EP 76

第8話 冥祀社の白い面

第二節 ― 冥祀僧エンジュ=クラモリ

 白い面は、黒い低台の上で眠っていた。

 眠っている、と言うには、あまりにも音が残っている。

 とん。

 箱の外へ出されてもなお、その足音は完全には消えなかった。面そのものが動くわけではない。面紐が跳ねるわけでも、白い頬が震えるわけでもない。

 ただ、面の内側に残った何かが、遠い床を踏む。

 そのたびに、イロハの指先は反射的に動きそうになった。

 傷を探すために。
 欠けた役を読むために。
 少しでも戻せる線を探すために。

 けれど、そのたびにエンジュ=クラモリの静かな声が、目に見えない刃のようにイロハの手を止めた。

「触れる前に、聞いてください」

 イロハは、低台の向こうに座る冥祀僧を見た。

 エンジュは、まだ冥導面《クラワタリ》を着けていない。面は彼の横に置かれ、白布に半ば包まれていた。

 薄墨色の面だった。

 目元は深く、口元は閉じ、頬には川を渡るような細い銀線が流れている。生者を飾るための面ではない。死者の役をほどき、向こう側へ渡すための面だと、見ただけでわかった。

 エンジュ自身の顔は、穏やかだった。

 年は、ロウセツよりはずっと若い。二十代の終わりか、三十を少し越えたころだろう。けれど、その目の奥には、もっと長く、もっと多くの別れを見てきた者の静けさがあった。

 優しげなのに、近づきにくい。

 冷たいのではない。

 熱を上げないようにしている人なのだと、イロハは思った。

 泣く者が泣きすぎて死者を引き戻さないように。
 怒る者が怒りすぎて終わった役をもう一度働かせないように。
 願う者が願いすぎて、面を死者の代わりにしないように。

 エンジュは、感情に蓋をしているのではない。

 感情が、死者の面に絡まらないようにしている。

「よく運んでくださいました」

 エンジュは改めて、イロハたちへ深く礼をした。

 その礼は、サヨへも、アヤメへも、セイランへも向いていた。だが、視線の中心はやはり、黒い低台の上の白い面だった。

 人を見る前に、面を見る。

 生者の事情より先に、終わった役の状態を確かめる。

 それが、冥祀僧の作法なのかもしれなかった。

 イロハは、低台の上の白面へ視線を落とす。

「この面は、白化面ですか」

 もう一度、問うた。

 答えは先ほど聞いた。

 けれど、イロハは確かめずにはいられなかった。

 白いから。
 月痕のように見えるものがあるから。
 まだ足音がするから。

 これまでの事件と、どこかでつながっているのではないかと、どうしても思ってしまう。

 エンジュは首を横に振った。

「いいえ。これは、終わった面です」

「終わった面」

「本来なら、焼いて送るはずの面です」

 その言い方に、イロハの胸がちくりと痛んだ。

 焼く。

 面を焼く。

 役を終えた面を灰にする。

 面師としては、どうしても身構えてしまう言葉だった。

 面を作るには、時間がかかる。
 木を選び、削り、漆を重ね、紐を通し、持ち主の役に合わせて、幾度も調整する。
 古くなれば直す。欠ければ継ぐ。色が落ちれば塗り直す。

