EP 72

第7話 ウズメの舞殿

第九節 ― 白札の外側の舞

 未在面の最初の線は、まだ紙の中にあった。

 けれど、イロハにはわかった。

 それはもう、ただの下書きではない。

 サヨが稽古板の端に置いた一歩。
 ユラが正しさから少し外れて踏んだ足音。
 灰面長屋の子どもたちが、月を踏むと言って鳴らした板の音。

 それらは、同じ場所へ流れ込んでいた。

 まだ面ではない。
 まだ役名でもない。
 けれど、消えないための始まり。

 ユラ=シラビョウは、稽古板のそばで鈴を握っていた。

 さきほどまで泣きそうだった顔は、まだ涙の跡を残している。だが、瞳の奥には、ほんの少しだけ違う光が宿っていた。

 舞台へ戻れたわけではない。

 白札は、まだ面箱に貼られている。
 鈴祈舞面《ユラノスズ》は、正式な神前には出られない。
 奉納舞への参加保留は解けていない。

 それでも、ユラは完全に舞台から降ろされたわけではなかった。

 そのことを、ユラ自身がまだ信じきれずにいる。

「もう一度」

 ユラは、小さく言った。

 イロハが顔を上げる。

「もう一度、やってみてもいいですか」

 その声は震えていた。

 怖いからではない。

 希望を持つことのほうが、怖いのだ。

 また足が止まったら。
 また鈴が鳴らなかったら。
 さっきの一歩が、偶然だったら。

 そう思えば、踏まないほうが傷つかずに済む。

 けれど、ユラは鈴を握り直した。

 イロハは頷いた。

「はい」

 アヤメはサヨの横に立ち、黙って見ている。

 セイランは筆を構えたが、すぐに少しだけ下ろした。すべてを文字にしようとするには、この場の空気はまだ柔らかすぎた。

 ヒヨリは袖口から顔を出し、紙の耳をぴんと立てている。

 サヨは、稽古板の端を見た。

 自分がさきほど片足を置いた場所。

 そこに、自分の足跡が残っているわけではない。けれど、何かが変わったように見えた。

 見られる場所へ向かう怖さ。
 それでも消えたくないという願い。

 その小さな気配が、まだ板の上に残っている。

 ユラは、稽古板に立った。

 今度は、最初から正式な位置には立たなかった。

 神前へ向かう角度ではない。
 袖の上げ方も、少しだけ崩れている。
 鈴を構える高さも、教本通りではない。

 舞殿の作法から見れば、間違いだらけの姿だった。

 けれど、その間違いの中に、ユラ自身の呼吸があった。

 灰面長屋の子どもたちは、神楽を知らなかった。

 鈴も持っていなかった。
 面もなかった。
 舞台とも呼べない板の上で、ただ月を見つけて踏んでいた。

 ユラは、その足音を思い出すように、ゆっくり膝を緩めた。

 沈黙が来る。

 だが、さっきまでのように、彼女を閉じ込める沈黙ではなかった。

 神を迎えるためにすべてを正しく整える沈黙ではなく、誰かが笑い出す前の、少しあたたかい間だった。

 ユラの足が上がる。

 ほんの少し。

 そして。

 とん。

 稽古板が鳴った。

 その音は、前よりもはっきりしていた。

 ユラの身体がわずかに揺れる。
 けれど、止まらない。

 鈴を持つ手が遅れて動いた。

 りん。

 鈴が鳴った。

 完全な音ではなかった。

 かすれている。
 途中で切れかける。
 本来の奉納舞なら、鈴の余韻はもっと長く、もっと澄んで、神前の御簾まで届くはずだった。

 けれど、鳴った。

 確かに、ユラの手の中で鳴った。

 ユラは、目を見開いた。

「鳴った」

 声が掠れる。

 イロハは頷いた。

「はい」

「今、鳴りましたよね」

「鳴りました」

「でも」

 ユラは、自分の足元を見る。

「こんなの、神楽じゃない」

