EP 73

第7話 ウズメの舞殿

終節 ― 舞われるまで名はない

 夕暮れの光が、ウズメの舞殿の朱を深く染めていた。

 朝には明るく開かれていた舞台も、今は西日の端で、少しだけ違う顔をしている。朱塗りの柱は影を長く落とし、鈴棚の鈴はもう鳴らない。神前の御簾も静かに垂れ、昼のあいだ舞殿のどこかに満ちていた笑いの気配は、床下へ戻っていったようだった。

 けれど、消えたわけではない。

 イロハには、それがわかった。

 ユラの足音は、まだ稽古板に残っている。

 白札は剥がれていない。
 《ユラノスズ》の月痕も、消えてはいない。
 奉納舞へ戻れる日が来るかどうかも、まだ誰にもわからない。

 それでも、ユラはもう「舞台から完全に降ろされた者」ではなかった。

 白札の外側で、一歩を踏んだ。

 それを、サヨが見た。
 舞殿が聞いた。
 セイランが仮記録に残した。
 イロハが紙に線を引いた。

 ならば、その一歩はもう、なかったことにはならない。

 舞殿の門を出る前、サヨが足を止めた。

 彼女は振り返り、夕暮れの舞台を見る。

 御簾の向こうには誰もいない。
 客席の白い席にも、もう鏡ノ客はいない。
 けれど、見届けられていたという感覚だけが、まだ淡く残っていた。

「面がなくても、一歩は出せるのですね」

 サヨが言った。

 イロハは、彼女の横顔を見た。

 朝、ここへ来た時のサヨとは違っている。

 大きく変わったわけではない。
 面が生まれたわけでも、役名が定まったわけでもない。
 仮面籍庁の保留が解けたわけでもない。

 それでも、サヨはもう、ただ待つだけの皇女ではなかった。

「はい」

 イロハは答えた。

「では」

 サヨは、舞台から目を離さない。

「面は、何のためにあるのでしょう」

 その問いは、静かだった。

 けれど、イロハの胸には深く刺さった。

 面は、何のためにあるのか。

 この国では、面こそが顔である。
 面は役を示す。
 面は家を示す。
 面は職を示す。
 面は神前に立つ資格を示す。
 面がなければ、人は制度の中で曖昧になる。

 それは、イロハがずっと知っていた答えだった。

 けれど今は、それだけでは足りない。

 アリノリ=シジョウの《コトサダメ》も、同じことを言うだろう。
 面は、人を正しい役に置くためにある。
 定まらぬ役を判定し、保留し、封じるためにある。

 でも、それだけなら、面は札と同じだ。

 白札や黒札と同じになる。

 イロハは、胸元にしまった紙へ手を添えた。

 そこには、面の輪郭ではなく、足音の線がある。

 ユラの一歩。
 サヨの一歩。
 灰面長屋の子どもたちの足音。

 まだ名にならないもの。
 まだ役として定まらないもの。
 それでも、確かにここにあったもの。

「その一歩が」

 イロハは、ゆっくりと言った。

「失われないようにするためだと思います」

 サヨが、イロハを見る。

「失われないように」

「はい」

 イロハは頷いた。

「役を押しつけるためではなくて。誰かに定められるためだけでもなくて。本人が踏み出した一歩を、月に喰われたり、人に消されたり、札で止められたりしないようにするために」

 言いながら、イロハ自身もその答えを初めて聞いているような気がした。

「面は、その一歩を世界の中に残す器なのだと思います」

 サヨは、黙ってその言葉を受け止めた。

 夕暮れの舞台から、微かな木の匂いが流れてくる。

 舞われるまで、舞に名はない。

 踏まれるまで、一歩に役はない。

 けれど、踏まれたあとなら。

 誰かが見届けたあとなら。

 それを失わせないための器が必要になる。

 イロハは思った。

 サヨの面は、皇女という役を固定する面ではない。
 王朝に認めさせるためだけの面でもない。
 サヨが自分で踏み出した一歩を、奪われず、喰われず、誰かに勝手に定められないようにする面でなければならない。

