EP 70

第7話 ウズメの舞殿

第七節 ― 白い客席

 白い席は、最初からそこにあったのかもしれない。

 舞殿の客席の奥。
 柱の陰。
 朝の光が届かず、けれど闇にも沈みきらない場所。

 そこだけが、妙に白かった。

 畳でもない。
 座布でもない。
 ただ、誰かが座るために空けられたような、空白の席。

 イロハは、目を凝らした。

 さっきまでは何もなかった。

 そう思いたかった。

 けれど、舞殿が笑ったあと、その席は確かにこちらを見返していた。

 舞台の奥では、ウズメ=ムゲン命の気配がまだ揺れている。御簾がふわりと動き、鈴棚の奥で、鳴らないはずの鈴が細く震える。

 舞台の内側には、笑いがある。

 では、舞台の外側には何があるのか。

 その問いの答えのように、白い席に影が座った。

 人の形をしている。

 けれど、人とは言い切れない。

 顔の半分を覆う、白い半面。

 目穴はない。

 それなのに、見ている。

 白漆の面の表に、舞台の光が薄く映っている。そこにはユラの足元があり、サヨの足袋の先があり、イロハの手の中の紙があった。

 鏡ノ客。

 イロハは、喉の奥が冷えるのを感じた。

 第4話の鏡水に映った白い半面。
 第5話で定役面《コトサダメ》の裏に現れた、あの白い客。

 水にも、面の裏にも、そして今度は客席に。

 舞台の外側から、こちらを見ている。

 アヤメが、即座に刀へ手をかけた。

「下がってください」

 声は低い。

 サヨの前へ半歩出る。

 セイランは筆を取り落としかけ、慌てて紙を押さえた。記録しようとしているのか、記録してよいものか迷っているのか、その手は震えていた。

 袖口から顔を出していたヒヨリは、ぴゃっと紙の身体を折りたたみ、セイランの袖の中へ隠れた。尾の先だけが、わずかに震えている。

 ユラは鈴を抱いたまま、動けなかった。

 白い半面の客は、こちらを見ない。

 イロハたちを見ていない。

 アヤメの刀も、セイランの筆も、ヒヨリの怯えも、まるで興味がないようだった。

 その視線なき視線は、舞台に注がれている。

 ユラが踏んだ一歩。

 サヨの足元。

 まだ名にならない動き。

 まだ面にならない線。

 それだけを、客席の奥から見ていた。

 イロハは、紙を握る手に力を込めた。

「あなたは」

 声が出た。

 白い半面が、わずかに傾く。

 答えはない。

 ただ、舞殿の空気が、少しだけ薄くなる。

 舞台の内側に満ちていた笑いが、今度は客席の静けさへ流れ込んでいく。

 白い半面の客は言った。

「舞は、演じる者だけでは成立しません」

 声は、男とも女ともつかなかった。

 近くから聞こえるようで、遠くから響くようでもある。客席の柱、舞台板、面蔵の白木、鈴棚の金具、そのすべてが同じ言葉を小さく返しているようだった。

「見る者がいて、初めて役はかたちを持つ」

 イロハの胸に、反発が生まれた。

 それはほとんど本能だった。

「見られなければ、役にならないんですか」

 強い声になった。

 アヤメが、わずかにイロハを見る。

 イロハは止まらなかった。

「灰面長屋の子どもたちは、誰にも見られなくても足を鳴らしていました。ユラさんの一歩だって、誰かが認めたから出たわけじゃない。サヨ様だって」

 そこまで言って、息を詰める。

 サヨの役は、まだない。

 けれど、誰かに見られなければ存在できないなどと、言わせたくなかった。

 仮面籍庁と同じではないか。

 台帳に載らなければ役ではない。
 面がなければ顔ではない。
 見届ける権威がなければ、存在しない。

 そんなものを、ここで受け入れたくなかった。

 白い半面の客は、静かに答えた。

「いいえ」

 その一言は、意外なほど柔らかかった。

「見られなければ、始まらないのではありません」

 白い面の表に、ユラの足音が映る。

 とん。

 音はしないのに、イロハには見えた。