 その声には、悔しさと、安堵と、どうしてよいかわからない震えが混じっていた。

 イロハは、静かに答えた。

「まだ、神楽になる前の動きです」

 ユラは唇を噛んだ。

「神楽になる前」

「はい」

「それでも、残していいんでしょうか」

 イロハは、すぐには答えなかった。

 残していい。

 そう言うのは簡単だった。

 けれど、この国では、残されるものには形が必要になる。面、札、記録、役名、台帳。何かに納められなければ、たやすくなかったことにされる。

 白札の外側で生まれた一歩は、弱い。

 誰かが見届けなければ、次の月に薄れてしまうかもしれない。

 その時、サヨが言った。

「残してよいのだと思います」

 ユラが顔を上げる。

 サヨは稽古板を見つめていた。

「正しい舞ではないかもしれません。神楽でもないのかもしれません。でも、今の一歩がなければ、あなたはずっと白札の内側に閉じ込められたままでした」

 ユラの目が揺れる。

 サヨは続ける。

「なら、それは残してよいものです」

「サヨ様」

 ユラは、小さくその名を呼んだ。

 サヨは、少しだけ困ったように微笑んだ。

「わたしも、同じなのかもしれません」

 イロハはサヨを見る。

 サヨは自分の胸元に手を置いた。

 そこに面はない。

「なら、わたしもまだ、皇女になる前の何かなのでしょうか」

 静かな問いだった。

 だが、その問いは稽古場の空気を深く震わせた。

 皇女になる前の何か。

 面がないから。
 役名がないから。
 王朝儀礼上の立場が定まっていないから。

 そう考えれば、確かにサヨは「皇女になる前」と言えるのかもしれない。

 仮面籍庁なら、そう言うだろう。

 血統上は皇女。
 儀礼上の役名は未定。
 ゆえに保留。

 だが、イロハは首を横に振った。

「いいえ」

 その声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。

 サヨがイロハを見る。

 イロハは一歩前へ出た。

「サヨ様はもう、ここにいます」

 稽古場が静まる。

 サヨの瞳が揺れた。

「でも、わたしには面がありません」

「はい」

「皇女としての役名も、定まっていません」

「はい」

「それでも?」

「それでもです」

 イロハは、胸元にしまった紙へ手を添えた。

「サヨ様は、これから皇女になるために存在しているわけではありません。もう、ここにいます。白影宮にも、灰面長屋にも、この舞殿にも」

 サヨは、息を止めていた。

 イロハは続ける。

「ただ、その役に面が追いついていないだけです」

 その言葉を口にした瞬間、第6話の濁った水桶がイロハの脳裏に蘇った。

 映らなかったミツの顔。
 ぼやけていたサヨの顔。
 水面の底に現れた白い半面。

 映らないんじゃない。
 まだ、面が追いついていないだけです。

 あの時の言葉が、今、別の意味で戻ってくる。

 サヨの存在がないのではない。

 役がないのでもない。

 ただ、この国の面が、制度が、台帳が、まだサヨに追いついていない。

 サヨは、何度もゆっくり瞬きをした。

 まるで、その言葉を身体の中へ落としているようだった。

「面が、追いついていない」

「はい」

「わたしが、面に追いつかなければならないのではなく」

「違います」

 イロハは答えた。

「面が、サヨ様に追いつくんです」

 アヤメは、その言葉を聞いて、深く目を伏せた。

 サヨを守る者として、彼女はずっと、サヨを制度の中にどう置くかを考えていたのかもしれない。どうすれば危険を避けられるか。どうすれば仮面籍庁に潰されずに済むか。どうすれば、白影宮の内側でサヨを守れるか。

