EP 78

第8話 冥祀社の白い面

第四節 ― 遺族の願い

 それでも、ミオ=カガリは首を横に振った。

 涙を拭いもせず、ただ低台の上の《ヒドメ》を見つめている。

 サヨの言葉は届いていた。

 ソウマ=カガリが、最後に火を消しに戻ったのではないこと。
 煙の中で動けなくなった子を、「帰る子」として呼びに行ったこと。
 その子は、帰ったこと。

 それを聞いた時、ミオは確かに泣いた。

 けれど、泣いたからといって、すぐに手放せるわけではない。

 死者を思う心は、そんなに簡単にはほどけない。

「でも」

 ミオは、震える声で言った。

「祖父は、最後まで火消しでした」

 エンジュは黙っている。

 イロハも、何も言えない。

 ミオは、両手を膝の上で握りしめた。

「わたしは、祖父が火の前に立つところを見て育ちました。火事が起きれば、誰よりも先に走っていく人でした。煙の匂いがすると、食事の途中でも、眠っていても、すぐに立ち上がる人でした」

 彼女の声は、だんだん強くなっていく。

「近所の人たちは言いました。ソウマさんがいれば大丈夫だって。祖父の面が見えれば、みんな逃げられるって。子どもだったわたしも、そう思っていました」

 ミオは、《ヒドメ》を見た。

 灰白になった火留職面。

 かつては煤朱と黒鉄の色を持ち、火の境に立っていた面。

「その面が、夜に鳴るんです」

 ぽたり、と涙が落ちた。

「とん、って。何度も。まるで、また火事場へ向かおうとしているみたいに。白布で包んでも、冥箱に入れても、火の方角へ向こうとするんです」

 低台の上で、《ヒドメ》は沈黙している。

 だが、その沈黙の内側に、確かに足音がある。

 イロハにも、それがわかってしまう。

 鳴っている。
 まだ何かが残っている。
 なら、どうにかできるのではないか。

 その考えが、また胸の奥に浮かぶ。

「まだ、火事場へ行きたがっているんです」

 ミオはイロハを見た。

 縋るような目だった。

「なら、その役を戻してあげてください」

 イロハの指が動いた。

 ほんの少し。

 自分でも気づかないほど、小さく。

 しかしエンジュは、それを見逃さなかった。

「戻してはいけません」

 静かな声だった。

 怒鳴ったわけではない。

 けれど、その一言で、部屋の空気が冷えた。

 ミオの顔に、はっきりと怒りが浮かぶ。

「あなたは、いつもそうです」

 エンジュは、何も言わない。

「送ることしか考えていない。焼くことしか、終わらせることしか、言わない」

「終わらせるのも、冥祀僧の役です」

「祖父はまだ行きたがっているのに!」

 声が、ついに震えから叫びに変わった。

 黒い灯籠の火が、低く揺れる。

 池の蓋の向こうで、水が小さく鳴った。

 アヤメがわずかに身構える。

 サヨは、じっとミオを見ていた。

 怒りを責めるでもなく、慰めるでもなく。

 ただ、その怒りがどこから来ているのかを見つめている。

 ミオは続けた。

「祖父は、火を怖がる人ではありませんでした。火から逃げる人でもありませんでした。戻れるなら、戻してあげたいんです。だって、それが祖父の役だったから」

 イロハの胸が痛んだ。

 わかってしまう。

 ミオの願いが、痛いほどわかる。

 もし、自分がロウセツを失ったとして。

 もし、師匠の面だけが残り、まだ何かを鳴らしていたとして。

 自分は本当に、送ることを選べるだろうか。

 戻せるなら、戻したいと思わないだろうか。

 もう一度、あの軽口を聞きたいと思わないだろうか。

 面の中に残った役を、師匠そのものだと信じたくならないだろうか。

 イロハは、拳を握った。

 エンジュの声が落ちる。

「行きたがっているのは、お祖父様でしょうか」

 ミオが睨むように顔を上げる。

「何を」

「それとも」

 エンジュは、静かに続けた。

「あなたがもう一度、火消しだったお祖父様を見たいのでしょうか」

 部屋の中が、凍ったように静まった。

 ミオの唇が震える。

 その問いは残酷だった。

 残酷で、あまりにもまっすぐだった。

 イロハは、思わずエンジュを見た。

 言い方があるのではないか。

 もっと優しくできるのではないか。

 そう思いかけた。

 けれど、エンジュの表情を見て、その言葉を飲み込んだ。

 彼も傷ついていないわけではなかった。

 ただ、その傷を顔に出さないだけだ。

 遺族の願いに頷けば、ミオは一瞬救われるかもしれない。
 イロハが《ヒドメ》に仮置きをすれば、火留番の役は一度だけ戻るかもしれない。
 ミオは、祖父がまだそこにいると思えるかもしれない。

