EP 75

第8話 冥祀社の白い面

第一節 ― ミナ=クラの冥祀社

 黒い門をくぐった瞬間、音が遠ざかった。

 帝都カミザのざわめきも、ウズメの舞殿に残っていた鈴の余韻も、夕暮れの道を行き交う人々の声も、すべて一枚の薄布の向こうへ退いたようだった。

 ミナ=クラの冥祀社は、静かだった。

 ただ音がないのではない。

 音を、ひとつずつ終わらせている場所だった。

 石段は灰白。
 手すりは墨黒。
 境内の奥へ続く敷石には、薄紫の影が落ちている。

 ウズメの舞殿が朱と鈴と床板の場所なら、ここは灰と布と灯の場所だった。

 境内の左右には、小さな壺が整然と並んでいる。

 どれも同じ形ではない。
 丸いもの。細いもの。蓋に小さな紐がついたもの。子どもの手ほどの小さなもの。

 壺のひとつひとつには、焼かれた面の灰が納められているのだと、イロハは知っていた。

 役を終えた面。
 持ち主が亡くなった面。
 神前から退いた祈面。
 家を継がれず、役だけが残ってしまった古い生面。

 それらはここで焼かれ、灰となり、壺に納められる。

 面は顔であり、役であり、器である。

 ならば、その灰もまた、ただの灰ではない。

 誰かが世界の中で担っていたものの、最後の形だった。

 黒い灯籠には火が入っていた。

 けれど、その炎は高く燃えない。

 風がないのに、低く、低く揺れている。

 まるで、火であることを忘れないためだけに灯っているようだった。

 アヤメは、自然とサヨの半歩前へ出た。

 ここは敵地ではない。

 だが、白影宮とも、舞殿とも違う。生者の理屈だけで歩いてよい場所ではなかった。

 サヨは、境内に入ってからずっと言葉を発していない。

 彼女の目は、小壺の列、黒い灯籠、白布に包まれた面棚を順に追っていた。

 白影宮の空白とは違う。

 白影宮には、あるべき面がない空白があった。
 灰面長屋には、持つべき面を持てない欠落があった。
 ウズメの舞殿には、まだ始まっていない足音があった。

 けれど、ここには。

 終わったものを、終わったものとして置く静けさがあった。

 それは冷たいようで、どこか優しかった。

 終わったものを、無理に引き戻さないための優しさ。

 サヨは、ふと境内の奥の池に目を向けた。

 池には、蓋がされていた。

 黒い木蓋が、まるで水面を封じるようにぴたりと置かれている。隙間から水の匂いはする。だが、月も、空も、灯籠の火も映らない。

 サヨが小さく問う。

「水を、隠しているのですか」

 先を歩くエンジュ=クラモリが、静かに振り返った。

「はい」

「なぜ」

「死者の役が、月に映らないように」

 サヨは、その答えをすぐには飲み込めなかったようだった。

 イロハも、池の蓋を見る。

 これまで月は、あらゆるところへ映った。

 面箱の内側。
 鉄鉢の水。
 方位盤。
 鏡水。
 濁った水桶。

 そして映ったものは、ただの月ではなかった。

 喰われた役。
 隠された役。
 未在の役。
 映されることで、こちらへ戻ってくるもの。

 冥祀社では、その反射を恐れる。

 死者がもう一度、呼ばれないように。

 終わった役が、生者の未練で立ち上がらないように。

 イロハは、腕の中の冥箱を抱え直した。

 その時だった。

 とん。

 箱の内側から、また足音がした。

 今度は境内の静けさの中だったから、先ほどよりもはっきり聞こえた。

 とん。

 アヤメの手が刀へ近づく。

 セイランが息を呑み、仮記録帳へ視線を落とす。袖の中のヒヨリは、紙の尾だけを覗かせたまま動かない。

 サヨは冥箱を見た。

 音は、舞殿でユラが踏んだ一歩に似ていた。

 けれど、やはり違う。

 これは始まりではない。

 舞台へ上がる音ではなく、降りたはずの場所へ戻ろうとする音だった。

 エンジュは、驚かない。

 彼は冥箱の前へ戻ると、手を伸ばすでもなく、ただ箱へ向かって軽く頭を下げた。

「まだ、火の方角を覚えているのですね」

 イロハは顔を上げる。

「火の方角?」

