思いは、突然ではなかった。

 灰面長屋から、ずっとそこにあったものが、今やっと言葉になったのだ。

 面は顔を作る。

 けれど、サヨの面に最初から完成した顔を彫ってはいけない。

 皇女らしい目元。
 王朝に相応しい口元。
 白影宮の主に相応しい眉。
 仮面籍庁に認められる役名の形。

 そんなものを彫れば、サヨはまた誰かの定めた皇女になる。

 過去にある皇女面を探してもだめだ。

 王朝が認める皇女役を写してもだめだ。

 サヨ自身が踏み出す動きから、まだない役を呼び出す必要がある。

 面は、そのあとだ。

 動きが先。

 足音が先。

 顔は、その足音に追いつくために彫る。

 イロハは、紙にもう一本線を引いた。

 今度は少しだけ曲がっている。

 正しい線ではない。

 面師の下絵としては、まだ使えない。目元にも頬にも鼻梁にもならない。

 けれど、それはユラの崩れた一歩と、灰面長屋の子どもたちの足音と、サヨのまだ踏まれていない足先を結ぶ線だった。

 セイランが、その線を横から覗き込んだ。

「面の設計には見えませんね」

「はい」

「では、何の記録ですか」

 イロハは少し考えた。

 そして答えた。

「まだ、面になる前の記録です」

 セイランはその言葉を聞き、ゆっくり頷いた。

「正式記録には、できなさそうです」

「でしょうね」

「ですが、仮記録にはできます」

 そう言って、彼は自分の紙に小さく書き加えた。

 ――未役の足音。
 正式神楽に先立つ、非定型の始動反応。
 ウズメ舞殿において、鈴鳴なき鈴音を伴う。

 ヒヨリがその文字を覗き込み、紙の尾で一部を軽く叩いた。

 セイランは眉を寄せる。

「そこは直すべきですか」

 ヒヨリは、床に小さな折り目をつけた。

 笑い。

 セイランは少し困った顔をした。

「……笑い、ですか」

 イロハは思わず小さく笑った。

「必要だと思います」

 セイランは真面目な顔で頷き、書き足した。

 ――笑いの気配あり。

 その堅い書き方に、アヤメがわずかに目を細めた。

「それでは怪異報告のようです」

「実際、観測異常です」

「舞殿でそれを言うと怒られますよ」

「正式には提出しません」

「また仮ですか」

「今の私に許されているのは、仮の記録ですので」

 その言葉には自嘲が混じっていた。

 けれど、以前のセイランとは少し違った。

 仮でも残す。

 正式でなくても、消さない。

 それは、白札の外側で一歩を踏んだユラと同じ姿勢だった。

 ユラは、まだ稽古板の上にいた。

 彼女はもう一度だけ、足を動かしてみる。

 とん。

 今度は、少しだけ軽い音だった。

 鈴は鳴らない。

 けれど、客席の暗がりで、また何かが笑った。

 ユラは顔を上げる。

「……怒られている感じでは、ないですね」

 サヨが頷いた。

「はい」

「許されている感じでもありません」

「はい」

「では、何なのでしょう」

 サヨは、少しだけ考えた。

「見られているのだと思います」

 その言葉に、稽古場の空気が変わった。

 イロハも、はっとする。

 見られている。

 舞台とは、見られる場所。

 ユラは、見られることを恐れていた。
 サヨは、見られることそのものに慣れていなかった。
 イロハは、見ることで相手を決めてしまうことを恐れていた。

 だが、見られることは、裁かれることだけではない。

 見届けられることでもある。

 今のユラの一歩は、神楽として認められたわけではない。
 仮面籍庁の白札が剥がれたわけでもない。
 舞殿の正式記録に載るわけでもない。

 それでも、舞殿は見た。

 ウズメは笑った。

 セイランは仮記録に残した。

 サヨは、それを始まりだと言った。

 だから、その一歩は完全には消えない。

 イロハは、サヨを見た。

 サヨは稽古板の端に立っている。

 まだ上がってはいない。

 だが、もう目を逸らしていない。

 舞台を見ている。

 床を見ている。

 そして、自分の足元を見ている。

 イロハは思う。

 サヨ様の面も、誰かに認めさせるためだけのものではいけない。

 見届けられるための面でなければならない。

 ただし、見られることで閉じ込められるのではなく、見られることで消されないための面。

 仮面籍庁の《コトサダメ》は、役を判定する。
 あるか、ないか。
 認めるか、保留するか。
 白札か、黒札か。

 でも、ウズメの舞殿は違う。

 これは何か、とすぐには決めない。
 正しいか、正しくないかを急がない。
 始まったものを、面白がって見る。

 だから閉じた場所が開く。

 だから沈黙が破れる。

 だから隠されたものが、少しだけ表へ出てくる。

 ユラは、稽古板から降りた。

 足取りはまだ不安定だったが、来た時よりも顔が明るい。

「白札は、剥がれませんね」

 彼女は自分からそう言った。

 イロハは頷く。

「はい」

「月痕も、消えていませんね」

「はい」

「でも」

 ユラは、鈴を見た。

「鳴りました」

「はい」

 ユラは笑った。

 涙の跡がまだ残っている。

 けれど、その笑みは固くなかった。

「それだけで、今日は十分です」

 サヨが、静かに言った。

「わたしには、十分以上に見えました」

 ユラは、少し照れたように頭を下げる。

 その時、御簾の奥がもう一度揺れた。

 今度は、はっきりと。

 風ではない。

 誰かが、笑いながら袖を振ったような揺れ方だった。

 サヨは御簾を見た。

「ウズメ=ムゲン命は」

 彼女は小さく呟く。

「役を与える神ではないのですね」

 イロハは、サヨの隣で頷いた。

「たぶん」

「では、何をなさるのでしょう」

 イロハは、舞台板を見る。

 さっきまでユラが立っていた場所。

 不格好な一歩が鳴った場所。

「閉じた場所に、隙間を作るのだと思います」

「隙間」

「はい。そこから、まだない役が出てこられるように」

 サヨは、その言葉を胸に落とすように黙った。

 まだない役。

 それは、サヨ自身のことでもある。

 彼女は、面がない。
 役名がない。
 皇女として立つための面が、まだこの国に存在しない。

 だが、存在しないからといって、封じられるためだけのものではない。

 まだないからこそ、出てくる余地がある。

 そのためには、閉じた場所に隙間が必要だ。

 イロハは、自分の紙をもう一度開いた。

 足音の線。

 短く、曲がり、不揃いな線。

 サヨの未在面に必要なのは、まずこの線だ。

 表情より先に。
 紋より先に。
 皇女としての格式より先に。

 足音。

 サヨが、自分で踏むための余白。

 それを彫るのだ。

 まだ面にはならない。

 まだ輪郭にも届かない。

 けれど、イロハの中で、確かに最初の設計思想が生まれた。

 その瞬間、舞殿の客席の奥で、白いものがかすかに動いた気がした。

 イロハは顔を上げる。

 誰もいないはずの席。

 朝の光から外れた、柱の陰。

 そこに、一つだけ妙に白く見える場所がある。

 空席。

 しかし、ただの空席ではない。

 誰かが、そこに座るために空けられているような白い席。

 イロハは目を凝らした。

 まだ、何も見えない。

 けれど、その白い席だけが、舞殿の笑いから少し遅れて、こちらを見返しているようだった。

 舞台の内側では、ウズメが笑っている。

 ならば、舞台の外側では。

 誰が見ているのか。

 イロハの手の中で、紙がかすかに震えた。