 イロハの手は、そう教えられてきた。

 だから、焼くという言葉は、どうしても終わりすぎている。

 救いを諦める言葉のように聞こえる。

 エンジュは、イロハの表情を読んだのだろう。

「焼くことは、捨てることではありません」

 静かに言った。

「役を終えた面を、役から解くことです」

 イロハは、何も言えなかった。

 エンジュは続ける。

「この国では、面は顔であり、役です。ならば、持ち主が死んだあとも、面には役が残ります。残ったままでは、死者は生前の役に呼ばれ続ける」

「呼ばれ続ける……」

「火事があれば、火留番として。祭礼があれば、神楽師として。家に困りごとがあれば、家長として。泣く者がいれば、母として。守ってほしい者がいれば、武士として」

 エンジュの声は、低く静かだった。

「死んでもなお、役が呼ばれるのです」

 サヨが、胸元に手を置いた。

 面のない胸元。

「死者は、それに応えるのですか」

「死者本人が応えるとは限りません」

 エンジュは答えた。

「多くの場合、応えるのは面です。面に残った役です。生者がその役を呼びすぎると、面だけが戻ろうとします」

 とん。

 低台の上の白面から、また足音がした。

 まるで、エンジュの言葉を肯定するように。

 イロハは、思わず身を乗り出した。

「でも、それなら」

 言いかけて、止まる。

 戻ろうとしているなら、戻してあげればいい。

 そう言いそうになった。

 その言葉が、喉元まで出てきた。

 けれど、エンジュの目がそれを止めた。

 責める目ではない。

 ただ、イロハが何を言おうとしたのか、すでにわかっている目だった。

「面師イロハ」

「……はい」

「あなたは、直したい人ですね」

 イロハは息を詰めた。

 その言葉は、先ほども聞いた。

 けれど、低台の上の《ヒドメ》を前にすると、意味が変わって聞こえた。

「壊れているなら」

 イロハは、少し強く答えた。

「欠けているなら、直したいと思います。戻せるものなら、戻したいです」

「壊れていなくても、直そうとする人です」

 エンジュは、同じ静けさで返した。

 イロハの指が、膝の上で握られる。

「それは、悪いことですか」

「悪くはありません」

「なら」

「危ういことです」

 その言葉は、黒い部屋の中へ落ちた。

 アヤメが、わずかに目を細める。

 セイランは筆を持っていない手で、仮記録帳の端を押さえた。記録したいのに、書く前に聞けと言われている。その葛藤が、顔に出ていた。

 サヨは、イロハとエンジュを交互に見ている。

 エンジュは、イロハを責めない。

 だから、逃げ道がない。

「直したいという気持ちは、生者の側のものです」

 エンジュは言った。

「それが、死者のためであるとは限りません」

「でも、面が鳴っています」

 イロハは、低台の上の白面を見る。

「この面は、まだ何かを伝えようとしているんじゃないんですか」

「伝えようとしているかもしれません」

「なら、聞くべきです」

「はい。聞くべきです」

 エンジュは頷いた。

「ですが、聞くことと戻すことは違います」

 イロハは黙る。

「あなたは今、聞く前に戻すことを考えました」

 図星だった。

 イロハは唇を噛む。

 エンジュの声は、変わらない。

「優しい手ほど、急ぎます。痛がっているように見えれば、すぐに塞ぎたくなる。欠けているように見えれば、すぐに埋めたくなる。鳴っていれば、すぐに応えたくなる」

 彼は、低台の白面へ視線を落とした。

「けれど、死者の面にそれをすると、役を引き戻すことがある」

「……引き戻す」

「はい」

 エンジュは、小刀へ手を伸ばした。

 抜くのではない。ただ鞘の上から指を置く。

「終わった役を呼び戻すことは、死者をもう一度働かせることです」

 イロハの胸が、きゅっと縮んだ。

 働かせる。

 その言葉はあまりにも現実的で、残酷だった。

 死者を美しく飾る言葉ではない。
 英霊として讃える言葉でもない。
 ただ、もう働かなくていい者を、また働かせる。

 それが、終わった役を戻すということ。

 サヨが、静かに口を開いた。

「生きている者が、死者に役を求めるのですね」

 エンジュはサヨを見た。

「そうです」

「それは、悪いことですか」

「悪いこととは言いません。生者は、死者を思うことで生きています。守ってくれた人を、守ってくれた役のまま覚えたい。導いてくれた人を、導き手のまま覚えたい。それは自然なことです」

