EP 77

第8話 冥祀社の白い面

第三節 ― 火留職面《ヒドメ》

 ミオ=カガリの願いが落ちたあと、部屋の空気はしばらく動かなかった。

 戻してください。

 その言葉は、低台の上に置かれた白い面へ、細い糸のように絡みついていた。

 イロハは、その糸が見える気がした。

 遺族の願い。
 死者への敬慕。
 失いたくない記憶。
 そして、まだどこかで役が続いているのではないかという、痛いほど切実な希望。

 エンジュ=クラモリは、その願いをすぐには否定しなかった。

 ただ、低台の前へ静かに座り直し、白い面へ向かって一礼した。

「まず、この面を見ます」

 ミオが小さく頷く。

 イロハも、低台の前へ膝を進めた。

 目の前にあるのは、古い職面だった。

 火留職面《ヒドメ》。

 かつて帝都の火留番、ソウマ=カガリが使っていた面。

 本来なら深い煤朱と黒鉄の色を持っていたはずだった。火の前に立つ者の面らしく、朱は炎を、黒鉄は火を遮る壁を示す。額には火留番の役紋が刻まれ、頬から顎へかけては、火の流れを断つための細い線が走っている。

 だが今、その面は灰白だった。

 月に喰われた白ではない。

 ユラの舞面や、ハルマサの《アカツキノハ》に走っていた白化とは違う。あの白には、噛み跡のような冷たさがあった。役の入口を齧り取り、周囲の記憶まで薄める、月の歯の白。

