EP 74

第8話 冥祀社の白い面

序節 ― 鈴のない送り音

 舞台に上がることを、始まりと呼ぶなら。

 舞台を降りることもまた、ひとつの役である。

 けれど、降りたはずの足が、なお床を踏む時。

 それは舞か。
 未練か。
 それとも、誰かが終わりを見届けなかったために残った、名のない音か。

 ウズメの舞殿を出た時、夕暮れはすでに帝都カミザの屋根を斜めに染めていた。

 朱塗りの柱は背後へ遠ざかり、鈴棚の音も、御簾の揺れも、舞殿の奥で笑った気配も、少しずつ暮色の中へ沈んでいく。

 けれど、イロハの腕の中には、舞殿とは違う静けさを持つ面箱が残っていた。

 ミナ=クラの冥祀社から預けられた、古い白面。

 箱は、舞殿の舞面を納めるものとは造りが違っていた。白木ではなく、灰を薄く刷り込んだような色の木でできている。角は黒い紐で結ばれ、蓋には小さな冥祀印が押されていた。

 面箱ではない。

 冥箱。

 役を眠らせるためではなく、役を終わらせるための箱。

 イロハは、その重さを両腕で受け止めていた。

 重いわけではない。

 むしろ、空のように軽い。

 けれど、その軽さがかえって怖かった。

 面が、もうほとんど何も持っていないような軽さ。
 それでも、何かだけが最後まで残っているような重さ。

 サヨは、イロハの隣を歩いていた。

 公式の行列ではない。
 皇女としての参詣でもない。
 白影宮の名を伏せた、あくまで面師イロハの調査への同行。

 けれど、サヨの横顔は、舞殿へ向かった朝よりもずっと静かだった。

 彼女は今日、稽古板の端へ一歩を置いた。

 舞ではなかった。
 神楽でもなかった。
 だが、待つ場所から見届けられる場所へ出る一歩だった。

 面がない皇女は、それでも一歩を出せる。

 その事実は、まだサヨの胸の奥で、淡く鳴っているようだった。

 アヤメは、その少し後ろを歩いている。

 周囲への警戒を解かず、サヨから離れすぎず、近づきすぎず。

 舞殿でサヨを止めなかったことを、まだ自分の中で咀嚼しているのだろう。横顔には、守る者としての緊張が残っていた。

 セイランも同行していた。

 彼は歩きながら、小さな仮記録帳を胸に抱えている。紙狐ヒヨリは袖の奥へ引っ込んだまま、時折、紙の耳だけを覗かせた。

 ウズメの舞殿で起きたこと。

 白札の外側で鳴った鈴。
 サヨの一歩。
 白い客席の鏡ノ客。

 どれも正式記録にしにくいものばかりだった。

 だが、セイランはもう、それを消すつもりはないのだろう。

 読めないものを、読めないまま残す。

 それもまた、今の彼の役になりつつあった。

 帝都の道は、舞殿を離れるにつれて少しずつ静かになっていく。

 朱塗りの鳥居が遠ざかり、香と鈴の気配が薄れる。代わりに、灰の匂いが風に混じり始めた。

 ミナ=クラの冥祀社は、帝都カミザの中心から少し外れた、古い墓地と役納め所の間にある。

 死者の名を祀る場所ではない。

 死者が持っていた面を納め、終えた役をほどき、戻らない名を静かに送る場所。

 イロハは、その場所へ向かうのが初めてではなかった。

 面師小路の仕事でも、役を終えた面を納めに行くことはある。
 古い職面。
 使い終えた祈面。
 亡くなった者の生面。
 持ち主のいなくなった面箱。

 けれど、今日の冥箱は違う。

 この面は、まだ何かを鳴らしている。

 とん。

 イロハは足を止めた。

 サヨも振り返る。

「今の音は」

「箱の中からです」

 イロハは冥箱を見下ろした。

 黒紐は結ばれている。蓋も閉じている。面が動く隙間などない。

 それでも、確かに音がした。

 とん。

 板を踏むような音。

 第7話でユラが稽古板に置いた一歩に似ていた。

 だが、違う。

 あの音は、始まりだった。