「この面の役です」

 エンジュは、境内の奥にある建物へ歩き出した。

「こちらへ。面棚の前では開けられません。戻りたがる面を、他の終わった面のそばで目覚めさせるのはよくありません」

「目覚めるんですか」

 イロハが問うと、エンジュは振り向かずに答えた。

「目覚めるのは、面ではありません」

 灰白の石畳を踏む音だけが、低く響く。

「面に残った役です」

 イロハは、言葉を失った。

 面に残った役。

 それは、第1話からずっとイロハが見てきたものでもある。

 ユラの舞面には、神を迎える沈黙の入口が喰われていた。
 ハルマサの戦面には、抜刀の理由へ入る入口が欠けていた。
 セイランの式面には、読む役が揺らいでいた。

 だが、それらはまだ生者の面だった。

 持ち主がいて、戻る身体があった。

 この冥箱の面には、もう持ち主がいない。

 それなのに、役だけが鳴っている。

 境内の奥には、長い庇を持つ建物があった。

 正殿ではない。

 面を納め、ほどき、送るための場所。

 戸口の前には、白布に包まれた面箱が棚に並んでいる。どの箱にも役名札はついていない。代わりに、小さな灰紐が結ばれていた。

 生前の役を示すためではなく、役を解いたあとであることを示す紐。

 サヨはその棚の前で足を止めた。

「ここにある面は、もう誰の役でもないのですか」

 エンジュは少し考えてから答えた。

「誰の役でもあった、面です」

 サヨが目を上げる。

「今は」

「今は、休んでいます」

 その答えに、サヨの表情がほんの少し変わった。

 終わった役は、消えるのではない。

 なかったことになるのでもない。

 休む。

 そういう扱い方が、この場所にはあるのだ。

 イロハは、冥箱を抱えたまま、面棚を見上げた。

 白布の下にある面たちは、すべてかつて誰かの顔だった。

 誰かの役だった。

 農家の面。
 香役の面。
 火留番の面。
 舞い終えた祈面。
 継ぐ者のいなかった家面。

 面師小路では、面は直されるものだった。

 白影宮では、面は待たれるものだった。

 仮面籍庁では、面は判定されるものだった。

 ウズメの舞殿では、面は一歩を残す器だった。

 ここでは。

 面は、休ませるものだった。

 エンジュは戸を開けた。

 中は薄暗かった。

 香の匂いはある。だが、白檀や沈香のように華やかではない。灰、乾いた木、古い布、わずかな火の匂い。

 中央には黒い低台が置かれている。

 その横に、黒い皿があった。

 水ではない。

 灰が薄く敷かれている。

 灰を映す皿。

 反射するものではなく、反射を受け止めて沈めるための器。

 エンジュは、低台の前に膝をついた。

「こちらへ」

 イロハは冥箱を置こうとして、手が止まった。

 箱の中から、また音がする。

 とん。

 先ほどよりも近い。

 まるで、黒い低台を見つけて、そこへ上がろうとしているようだった。

 イロハは思わず箱を抱え直す。

 エンジュが、その手を見た。

「怖いですか」

「……わかりません」

 イロハは正直に答えた。

「壊れている面なら、怖くても触れます。白化面でも、月痕でも、何を見ればいいか少しはわかる。でも、これは」

 言葉を探す。

「終わっているのに、動いている」

 エンジュは静かに頷いた。

「だから、急いで直してはいけません」

 イロハは唇を噛んだ。

「直せるかもしれないのに?」

「直せるからこそです」

 その言葉は、鋭くはなかった。

 けれど、イロハの胸を深く刺した。

 直せるからこそ、直してはいけない。

 面師にとって、それは残酷な言葉だった。

 エンジュは続ける。

「終わった役を呼び戻すことは、死者をもう一度働かせることです」

 サヨが小さく息を呑む。

 アヤメも眉を寄せた。

 エンジュの声は変わらない。

「生きている者は、死者の役を美しく覚えます。強かった人。優しかった人。守ってくれた人。最後まで働いた人。けれど、その記憶が強すぎると、死者はいつまでも役を脱げません」

