EP 71

第7話 ウズメの舞殿

第八節 ― 未在面の動き

 白い客席には、もう誰もいなかった。

 けれど、見届けられていた感覚だけが、舞殿の床に残っている。

 サヨは、しばらくその空白の席を見つめていた。白い半面の客は消えた。声もない。面もない。ただ、そこに座っていた者が、確かに何かを映していった。

 舞は、演じる者だけでは成立しない。

 見る者がいて、初めて役はかたちを持つ。

 その言葉は、サヨの胸の奥で、まだ静かに揺れていた。

 イロハは、手の中の紙を握りしめる。

 足音の線。

 まだ面ではない。
 まだ顔ではない。
 けれど、サヨの未在面に必要なものへ近づく線。

 イロハは顔を上げた。

「サヨ様」

 サヨが振り向く。

「稽古板の端へ、立っていただけますか」

 言った瞬間、アヤメが動いた。

「イロハ殿」

 低い声。

 護衛としての声だった。

 イロハは、アヤメを見る。

 アヤメの手は刀にはかかっていない。けれど、いつでも止められる位置にあった。

「サヨ様を舞台へ立たせるわけにはいきません」

「正式な舞台ではありません」

「それでも舞殿です」

「だからです」

 イロハは、まっすぐに答えた。

 アヤメの目が細くなる。

「どういう意味です」

「白影宮では、サヨ様は待つしかありません。仮面籍庁では、保留されるだけです。灰面長屋では、映りにくい顔を見ました。でも、ここは舞殿です」

 イロハは稽古板を見る。

 ユラが一歩を踏んだ場所。

 まだ神楽ではない、けれど始まりだった場所。

「ここなら、サヨ様が自分で前へ出る動きを、見られるかもしれません」

「見られる」

 アヤメの声が硬くなる。

「先ほどの客の言葉に従うのですか」

「従うわけではありません」

 イロハは首を振った。

「でも、見届ける必要はあります。私が面を作る前に」

 アヤメは黙った。

 その沈黙は長かった。

 サヨは、二人の間で静かに立っていた。止められることに慣れた人の顔ではない。行きたい場所を見つけてしまった人の顔だった。

「アヤメ」

 サヨが呼ぶ。

 アヤメはすぐに膝を折りかけ、思いとどまる。

「はい」

「わたしは、舞台に上がるのではありません」

「……はい」

「神楽を舞うのでもありません」

「はい」

「ただ、一歩だけです」

 アヤメの表情が苦しげに揺れた。

「その一歩が、どれほど危ういかをご存じですか」

「知りません」

 サヨは正直に言った。

「だから、知りたいのです」

 アヤメは、目を伏せた。

 止める理由はいくらでもあった。

 サヨは役名保留候補。
 白影宮外での公式儀礼参加を止められている。
 舞殿は神域。
 仮面籍庁に知られれば、また処分の口実にされる。

 けれど、いま目の前のサヨは、処分を待つだけの皇女ではなかった。

 自分がどこへ足を出せるのかを、知ろうとしている。

 アヤメは、深く息を吐いた。

「稽古板の端までです」

「はい」

「中央へは進まないでください」

「はい」

「異変があれば、すぐに下がっていただきます」

「わかりました」

 サヨは頷いた。

 その声には、安堵ではなく、静かな決意があった。

 イロハは一歩退く。

 ユラも稽古板のそばから下がった。

 セイランは筆を構えたが、すぐに止めた。記録するために見ているのか、見届けるために見ているのか、自分でもわからなくなったようだった。

 袖の中のヒヨリだけが、紙の鼻先をそっと出している。

 サヨは、稽古板の前に立った。

 正式な舞台ではない。

 けれど、そこには舞台の匂いがある。白木の床、古い足音、鈴の残響、さきほど舞殿が笑った気配。

 サヨは足元を見る。

 面はない。

 皇女としての舞面もない。
 祈面もない。
 この国で彼女が「皇女として立つ」ための役面は、まだ存在しない。

 だからこそ、何もつけずに立つ。

 何者としてか、まだ言えないまま。

 サヨは、稽古板の端に足をかけた。