 この面の白は、もっと乾いていた。

 燃え尽きたあとの灰。
 熱を終えた白。
 役を果たしきったあと、色だけが世界から剥がれたような白。

 右頬には、黒く焦げた跡がある。

 そこだけは、火がまだ過去を手放していないようだった。

 額の火留番の役紋は、かすれているが消えていない。内側には、小さな火除けの祈りが刻まれていた。

 火を恐れるな。
 火を侮るな。
 火をここから先へ通すな。

 イロハは、その文を指先ではなく目でなぞった。

 面の内側には、持ち主の指が長年触れていた跡がある。こめかみのあたり、面を着ける時に押さえる位置。鼻梁の裏、呼吸がかかる場所。面紐を引く時に擦れた小さな溝。

 この面は、飾られていた面ではない。

 何度も使われた面だ。

 火の前で、煙の中で、誰かの顔になり続けた面。

「火を消すための面ではないんですね」

 イロハは、ぽつりと言った。

 エンジュが静かに頷く。

「はい。火を留める面です」

「留める」

「火には勢いがあります。消すことだけを考えれば、人は火に呑まれる。火留番の役は、火を倒すことではありません。火が越えてはならない境を作ることです」

 その言葉に、イロハはハルマサの姿を思い出した。

 中庭で、鉄鉢の水面に映った満月を断った一閃。

 ここから先へ、月を通さない。

 あの時、ハルマサが見つけた役は、敵を斬ることではなかった。

 誰かの前に立ち、害を通さないこと。

 《ヒドメ》も同じだ。

 火を滅ぼすのではない。
 火の境に立ち、ここから先へ通さない。

 イロハの胸に、また「戻せるかもしれない」という思いが浮かんだ。

 こんなにもはっきりと役が残っている。
 祈りも、役紋も、指の跡も、焦げ跡もある。
 面は鳴っている。

 ならば、この面はまだ完全には終わっていないのではないか。

 イロハは、そっと面の内側へ視線を沈めた。

 いつものように、傷を見るために。

 役の入口を探すために。

 けれど、そこに見えたのは、火事場の赤ではなかった。

 炎の朱でも、焼け落ちる梁の黒でもない。

 白い煙だった。

 視界いっぱいに、白い煙が満ちている。

 音が遠い。

 誰かが叫んでいる。
 木が弾ける。
 瓦が落ちる。
 水を運ぶ声がする。

 けれど、イロハの意識が引かれたのは、火そのものではなかった。

 煙の奥に、子どもが一人立っている。

 年は、ミツより少し幼いくらいだろうか。

 顔ははっきり見えない。煙に巻かれ、涙と煤で汚れている。着物の袖を握りしめたまま、動けずにいる。

 泣いている。

 だが、泣き声は聞こえない。

 煙が声を奪っているのか、それともその子自身が、自分の声をどこかへ置いてきてしまったのか。

 子どもは、火の中にいるのに、火を見ていなかった。

 自分がどこへ帰ればいいのか、わからなくなっている。

 イロハの呼吸が浅くなる。

 面の奥へ、もう一歩踏み込めば、見える気がした。

 ソウマ=カガリがその子へ何と言ったのか。
 なぜ《ヒドメ》がまだ鳴るのか。
 何を戻せば、この面が静まるのか。

 イロハは、無意識に手を伸ばした。

 面の内側へ、意識ごと入ろうとする。

 その瞬間。

「深く読まないでください」

 エンジュの声が、鋭く落ちた。

 イロハの指が止まる。

 部屋の薄闇が戻ってきた。

 白い煙が消え、黒い低台と灰の皿、サヨの息を呑む気配、ミオの不安げな視線が戻る。

 イロハは、肩で息をしていた。

「なぜですか」

 思わず問い返す。

 少し強い声になった。

「見えかけていました。たぶん、この面が鳴る理由も」

「だからです」

 エンジュは静かに言った。

「死者の役に、生者の面師が入りすぎてはいけません」

「でも、読まなければわかりません」

「読みすぎれば、戻り道になります」

 イロハは言葉を失った。

 戻り道。

 その言葉が、いやに生々しかった。

 エンジュは《ヒドメ》から目を離さない。

「死者の面は、生者の面とは違います。持ち主の身体はもうありません。あなたが深く入りすぎれば、面に残った役はあなたの手を通って戻ろうとします」

「私の手を通って」

「はい」

 エンジュの声は、冷たくない。

 だが、容赦もなかった。

「あなたは面師です。役を見る力がある。欠けたものを繋ぐ手がある。だからこそ、終わった役にとっては、あなたがいちばん近い出口になる」

 イロハは自分の手を見た。

 さっきまで、《ヒドメ》へ伸ばしかけていた手。

 ユラの舞面に仮置きをした手。
 ハルマサの戦面に抜刀の入口を読んだ手。
 サヨの未在面の線を紙に引いた手。

 救うための手だと思っていた。

 だが、今は違う。

 この手は、死者の役を引き戻す出口になりうる。

 そう思った瞬間、指先が冷たくなった。

 ミオが震える声で言った。

「戻れるなら、戻してあげてもいいじゃないですか」

 イロハは顔を上げる。

 ミオは泣いていなかった。

 けれど、泣くよりも苦しそうな顔をしていた。

「祖父は、火の中に戻ったんです。逃げなかったんです。最後まで火留番だったんです。だったら、その役を戻してあげることが、供養ではないんですか」

 エンジュは、ミオを見た。

 その目には、同情があった。

 けれど、同意はなかった。

「火留番として戻せば、ソウマ殿はまた火の前に立つことになります」

「それが祖父の役です」

「生きていた時の役です」

「死んでも変わりません」

「変わらなければ、死者は休めません」

 ミオの唇が震えた。

 サヨは、二人のやり取りを聞きながら、《ヒドメ》を見つめていた。

 その瞳が、ゆっくりと細められる。