「見届ける者がいれば、まだ名のない動きも、失われずに済むということです」

 イロハは黙った。

 見られること。

 それは、裁かれることだけではない。

 仮面籍庁の審査所で、見られることは判定だった。
 白札か、黒札か。
 保留か、剥奪か。
 役名があるか、ないか。

 けれど、ここでの見るは違う。

 定めるためではない。

 消えないようにするため。

 サヨが小さく息を吸った。

「見届ける」

 白い半面は、サヨのほうを向いたように見えた。

 だが、顔には目がない。

 それでも、サヨは見られていると感じたのだろう。胸元に手を置き、まっすぐに客席を見返した。

 アヤメの指が刀の柄にかかる。

「それ以上、サヨ様を見るな」

 鋭い声だった。

 白い客は、動かない。

 イロハはアヤメの横顔を見た。

 その警戒は当然だ。

 この客は救いの神ではない。
 守護でもない。
 手を差し伸べる者ではない。

 第4話でも、第5話でもそうだった。

 鏡ノ客は、映す。

 ただ映す。

 隠されたものも、喰われたものも、恐れているものも、そのままこちらへ返す。

 それが残酷なほど正確だから、危うい。

 ユラが小さく言った。

「では、さっきの一歩も」

 白い半面の客は、ユラを見た。

「舞ではありません」

 ユラの肩がびくりと震える。

 だが、白い客は続けた。

「神楽でもありません」

 ユラの顔が、少し青ざめる。

「けれど、始まりではあります」

 サヨが、わずかに目を見開いた。

 自分が言った言葉を、客席の白い半面が映し返したのだと気づいたのだろう。

 白い客は、ユラの足元を見る。

「名がないものは、弱い」

 その声に、舞殿の空気が冷える。

「名がないものは、流れやすい。見られず、記されず、面にもならず、役にもならぬまま、次の月に薄れていく」

 ユラは鈴を握りしめる。

「では、どうすれば」

 白い半面の客は答えない。

 助言しない。

 救わない。

 ただ、言葉を置く。

「見届ける者がいれば、薄れ方が変わります」

 セイランが、はっとしたように筆を動かす。

「薄れ方が、変わる……」

 彼は紙に書きつける。

 正式記録ではない。
 仮記録。

 それでも残す。

 セイランは、今その意味を少し理解したのかもしれなかった。

 ヒヨリが袖の奥から恐る恐る顔を出し、紙の端に小さな足跡のような折り目をつけた。

 白い半面の客は、今度はイロハの手元を見る。

 紙。

 そこに引かれた、足音の線。

「彫る者」

 イロハの背筋に冷たいものが走った。

 その呼び方は、面師でも、イロハでもない。

 彫る者。

 役を形にする手。

「あなたが彫るものは、顔ですか」

 イロハは、すぐには答えられなかった。

 面師なら、顔と答えるべきだった。

 面とは顔だ。
 この国では、面こそが顔だ。

 けれど、第6話の水桶の前で、イロハは言った。

 映らないんじゃない。
 まだ、面が追いついていないだけです。

 そして今、舞殿で知った。

 面が追いつくべきものは、顔だけではない。

 足音だ。

 始まりだ。

 本人が踏んだ、まだ名のない一歩だ。

「……今は」

 イロハはゆっくり答えた。

「顔より先に、足音を彫るべきだと思っています」

 白い半面の客は沈黙した。

 笑ったのかもしれない。

 面に表情はない。

 けれど、客席の空気がほんの少し揺れた。

「ならば、見届けなさい」

 白い客は言った。

「あなたが彫る前に」

 イロハの手の中で、紙が震えた。

 あなたが彫る前に。

 それは、鋭い言葉だった。

 イロハは、彫ることで救ってきた。

 仮置きで繋ぎ、面を直し、欠けた役を一時的にでも戻してきた。

 だが、彫ることは決めることでもある。

 線を入れた瞬間、可能性は形になる。

 形になれば、別の可能性は削り落とされる。