 だが、イロハの言葉は、それとは少し違っていた。

 サヨを制度に合わせるのではない。

 面のほうが、サヨへ追いつく。

 そのために面を作る。

 ユラが、鈴を握ったまま小さく笑った。

「それなら、わたしも」

 イロハが見る。

「わたしの舞も、まだ鈴が追いついていないだけでしょうか」

 冗談めかした声だった。

 でも、目は真剣だった。

 イロハは少し考え、頷いた。

「そうかもしれません」

「白札も?」

「白札は、たぶん一番遅いです」

 ユラは、ぽかんとしたあと、初めて声を立てて笑った。

 その笑いは、舞殿の奥へ軽く跳ねた。

 御簾が、ふわりと揺れる。

 どこかで、また鈴のない鈴の音がした。

 りん。

 今度は、祝福というより、いたずらに応える音だった。

 セイランが真面目な顔で記録しようとして、筆を止める。

「白札は一番遅い……これは記録してよいのでしょうか」

 ヒヨリが袖の中から顔を出し、紙の尾を左右に振った。

 イロハは少し笑った。

「正式記録には向かなさそうですね」

「仮記録なら」

「仮記録でも怒られます」

 アヤメが低く言う。

 けれど、その声にもわずかな笑みが混じっていた。

 ほんの少しだけ、稽古場の空気が緩む。

 ユラはもう一度、稽古板に立った。

 今度は誰に促されたわけでもない。

 自分からだった。

 彼女は白札の貼られた面箱を一度見る。

 《ユラノスズ》は眠っている。

 まだ白札の下にある。
 まだ正式な舞台へは戻れない。

 けれど、ユラはその面箱へ小さく頭を下げた。

「待っていて」

 そう言った。

「私も、追いつくから」

 その言葉に、イロハの胸が熱くなった。

 面が人に追いつくこともある。

 人が面に追いつくこともある。

 けれど、それは一方的に押しつけることではない。互いに呼び合い、少しずつ距離を詰めることなのだ。

 ユラは鈴を持ち、足を上げた。

 とん。

 りん。

 また鳴った。

 音はまだかすれていた。

 途中で少し切れ、余韻も短い。

 それでも、さっきよりも少しだけ、鈴の芯が戻っていた。

 ユラは泣かなかった。

 今度は、ただ笑った。

「鳴りました」

「はい」

 イロハも笑った。

「鳴りました」

 サヨはその音を、胸にしまうように聞いていた。

 彼女はまだ舞台に立たない。

 まだ自分の役を言えない。

 けれど、ユラの鈴が白札の外側で鳴ったことを、確かに見届けた。

 そしてその見届ける行為もまた、サヨ自身の一歩になっているのだと、イロハにはわかった。

 サヨは、誰かに面を与えられるのを待つだけの存在ではない。

 失われた役を覚え、保留された者の痛みを聞き、白札の外側で鳴る鈴を見届ける人だ。

 その役は、まだ王朝の台帳にはない。

 だが、もうここにある。

 面が追いついていないだけで。

 イロハは、紙を開いた。

 そこに引かれた足音の線の横へ、もう一つ短い線を足す。

 ユラの鈴の線。

 白札の外側で、まだ神楽にはならない音。

 その線は、サヨの未在面そのものではない。

 けれど、サヨの面が持つべき余白を教えてくれる線だった。

 決められた舞台の中心へ、すぐに立たせる面ではない。

 白札や黒札に判定されるための面でもない。

 正しさから外れた小さな始まりを、消さずに抱えられる面。

 イロハは、ようやく少しだけわかり始めた。

 サヨの未在面は、美しい皇女面であってはならない。

 美しいだけなら、また飾られる。
 正しいだけなら、また定められる。
 格式だけなら、また閉じ込められる。

 必要なのは、外へ出るための余白。

 白札の外側でも、鈴が鳴る余白。

 サヨが、自分の役に面を追いつかせるための余白。

 ユラは稽古板から降りた。

 その足元は少しふらついていたが、表情は明るかった。

「今日は、ここまでにします」

 自分でそう言った。

 以前なら、誰かに止められるまで続けたかもしれない。

 舞えることを証明しようとして、無理に足を出そうとしたかもしれない。

 だが今のユラは、自分で止めた。

 それもまた、舞台から完全に降ろされた者ではなくなった証のように見えた。

 サヨがユラへ歩み寄る。

「また、見てもよいですか」

 ユラは少し驚いたあと、深く頷いた。

「はい。……まだ神楽ではありませんけど」

「はい」

 サヨは微笑む。

「神楽になる前の動きを、また見せてください」

 ユラの目に、また涙が浮かんだ。

 けれど今度は、こぼれなかった。

「はい」

 舞殿の奥で、御簾がやわらかく揺れる。

 笑いの気配は、まだそこにあった。

 客席の白い席は空のままだ。

 けれど、今の一歩も、鈴の音も、サヨの問いも、きっと見届けられていた。

 イロハは、そう感じた。

 白札は剥がれない。

 月痕も消えない。

 でも、ユラはもう、白札の内側にだけいる人ではない。

 白札の外側に、不格好な一歩を持った神楽師になった。

 それはまだ、制度には認められない。

 けれど、舞殿は笑った。

 サヨは見届けた。

 イロハは記した。

 ならば、もう完全には消えない。