 彼女は何かを探している。

 イロハが傷や木目を見るように、サヨは役の輪郭を見ているのだろう。

 失われた役。
 忘れられた役。
 誰にも言われず、記録にも残らなかった役。

 サヨの中で、何かが動き始めている。

 イロハは、それを感じた。

 《ヒドメ》の内側から、また音がした。

 とん。

 今度は、火事場の床ではなかった。

 煙の中で、誰かが一歩こちらへ来る音。

 いや、違う。

 誰かをこちらへ呼ぶために、踏んだ音。

 サヨが、小さく息を吸った。

「この面は」

 その声に、全員が彼女を見る。

 サヨはまだ、言葉を選んでいる。

 自分が何を感じ取っているのか、慎重に確かめているようだった。

「火の方へ戻りたいのではないのかもしれません」

 ミオが眉を寄せる。

「どういう意味ですか」

 サヨは、すぐには答えなかった。

 ただ、《ヒドメ》の内側をじっと見る。

 イロハには白い煙と子どもが見えた。

 サヨには、きっとその奥にある役が見えている。

 エンジュは、サヨを止めなかった。

 むしろ、初めてほんの少しだけ身を引いた。

 死者の役に生者の面師が入りすぎてはいけない。

 けれど、サヨは面師ではない。

 彼女は、喰われた役を覚えている者。

 そして今、終わった役を見届けようとしている者。

 サヨは静かに言った。

「この白い煙の中に、子どもがいます」

 ミオの顔が変わる。

「子ども……?」

「その子は、自分の名前を言えません。どこの家の子なのかも、どちらへ逃げればよいのかも、わからなくなっています」

 イロハは息を呑んだ。

 自分が見たものと同じ。

 けれど、サヨの言葉はさらに奥へ進んでいく。

「ソウマ殿は、火を消しに戻ったのではありません」

 ミオが声を上げかける。

 だが、サヨの静かな声音がそれを止めた。

「火を留める役は、すでに果たしていました」

 サヨは、《ヒドメ》を見る。

「最後に戻ったのは、火のためではありません。その子を、帰すためです」

 部屋の中が静まり返った。

 黒い灯籠の火が、かすかに揺れる。

 サヨは、煙の奥にいる誰かの言葉を拾うように、ゆっくり続けた。

「“泣いている子”ではなく」

 ミオの瞳が揺れる。

「“逃げ遅れた子”でもなく」

 サヨの声は、ひどく優しかった。

「“帰る子”として、呼びに行ったのです」

 《ヒドメ》の内側で、かすかな音がした。

 とん。

 今度の音は、これまでよりも柔らかかった。

 イロハは、胸の奥が震えるのを感じた。

 火消しとして戻ったのではない。

 火留番としての役を続けたのでもない。

 最後の役は、子を帰すこと。

 その役は、火事場の中で誰にも見届けられなかった。

 だから、面は鳴っていた。

 火の方へ戻りたいからではない。

 最後に果たした役を、誰にも知られないまま終われなかったから。

 ミオは、呆然とサヨを見ていた。

「祖父が……そんなことを?」

 サヨは頷いた。

「わたしには、そう感じます」

「でも、誰もそんな話は」

「だから、残ったのだと思います」

 サヨの言葉は静かだった。

「誰も見届けなかった役は、終わりにくいのです」

 イロハは、その言葉を胸の中で繰り返した。

 誰も見届けなかった役は、終わりにくい。

 第7話で、鏡ノ客は言った。

 見届ける者がいれば、まだ名のない動きも失われずに済む。

 ならば、第8話では。

 見届けられなかった終わりが、終わりきれずに残る。

 エンジュは、静かに目を伏せた。

「……やはり、そうでしたか」

 イロハはエンジュを見る。

「知っていたんですか」

「推測はしていました」

「なら、なぜ」

「遺族が聞く前に、私が決めてはいけません」

 エンジュは答えた。

「死者の役を終わらせるには、生者がそれを聞く必要があります」

 ミオは、膝の上で手を握りしめていた。

「祖父は、火消しとして戻りたがっていたんじゃない」

 声が震える。

「その子を、帰したことを……誰かに知ってほしかったんですか」

 エンジュは、すぐには頷かなかった。

 代わりに、サヨが答えた。

「知ってほしかったというより」

 彼女は少し考える。

「その子が帰ったことを、誰かに言ってほしかったのかもしれません」

 ミオの目から、初めて涙がこぼれた。

「その子は、帰ったんですか」

 サヨは、《ヒドメ》の内側を見る。

 長い沈黙。

 そして、静かに頷いた。

「はい」

 ミオは、口元を押さえた。

 泣き声は出さなかった。

 けれど、その肩が大きく震えた。

 イロハは、白い面を見る。

 火留職面《ヒドメ》。

 それは、火をここから先へ通さない面だった。

 だが、最後にその持ち主が果たした役は、火を止めることではなかった。

 火の中で、自分を見失った子に、帰る役を返すこと。

 ならば。

 この面を火留番として戻すことは、間違いなのだ。

 戻せば、ソウマ=カガリはまた火の前へ立たされる。

 もう果たした役を、もう一度背負わされる。

 イロハは、ようやく手を引いた。

 触れて直すためではなく、見届けるために。

 エンジュが言った。

「面師イロハ」

「はい」

「これが、送る面です」

 その言葉は、静かだった。

 けれど、イロハの中で重く響いた。

 直すべき面ではない。

 戻すべき面でもない。

 送る面。

 イロハは、《ヒドメ》へ深く頭を下げた。

 白い面の内側から、最後にもう一度だけ足音がした。

 とん。

 それはもう、火事場へ戻る音ではなかった。

 誰かを家へ帰し終えた者が、ようやく舞台を降りる音だった。