 だから、彫る前に見届けなければならない。

 相手がどこへ足を出すのかを。

 サヨが何者として立ちたいのかを。

 サヨ自身が、まだ言葉にできない一歩を。

 サヨは、白い客席を見つめていた。

「あなたは、わたしを見届けるのですか」

 アヤメが止めようとする。

「サヨ様」

 だが、サヨはそのまま問うた。

「それとも、映すだけですか」

 白い半面の客は、静かに答えた。

「映すだけです」

 迷いのない答えだった。

「救いはしません。定めもしません。守りもしません」

 アヤメの目が険しくなる。

「ならば、近づくな」

「近づいてはいません」

 確かに、白い客は客席から動いていない。

 舞台には上がらない。
 稽古板にも触れない。
 サヨの足元にも、ユラの鈴にも、イロハの紙にも手を伸ばさない。

 ただ、見る。

 映す。

 それが、この存在の領分なのだろう。

 ウズメは舞台の内側で、閉じた場所に隙間を作る。

 エル=ネフリドは舞台の外側で、そこからこぼれ出たものを映す。

 どちらも救いではない。

 けれど、どちらも今のイロハたちに必要だった。

 ユラの一歩は、舞殿に笑われた。

 そして、鏡ノ客に映された。

 だから、その一歩はもう「なかったこと」にはできない。

 サヨは静かに言った。

「では、見ていてください」

 アヤメが息を呑む。

 イロハもサヨを見る。

 サヨは白い半面から目を逸らさなかった。

「まだ何をするかはわかりません。何者として立つのかも、まだ言えません」

 声は震えていなかった。

「でも、保留されるためではなく、始めるためにここに来ました」

 白い半面の客は、答えない。

 ただ、その白い面の表に、サヨの足元が映った。

 まだ動いていない足。

 けれど、舞台のほうを向いた足。

 イロハは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 この瞬間を、彫ってはいけない。

 まだ早い。

 けれど、忘れてはいけない。

 紙に残すだけでも足りない。

 自分の目で見届けなければならない。

 サヨの足が、どこへ出るのかを。

 その時、舞殿の奥で御簾が大きく揺れた。

 まるで、舞台の内側の神が、客席の外側の客へ向かって笑ったようだった。

 白い半面の客の姿が、ほんの少し薄れる。

 イロハは思わず一歩前へ出た。

「待ってください」

 白い客は、首だけをわずかに傾ける。

「あなたは、エル=ネフリドなんですか」

 その名を出した瞬間、舞殿の空気が微かに軋んだ。

 セイランの筆が止まる。

 アヤメの目が鋭くなる。

 サヨは、静かに白い客を見つめている。

 白い半面は、答えなかった。

 ただ、面の表に一瞬だけ、別の景色が映った。

 鏡水の庭。
 定役面《コトサダメ》の裏。
 灰面長屋の濁った水桶。
 そして、まだ見ぬ白い原。

 それだけを映して、白い客は言った。

「名で呼ぶと、あなたがたは安心する」

 イロハは息を呑む。

「けれど、安心は時に、見る力を鈍らせます」

 その言葉を最後に、白い席の上の影は薄れていった。

 白い半面も、人影も、朝の光に溶けるように消える。

 客席には、ただ空白の白い席だけが残った。

 そこには誰もいない。

 けれど、見られていたという感覚だけが、舞殿の床に残っていた。

 ユラが、小さく息を吐いた。

「……怖いですね」

 サヨが答えた。

「はい」

 ユラは少し驚いたようにサヨを見る。

 サヨは白い席を見つめたまま続けた。

「でも、見届けるという言葉は、嫌ではありませんでした」

 イロハは、紙を握り直した。

 ウズメは、舞台の内側で始まりを笑う。

 エル=ネフリドは、舞台の外側で始まりを映す。

 そして自分は。

 まだ彫ってはいけない。

 まず、見届ける。

 その役を、イロハは初めて自分に課した。