「けれど」

「けれど、その思いが強すぎると、死者はいつまでも休めません」

 サヨは、面棚の白布を見た。

 そこに包まれている、数えきれないほどの終わった面たち。

「だから、ここでは送るのですね」

「はい」

 エンジュは頷いた。

「死者を忘れるためではありません。死者を役から自由にするためです」

 イロハは、膝の上の手を見つめた。

 自分の手。

 これまで、直すために使ってきた手。

 欠けた面を支え、白化面の月痕を読み、仮札を置き、役の入口を繋ぎ止めてきた手。

 その手が、ここでは危ういと言われている。

 直せるからこそ、直してはいけない時がある。

 その事実が、イロハの中でまだ形にならなかった。

「でも」

 イロハは、顔を上げる。

「もし、死者本人が戻りたいと思っていたら?」

 エンジュは、しばらく黙った。

 それから、静かに問うた。

「どうやって、それを確かめますか」

 イロハは答えられない。

「面が鳴るから?」

 エンジュの声は、少しだけ厳しくなる。

「遺族が願うから?」

 イロハは目を伏せる。

「あなたが、戻せると思うから?」

 その問いで、イロハの胸の奥が、深く痛んだ。

 誰が戻りたがっているのか。

 面か。
 死者か。
 遺族か。
 自分か。

 第6話でミツの面を前にした時の問いが、別の形で戻ってくる。

 私が置いた役は、本当にその人のものなのか。

 今度は。

 私が戻したい役は、本当に死者のものなのか。

 エンジュは、イロハの沈黙を急かさなかった。

 沈黙を急がせない人なのだ。

 しばらくして、彼は穏やかに言った。

「面師イロハ。あなたの手は、生者を救うためには必要です」

 イロハは顔を上げる。

「白化面を診たことも、仮置きをしたことも、無意味ではありません。あなたが繋いだから、舞えた者がいる。刀を抜けた者がいる。自分の一歩を知った方もいる」

 サヨが、わずかにイロハを見る。

 エンジュは続けた。

「ですが、死者の面に対しては、別の手つきが要ります」

「別の手つき」

「直す手ではなく、ほどく手です」

 その言葉に、イロハは息を呑んだ。

 ほどく。

 壊すのではない。
 捨てるのでもない。
 戻すのでもない。

 結ばれた役を、解く。

「冥祀僧は、面を壊すのですか」

 セイランが、思わず口を挟んだ。

 エンジュは首を横に振る。

「いいえ。壊しません。役を解きます。焼くのは、その後です」

「焼かない場合もあるのですか」

「あります」

「基準は」

 セイランが反射的に聞く。

 エンジュは少しだけ彼を見た。

「まず、聞きます」

 セイランは言葉を止めた。

 ヒヨリが袖の中で、紙の尾を小さく揺らす。

 また同じ答え。

 読む前に、聞く。

 分類する前に、聞く。

 記録する前に、聞く。

 この場所では、すべてがそれから始まる。

 サヨが、白い面を見つめた。

「この面の持ち主は、どのような方だったのですか」

 エンジュは、低台の横に置かれた薄い木札を手に取った。

 そこには簡潔に記されていた。

 ソウマ=カガリ。
 元・帝都火留番。
 火留職面《ヒドメ》。
 役終えの儀、未了。
 冥返り、あり。

「火を消す者ではなく、火を留める者でした」

 エンジュは言った。

「火をここから先へ通さない。家並みを守り、人を逃がし、火の境を作る役です」

 イロハは、第3話のハルマサを思い出した。

 ここから先へ、月を通さない。

 あの時、ハルマサは刀を抜いた。

 斬るためではなく、通さないために。

 この《ヒドメ》も同じだ。

 火を倒すためではなく、火をここから先へ通さないための面。

 そう思った瞬間、イロハの中で《ヒドメ》が生者の面として立ち上がりかけた。

 火の前に立つ背中。
 逃げる人々。
 燃える屋根。
 その前に踏み出す足音。

 とん。

 面が鳴る。

 イロハは、また手を伸ばしそうになった。

 エンジュが、静かに言う。

「今、その背中を美しいと思いましたね」

 イロハの手が止まる。

「はい」

 嘘はつけなかった。

「なら、なおさら気をつけてください」

 エンジュの声が、低くなる。

「美しい役ほど、生者は戻したがります」

 白い面は、低台の上で沈黙している。

 けれど、その沈黙の奥に、まだ足音がある。

 イロハは、自分が何を見ようとしていたのかに気づいた。

 火留番の誇り。
 守る背中。
 最後まで役を果たした者の美しさ。

 それを見てしまうと、戻したくなる。

 もう一度、その人を役の中に立たせたくなる。

 それは、遺族でなくても起こるのだ。

 面師である自分にも。

 サヨが、静かに言った。