 面が、サヨに追いつく。

 そのために、自分は彫るのだ。

 アヤメは黙って聞いていた。

 彼女は反論しなかった。

 ただ、サヨの少し後ろで、守る者の位置に立っている。その距離は、朝よりもほんの少しだけ変わっていた。

 近すぎず、遠すぎず。

 閉じ込めるためではなく、一歩が戻れなくなった時に支えるための距離。

 セイランは、舞殿の門の脇で筆をしまっていた。

「正式記録には、できませんね」

 彼は言った。

 イロハは少し笑った。

「今日のことですか」

「はい。白札対象者の非公式動作、舞殿反応、鈴鳴なき鈴音、未在役名者の一歩。どれも、分類が難しい」

「それでも書くんでしょう」

「仮記録としては」

 セイランは真面目に頷いた。

「消すよりは、ましです」

 その言葉に、イロハは胸が少し温かくなった。

 セイランもまた、変わり始めている。

 正式記録にできないものを、なかったことにしない。
 読めないものを、読めないまま残す。

 それもまた、見届けるということなのかもしれない。

 その時、舞殿の奥から足音が近づいてきた。

 若い神楽師が一人、白木の箱を抱えている。

 箱は古かった。

 舞面の箱ではあるが、舞殿のものとは少し違う。白木ではなく、灰を薄く刷り込んだような色をしている。角には黒い紐が掛けられ、蓋には小さな冥祀の印が押されていた。

 ミナ=クラ命。

 死者、失われた面、剥がされた役、戻らない名を祀る神域の印。

 アヤメが表情を引き締める。

 イロハも、すぐに空気が変わったのを感じた。

 舞殿の笑いが、遠ざかる。

 代わりに、冷たい灰の匂いが近づいてくる。

 神楽師は、イロハの前で立ち止まり、深く頭を下げた。

「冥祀社より、面師イロハ殿へ」

「私に?」

「はい」

 神楽師は、白木の箱を差し出した。

「戻すべきか、弔うべきか、見てほしいとのことです」

 イロハは、その言葉に息を止めた。

 戻すべきか。
 弔うべきか。

 今日、イロハは知ったばかりだった。

 まだない役は、舞によって呼び出せること。
 白札の外側でも、一歩は踏めること。
 面は、その一歩を失わせないための器にもなりうること。

 けれど、差し出された箱は、それとは別の問いを持っていた。

 すべての役が、戻ることを望むとは限らない。

 すべての面が、再び舞台へ出るべきとは限らない。

 イロハは、箱を受け取った。

 軽い。

 けれど、ひどく重かった。

「中を、見ても?」

 神楽師が頷く。

 イロハは、そっと蓋を開けた。

 中には、古い白面が納められていた。

 白い。

 けれど、白化面の白ではない。

 月に噛まれた白ではなく、灰に近い白だった。長い時間をかけて色を失い、役を終え、静かに眠るはずだった面。

 目元は穏やかで、口元にはかすかな笑みがある。

 かつて舞われた面なのだろう。

 いや、舞い終えた面、と言うべきか。

 本来なら、ミナ=クラの冥祀社で弔われるべきもの。

 役を終え、舞台から下り、灰へ還るための面。

 だが、その面の内側に、かすかな傷があった。

 月痕ではない。

 噛み跡でもない。

 もっと古い、ひびのような線。

 そして、イロハが覗き込んだ瞬間、その面の奥で、何かが動いた気がした。

 舞台へ戻ろうとする気配。

 もう終わったはずの足音が、箱の底から立ち上がろうとしている。

 サヨが、静かに息を呑んだ。

「この面は」

 イロハは、蓋を閉じなかった。

 閉じてはいけない気がした。

 けれど、すぐに直してよいものでもない。

 ユラの面とは違う。
 ハルマサの戦面とも違う。
 カンナの香役とも違う。

 これは、失われた役ではない。

 終わった役だ。

 終わったはずなのに、まだ戻ろうとしている役。

 舞殿の若い神楽師が、声を落として言った。

「夜になると、その面が鳴るそうです」

「鳴る?」

「鈴もないのに、舞台へ上がろうとするような音が」

 ユラが、顔を青ざめさせる。

 白札の外側で鳴った鈴の音とは違う。

 始まりの音ではない。

 終わったものが、終わりきれずに戻ってくる音。

 イロハは、箱の中の白面を見つめた。

 今日、舞殿は始まりを笑った。

 ならば、終わるべきものには、何をするのか。

 戻すのか。
 弔うのか。
 それとも、戻りたがっている理由を見届けるのか。

 サヨが小さく言った。

「舞われるまで、名はない」

 イロハは振り向く。

 サヨは、白面を見ていた。

「けれど、舞い終えたものには、何が残るのでしょう」

 その問いに、誰も答えられなかった。

 夕暮れの舞殿で、鈴は鳴らない。

 ウズメの笑いも、いまは遠い。

 ただ、冥祀社の白い面だけが、箱の中で静かに眠っている。

 眠っているはずなのに。

 イロハには、その内側で、まだ誰かの足音が消えずにいるのがわかった。

 とん。

 聞こえた気がした。

 今度の音は、始まりではない。

 終わりを拒む音だった。

 イロハは白木の箱を抱きしめ、静かに息を吸った。

「見ます」

 神楽師が頭を下げる。

 サヨがイロハを見る。

 アヤメが周囲を警戒する。

 セイランは筆を取り出しかけて、やめた。

 この問いは、すぐに記録へ落とせるものではない。

 イロハは、夕闇の中で舞殿をもう一度振り返った。

 今日は、始まりを見た。

 次は、終わった役を見ることになる。

 戻してはいけない役もある。

 その言葉を、まだ誰からも聞いていないのに、イロハの胸の奥ではもう、冷たい予感として形を持ち始めていた。

 舞われるまで名はない。

 けれど、舞い終えた名を、無理に呼び戻せば。

 生きている者の顔は、きっと壊れる。

 夕暮れの舞殿の奥で、御簾が最後に一度だけ揺れた。

 笑いではない。

 別れのような、送りのような、微かな揺れだった。

 そしてイロハたちは、冥祀社から来た白い面を抱え、舞殿を後にした。