 不格好で、かすれていて、それでも前へ出る音だった。

 今の音は、重い。

 前へ出るというより、戻ろうとしている。
 もう降りたはずの舞台へ、もう一度足をかけようとしている。

 そんな音だった。

 アヤメが目を細める。

「開けますか」

 イロハは首を横に振った。

「ここでは開けないほうがいいと思います」

 なぜ、とは言えなかった。

 ただ、開けた瞬間、この面がどこかへ向かってしまう気がした。

 火の方へ。
 舞台の方へ。
 あるいは、もう戻れないどこかへ。

 サヨは、冥箱をじっと見ていた。

「始まりの足音では、ありませんね」

 イロハは頷く。

「はい」

「でも、終わってもいない」

「……そう見えます」

 サヨの表情が少し曇る。

 舞殿でサヨは知った。

 面がなくても一歩は出せる。
 面は、その一歩を失わせないためにあるのかもしれない。

 だが、この冥箱の音は、同じ問いの反対側にある。

 失われないことは、いつも救いなのか。

 残り続けることは、本当に正しいのか。

 イロハは、冥箱を抱く腕に力を込めた。

 第7話の自分の答えが、もう試されている。

 面は、一歩を失わせないための器。

 そう思った。

 けれど、すでに終わった一歩まで、面の中に残し続けることは。

 それは救いなのだろうか。

 セイランが低い声で言った。

「冥祀社の面が鳴るというのは、通常のことではありません」

「記録にありますか」

「あります。ですが、良い記録ではありません」

 イロハはセイランを見た。

 セイランは仮記録帳を少し強く握っていた。

「終えた役が、面の中で動き続ける現象です。正式には、冥返りと呼ばれることがあります」

「冥返り」

「死者本人が戻るわけではありません。多くの場合、役だけが戻ります」

 役だけが戻る。

 その言葉に、イロハの背筋が冷えた。

 人がいないのに、役だけが残る。

 火消しがいないのに、火消しの役だけが火事場へ向かう。
 舞い手がいないのに、舞の足音だけが舞台へ戻る。
 持ち主の顔がないのに、面だけが役を続けようとする。

 それは、白化面とは違う怖さだった。

 月に喰われて欠けるのではない。

 終わったはずのものが、終われずに残る。

 サヨがぽつりと言った。

「役にも、終わりが必要なのですね」

 誰もすぐには答えなかった。

 帝都の空は、すでに藍色へ変わり始めている。

 今日は満月ではない。暦の月も、空の月も、満ちてはいないはずだった。

 それでも、イロハは無意識に水面を探してしまう。

 白影宮の面箱。
 陰陽寮の鏡水。
 アカツキ家の鉄鉢。
 灰面長屋の濁った水桶。

 どこにでも、月は映った。

 けれど、ミナ=クラの冥祀社では、月を映すものを隠すという。

 死者の役が、月に映らないように。

 死者が、もう一度呼ばれないように。

 イロハは、前方に石段を見た。

 灰白の石段。

 その左右に、黒い灯籠が並んでいる。火は入っているのに、炎は高く燃え上がらない。まるで、燃えることを許されていない火のように、低く、静かに揺れていた。

 石段の上には、黒い門。

 朱ではない。
 白木でもない。
 黒漆でもない。

 煤と灰を重ねたような、深い黒。

 門の奥には、白布に包まれた面箱がいくつも並んでいるのが見えた。

 風はほとんどない。

 それなのに、境内に吊るされた細い鈴が、かすかに揺れている。

 音はしない。

 鳴らない鈴。

 舞殿の鈴とは違う。

 始まりを告げるものではなく、終わりを乱さないために、あえて音を失った鈴。

 冥箱の奥で、また音がした。

 とん。

 今度は、少しだけ強い。

 アヤメが身構える。

 ヒヨリが袖の中で小さく震える。

 サヨは冥箱から目を逸らさない。