「美しい役でも、終わらなければならないのですね」

 エンジュは頷く。

「はい」

 サヨは、少し悲しそうに白い面を見る。

「終わらせることは、冷たいことではないのですか」

「冷たく見えます」

 エンジュは答えた。

「ですから、冥祀僧は嫌われることがあります」

 その声には、かすかな苦みがあった。

 初めて、エンジュの中に隠されていた感情が見えた気がした。

「戻してほしいと泣く人に、戻してはいけないと言う。もう一度だけ声を聞きたいと願う人に、声を呼べば役が縛られると言う。面を焼くなと叫ぶ人の前で、火を入れる」

 彼は、冥導面《クラワタリ》へ視線を落とした。

「優しく見えない仕事です」

 イロハは、エンジュを見つめた。

 冷たい人だと思いかけていた。

 けれど違う。

 彼は、冷たくなければならない場所に立っているだけだ。

 生者の涙に流されれば、死者が休めないから。

 エンジュは顔を上げる。

「けれど、生きている者の涙で、死者の面を濡らしてはいけません」

 その言葉は、部屋の奥へ深く沈んだ。

 イロハは、白い面を見た。

 戻したい。

 その気持ちは、まだ消えない。

 でも、戻していいのかは、もうわからなかった。

 その時、外の方から足音が近づいてきた。

 冥祀社の者ではない。

 急ぐ足音。

 戸口の向こうで、若い女の声がした。

「エンジュ様」

 震える声だった。

「祖父の面を、今夜こそ戻していただけるのですか」

 イロハは顔を上げる。

 エンジュは、目を閉じるように一度だけ瞬きをした。

「遺族の方です」

 戸が開く。

 そこに立っていたのは、まだ若い娘だった。

 火留番の家の者らしく、袖口に小さな火留紋が縫われている。目は赤く、けれど泣き崩れてはいない。ずっと泣くのを我慢してきた人の顔だった。

 彼女は低台の白い面を見るなり、一歩踏み込んだ。

「お祖父様」

 その呼びかけに、面の内側から、かすかな音がした。

 とん。

 イロハの胸が痛む。

 エンジュは、静かにその娘を見た。

「ミオ=カガリさん」

 娘は、イロハたちには目もくれず、白い面だけを見ていた。

「まだ鳴っているんです」

 声が震える。

「やっぱり、お祖父様はまだ行きたがっているんです。火事場へ。まだ役が残っているんです」

 エンジュは答えない。

 ミオは、イロハへ目を向けた。

 面師だと気づいたのだろう。

 縋るような目だった。

「あなたが、面師イロハさんですか」

「はい」

「白化面を直した人でしょう。神楽師の舞も、武士の刀も、もう一度動かした人でしょう」

 イロハは、返事に詰まる。

 直したわけではない。

 完全に戻したわけでもない。

 でも、ミオにとっては同じなのだろう。

 失われた役を、もう一度動かした人。

「お願いします」

 ミオは、深く頭を下げた。

「祖父の面を、戻してください」

 その言葉に、イロハの心が大きく揺れた。

 戻してほしいと願う人がいる。

 面は鳴っている。

 役は、まだ何かを伝えようとしている。

 なら。

 なら、戻せるなら。

 イロハの手が、また動きかける。

 だが、その前に、エンジュの声が落ちた。

「その役は、もう終わっています」

 ミオの顔が、はっきりと歪んだ。

「終わっていません」

 静かな部屋の中で、初めて感情が強く響いた。

「終わっているなら、どうして鳴るんですか」

 エンジュは答えない。

 ミオは白い面を見つめる。

「祖父は、最後まで火消しでした。最後まで、火の中へ行ったんです。だから、まだ戻りたいんです」

 サヨが、白い面を見る。

 その瞳が、わずかに揺れた。

 イロハは、その変化に気づいた。

 サヨには、何かが見え始めている。

 けれど、この節ではまだ言葉にならない。

 ただ、冥祀社の静けさの中で、死者の役と生者の願いが、白い面の上に重なっていく。

 エンジュは、ミオへ向き直った。

「戻したいのは、誰ですか」

 ミオは眉を寄せる。

「祖父です」

「本当に、お祖父様ですか」

「何を言って」

「お祖父様が戻りたいのですか。それとも、あなたがもう一度、火留番だったお祖父様を見たいのですか」

 ミオの頬が、白くなった。

 その問いは、残酷だった。

 けれど、必要な問いでもあった。

 イロハは、何も言えなかった。

 その問いは、ミオだけに向けられたものではない。

 自分にも向けられている。

 戻したいのは、誰か。

 面か。
 死者か。
 遺族か。
 それとも、直せると信じたい自分か。

 低台の上で、《ヒドメ》が小さく鳴った。

 とん。

 その音は、さっきよりも遠かった。

 まるで、火事場から聞こえる足音のように。