 アヤメの息が止まる。

 イロハも、胸を押さえるように紙を握った。

 サヨは板の上へ、片足だけを置く。

 とん、と音はしなかった。

 ユラの一歩のように、はっきり板を鳴らしたわけではない。
 灰面長屋の子どもたちのように、月を踏む勢いもない。

 ただ、置いた。

 それだけだった。

 けれど、その瞬間、イロハの視界が揺れた。

 面の輪郭が見えると思っていた。

 サヨの未在面に必要な、目元や口元、頬の線、額の紋。そういうものが浮かぶのだと思っていた。

 違った。

 見えたのは、顔ではなかった。

 紋でもない。
 面の輪郭でもない。
 白影宮の意匠でも、皇族の格式でもない。

 動きだった。

 待つのではなく、出る動き。

 御簾の奥で呼ばれるのを待つのではなく、自分から布の向こうへ足を出す動き。

 与えられるのではなく、選ぶ動き。

 誰かが「あなたはこういう役です」と札を貼る前に、自分がどちらへ向くのかを決める動き。

 隠されるのではなく、見届けられる場所へ向かう動き。

 ただし、それは王朝の役名に固定されていなかった。

 皇女。
 巫女。
 白影宮の主。
 保留者。
 未登録役名。

 どれにも閉じ込められない。

 サヨの一歩は、まだ名を持っていない。

 だから危うい。

 だから美しい。

 イロハの腰の奥で、《ナギノオモテ》の鍵が熱を持った。

 先ほどよりも強く。

 まるで、内側から開けてほしいと訴えるように。

 イロハの手が、自然と腰へ伸びかける。

 開ければ、何かが見えるかもしれない。

 自分の面と、サヨの未在面のつながり。
 無面原の木の気配。
 ロウセツが隠しているもの。
 サヨの面に必要な輪郭。

 だが、イロハは歯を食いしばった。

 開けない。

 今はまだ、開ける時ではない。

 ここで《ナギノオモテ》を開けば、また自分の面の影をサヨに重ねてしまう。

 サヨの一歩を、自分の救われ方で読んでしまう。

 それは、違う。

 イロハは鍵から手を離した。

 熱はまだ残っている。

 けれど、開けない。

 代わりに、紙を開いた。

 さきほどの足音の線がある。

 イロハは筆を取った。

 手が震えていた。

 でも、止めなかった。

 サヨは稽古板の端に立っている。

 まだ片足だけ。

 その足は、前へ進むほど強くはない。
 戻るには、もう遅い。
 止まるには、少しだけ遠くへ出てしまった。

 その曖昧な位置。

 その余白。

 イロハは、そこに線を引いた。

 面の輪郭ではない。

 足跡のような線。

 板に触れた足袋の先から、ほんの少し前へ流れる線。

 待つ場所から、見届けられる場所へ向かう線。

 それは、顔のどこにも当てはまらない。

 目でも、口でも、頬でもない。

 けれど、未在面の最初の設計線だった。

 サヨが、ふと顔を上げる。

 舞殿の奥の御簾が、わずかに揺れた。

 鈴は鳴らない。

 客席の白い席にも、もう半面の客はいない。

 けれど、舞殿全体が、その一歩を見ているようだった。

 サヨは小さく息を吸った。

「……怖いです」

 初めて、そう言った。

 アヤメがすぐに動きかける。

 しかしサヨは首を振った。

「下がりたい怖さではありません」

 ユラが、静かにサヨを見た。

 サヨは足元を見る。

「見られる場所へ出るのは、怖いのですね」

 イロハは筆を握ったまま頷く。

「はい」

「でも、見られなければ、消えてしまうものもある」

 サヨの声は、白い客席の言葉をなぞっていた。

 だが、それは受け売りではなかった。

 自分の足で稽古板に触れた者の言葉だった。

「わたしは、消えたくありません」

 アヤメの顔が変わった。

 その一言は、静かだった。

 けれど、白影宮の奥で長く隠されてきた皇女が、初めて口にした願いだった。

「保留されるのも、隠されるのも、誰かの都合で守られるのも、もう嫌なのだと思います」

 サヨは胸元に手を当てる。