「死者が、ですか」

 イロハが問う。

「いいえ」

 エンジュは首を横に振った。

「面が、です」

 低台の前に沈黙が落ちる。

 冥箱の中の足音も、しばらく止まった。

 エンジュは、イロハの腕の中の箱へ視線を落とす。

「面師イロハ。あなたは、まだ直す面と送る面を分けていない」

 イロハは、言い返そうとしてできなかった。

 直す面。
 送る面。

 そんなふうに考えたことが、あっただろうか。

 欠けていれば直す。
 白化していれば診る。
 役が揺らいでいれば、仮にでも繋ぐ。

 それが面師の仕事だと思っていた。

 けれど、ここでは違う。

 ここで急いで繋ぐことは、終わったものを縛ることになる。

 サヨは低台を見つめていた。

「終わったものを終わったものとして扱うことも、救いなのですね」

 エンジュは、サヨへ目を向けた。

 その目に、初めて少しだけ感情が動いた。

 驚きではない。

 この人は、それを言えるのか、という静かな確認。

「はい」

 エンジュは答えた。

「終わりを奪われることもまた、苦しみです」

 イロハは、冥箱をゆっくり低台へ置いた。

 箱が台に触れた瞬間、内側から小さな音がした。

 とん。

 それは、最後の確認のようだった。

 エンジュは冥鈴に触れたが、鳴らさなかった。

 音を出さない。

 まだ、この面がどんな音を持っているのか、聞く前だからだ。

「開けます」

 エンジュが言う。

 イロハは頷いた。

 アヤメはサヨの前に立ちすぎない位置へ移る。

 セイランは筆を構えたが、エンジュが静かに首を横に振った。

「今は、書かないでください」

 セイランの手が止まる。

「記録してはいけませんか」

「最初に記録すると、役がそちらへ寄ります」

 セイランは目を見開く。

 エンジュは穏やかに続けた。

「まず、聞きます。書くのは、そのあとです」

 ヒヨリが袖の中で小さく身じろぎした。

 読む前に、聞く。

 第4話でヒヨリが示した、セイランの役にも通じる言葉だった。

 セイランは、ゆっくり筆を下ろした。

「承知しました」

 エンジュは冥箱の黒紐をほどく。

 紐がほどける音は、やけに大きく聞こえた。

 蓋に手をかける。

 その瞬間、黒い灯籠の火が低く揺れた。

 池の蓋の向こうで、水がわずかに鳴った気がした。

 サヨが息を止める。

 イロハは、手のひらに汗が滲むのを感じた。

 蓋が開く。

 中に、白い面が眠っていた。

 白い。

 だが、白化面の白ではない。

 月に喰われた白ではなく、灰を被った白。

 深い煤朱だった名残が、頬の端にわずかに残っている。右頬には焦げ跡。額には火留番の役紋。目元は厳しく、口元は結ばれている。

 火を消す者の面ではない。

 火を止める者の面。

 火留職面《ヒドメ》。

 エンジュは低く言った。

「ソウマ=カガリ。元・帝都火留番」

 その名が告げられた瞬間、面の内側で、かすかに足音がした。

 とん。

 イロハは、その音を聞いた。

 舞台ではない。

 火事場の床。

 崩れかけた梁。
 煙の向こう。
 誰かを呼ぶ足音。

 イロハは反射的に面へ手を伸ばしかけた。

 だが、エンジュの声がそれを止めた。

「深く読まないでください」

 イロハの指が宙で止まる。

「なぜですか」

「死者の役に、生者の面師が入りすぎてはいけません」

 エンジュは、静かに、けれど明確に言った。

「あなたが戻り道になってしまいます」

 イロハは、手を引いた。

 その胸の奥で、何かが重く鳴る。

 とん。

 冥箱の中の面が、また足音を鳴らした。

 それは、イロハを呼んでいるようにも聞こえた。

 直せ、と。

 戻せ、と。

 まだ終わっていない、と。

 けれど、エンジュは言った。

 これは、終わった面だと。

 イロハは初めて、自分の手を信じることが怖くなった。