 イロハは、箱を抱え直した。

 逃げる音ではない。

 助けを求める音でもない。

 ただ、まだ終われないものが、床を探している音。

 その音を聞きながら、イロハは思った。

 直せるかもしれない。

 もし面の中に役が残っているなら。
 もし面がまだ動こうとしているなら。
 もし持ち主の最後の願いが、そこにあるなら。

 手を入れれば、戻せるかもしれない。

 仮置きではなくても。
 少しだけなら。
 一歩だけなら。

 そう考えた瞬間、イロハは自分の手が怖くなった。

 第6話でミツの面を前にした時と同じだった。

 戻すべき役がない子に、役を置きかけた。
 救いたいと思うあまり、押しつけそうになった。

 今度は逆だ。

 終わった役を、救いたいと思うあまり、呼び戻そうとしている。

 それは、本当に救いなのか。

 門の内側から、一人の男が現れた。

 灰白の僧衣に、墨黒の外衣。
 髪は後ろで低く結ばれ、顔立ちは若いが、目元には年齢よりも深い静けさがある。
 腰には、小さな小刀と、黒紐で結ばれた冥鈴。
 背には、白布に包まれた細長い面箱。

 彼は石段の途中まで降りてきて、イロハたちへ静かに礼をした。

「お待ちしておりました」

 声は柔らかい。

 けれど、その柔らかさは、人を安心させるためのものではなかった。

 泣く者を急がせないための声。
 死者を引き戻さないための声。

「エンジュ=クラモリです。ミナ=クラ命に仕える冥祀僧をしております」

 イロハは名乗ろうとして、冥箱の中の面がまた鳴った。

 とん。

 エンジュの視線が、まっすぐ箱へ落ちる。

 彼は驚かなかった。

 眉一つ動かさず、ただ静かに言った。

「まだ、降りられずにいるようですね」

 イロハは冥箱を抱えたまま、唇を引き結んだ。

「この面は、白化面ですか」

 エンジュは首を横に振った。

「いいえ」

 そして、ゆっくりと言った。

「これは、終わった面です」

 終わった面。

 その言葉が、冥祀社の黒い門の前で、低く沈んだ。

 イロハは、すぐには返せなかった。

 終わった。

 そう言われているのに、箱の中では足音がする。

 終わった役が、まだ床を踏もうとしている。

 エンジュはイロハの腕の中の冥箱を見たまま続けた。

「本来なら、すでに送られているはずでした」

「では、なぜ舞殿へ?」

「最後の役を、誰も見届けなかったからです」

 サヨが、わずかに息を呑む。

 エンジュは彼女のほうへ目を向けた。

 サヨの身分を問わない。
 御簾の有無も、面の有無も、確かめない。

 ただ、その人がそこにいることを見てから、再びイロハへ視線を戻す。

「面師イロハ」

「はい」

「あなたは、直したい人ですね」

 唐突な言葉だった。

 イロハは、眉を寄せる。

「壊れているなら」

「壊れていなくても、直そうとする人です」

 声は責めていない。

 だからこそ、痛かった。

 イロハは冥箱を抱く腕に力を込める。

「直せるなら、直したほうがいい時もあります」

「あります」

 エンジュはあっさり頷いた。

「ですが、直さないほうがよい時もあります」

 黒い灯籠の火が、低く揺れる。

「戻せば救いになるとは限りません」

 冥箱の奥が、沈黙した。

 まるで、その言葉を聞いていたかのように。

 エンジュは石段の上へ向き直った。

「中へ。夜が深くなる前に、この面の足音を見ましょう」

 イロハは、冥祀社の門を見上げた。

 第7話で、彼女は始まりの一歩を見た。

 そして今。

 終わりを拒む足音を抱え、死者の役を送る場所へ入ろうとしている。

 面師の仕事は、直すことだけではない。

 その答えを、まだ受け入れたわけではない。

 けれど、冥箱の中で鳴った重い足音が、もうイロハを逃がしてはくれなかった。