 そこには、面がない。

「でも、まだ何者になりたいのかは、わかりません」

 イロハは、紙にもう一本線を引いた。

 先ほどの線と、少しだけずれる線。

 不完全で、揺れていて、けれど確かに前へ向かう線。

「それでいいと思います」

 イロハは言った。

「いいのですか」

「はい」

 イロハは紙を見つめる。

「わからないまま前へ出るための面が、必要なんだと思います」

 サヨは、静かにイロハを見た。

「わからないまま」

「はい。何者かを決められるための面ではなく、何者になるかを選ぶまで、消されないための面です」

 その言葉を口にした瞬間、イロハの中で何かが定まった。

 サヨの面は、皇女の役を固定するためのものではない。

 サヨを王朝の台帳に載せるためだけのものでもない。

 もちろん、制度と戦うには、いつか認めさせる必要がある。面がなければ、サヨは公式の場に立てない。この国で、面は顔であり、役であり、存在の器だ。

 でも、それだけでは足りない。

 制度に認められるだけでは、サヨは救われない。

 第6話で知ったこと。

 今、その意味が少しだけ深くなった。

 サヨの面は、役を押しつける面ではなく、まだない役を選ぶための面でなければならない。

 イロハは、紙に小さく書き添えた。

 未在面。
 一歩目。
 待つ者ではなく、出る者。
 ただし、定めきらない。

 セイランが横から覗き込み、眉を寄せる。

「面の設計書にしては、抽象的すぎます」

「わかっています」

「しかし、記録としては重要です」

「仮記録ですか」

「はい」

 セイランは真面目に頷いた。

「今のところ、正式な分類がありません」

 ヒヨリが袖の中から小さく鳴くように紙を震わせた。

 分類がない。

 それは危うい言葉だった。

 仮面籍庁なら、分類がないものを保留し、封じる。

 けれど今のイロハには、その言葉が少しだけ違って聞こえた。

 分類がないなら、まだ決められていない。

 まだ、選べる。

 サヨは、稽古板からゆっくり足を下ろした。

 戻った。

 けれど、踏む前とは違う。

 彼女は、舞台に上がったわけではない。
 舞ったわけでもない。
 神楽を始めたわけでもない。

 ただ、前へ出る一歩を知った。

 それだけで、サヨの周囲の空気が少し変わっていた。

 アヤメは、サヨのそばへ寄る。

「お戻りください」

「はい」

 サヨは素直に頷いた。

 けれど、アヤメの顔を見て、少しだけ微笑んだ。

「アヤメ」

「はい」

「止めないでくれて、ありがとう」

 アヤメは一瞬、言葉を失った。

 それから、深く頭を下げる。

「……私は、止めたかったです」

「知っています」

「今も、止めるべきだったのではないかと思っています」

「それも、知っています」

 サヨは優しく言った。

「それでも、わたしは一歩を知りました」

 アヤメは、唇を引き結んだ。

 その目には、守る者としての苦しさがあった。

 守るとは、閉じ込めることではない。

 第2話で、サヨはアヤメに言った。

 あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です。

 今、その役は少し変わり始めている。

 サヨが外へ出る時、その一歩を消させない役へ。

 イロハは、その二人を見て、また紙に線を引いた。

 今度の線は、サヨだけのものではなかった。

 そばで支えるアヤメの影。

 見届ける者の位置。

 守る者が、閉じ込める者にならないための距離。

 それもまた、未在面の設計に必要なのだと思った。

 舞殿の奥で、鈴のない鈴の音がした。

 りん。

 短く、軽い音。

 それは祝福ではない。

 許可でもない。

 ただ、始まりを聞いたという印のようだった。

 イロハは紙を畳み、胸元にしまった。

 未在面は、まだ彫れない。

 けれど、最初の線は引かれた。

 顔ではなく。

 足音として。