 でも、それは本当にソウマ=カガリを救うことなのか。

 それとも、死者をもう一度、火の前へ立たせることなのか。

 ミオは、低く言った。

「見たいに決まっています」

 誰も動かなかった。

「見たいに決まっているじゃありませんか」

 涙が、また落ちる。

「祖父の背中を。祖父の面を。あの人が火の前に立ってくれるだけで、みんなが安心したんです。わたしだって、あの背中があれば大丈夫だと思えた。もう一度見たいと思って、何が悪いんですか」

 エンジュは目を伏せる。

「悪くはありません」

「なら」

「悪くはありませんが、それはあなたの願いです」

 ミオの顔が歪む。

「死者の願いとは、限りません」

 その言葉に、ミオは息を呑んだ。

 イロハも、胸の奥を押さえられたような気がした。

 死者の願いとは限らない。

 それは、ずっとイロハが避けていた問いだった。

 面が鳴る。
 役が残る。
 だから戻したい。

 でも、それが誰の願いなのか。

 死者のものなのか。
 遺族のものなのか。
 面に残った役そのものの反射なのか。
 あるいは、直せると信じたい面師のものなのか。

 サヨは、ずっと黙って《ヒドメ》を見ていた。

 その沈黙は、白影宮の空白とは違う。

 耳を澄ませている沈黙だった。

 彼女は、誰かの役を勝手に決めようとしていない。
 ミオの願いにも、エンジュの判断にも、すぐには乗らない。

 ただ、面の奥に残った最後のものを見ようとしている。

 とん。

 《ヒドメ》が鳴った。

 ミオが、はっと面を見る。

「ほら」

 彼女は震える声で言う。

「鳴っています」

 とん。

 今度の音は、少しだけ遠い。

 イロハには、それが火事場の床を踏む音に聞こえた。

 焦げた梁。
 白い煙。
 逃げる人々。
 その中へ戻る火留番の足音。

 だが、サヨは違うものを見ているようだった。

 彼女の目は、《ヒドメ》の焦げ跡ではなく、その奥の何かへ向いている。

 やがて、サヨは静かに言った。

「ミオさん」

 ミオは涙の残る顔を向ける。

「あなたは、お祖父様を火消しとして覚えているのですね」

「火留番です」

 ミオは、少し強く訂正した。

「火を消すだけの人ではありません。火を、ここから先へ通さない人でした」

 サヨは頷いた。

「はい。そうですね」

 その受け止め方があまりに穏やかだったので、ミオの怒りが少しだけ揺らいだ。

 サヨは続ける。

「では、その役を終えたお祖父様を、あなたは見たことがありますか」

 ミオは答えられなかった。

「役を果たしたあと、面を外して、もう火の前へ立たなくてよいお祖父様を」

 ミオの瞳が揺れる。

 サヨの声は、責めていない。

 ただ、問いを置いている。

「あなたが覚えているのは、火の前に立つお祖父様です。けれど、その方は、火の前に立たない時も、お祖父様だったのではありませんか」

 ミオの手が、膝の上でほどけかける。

 けれど、すぐにまた握られる。

「でも、祖父は火留番でした」

「はい」

「その役を誇りにしていました」

「はい」

「だから」

「だからこそ」

 サヨは、ゆっくり言った。

「その役を、終わらせてあげなければならないのではないでしょうか」

 ミオは、声を失った。

 イロハは、サヨを見つめた。

 第6話で、サヨは灰面長屋の水面に映らない顔を見た。

 第7話で、サヨは面がなくても一歩を出せることを知った。

 そして今。

 サヨは、終わった役を終わらせることの意味を見ようとしている。

 それは、失われた役を覚えているだけではできない。

 終わったものを、終わったものとして扱う強さがなければできない。

 ミオは、かすれた声で言った。

「終わらせたら」

 その目から、また涙が落ちる。

「祖父が、本当にいなくなってしまう気がします」

 その言葉で、部屋の空気が変わった。

 怒りの奥にあったものが、やっと顔を出した。

 恐れ。

 送れば、いなくなる。

 役をほどけば、思い出まで失うのではないか。

 火留番でなくなった祖父を、自分はどう覚えればいいのかわからない。

 ミオは、それを怖がっていた。

 エンジュは、ようやく少しだけ表情を緩めた。

「送ることは、忘れることではありません」

 静かに言う。

「役を終わらせても、ソウマ殿があなたのお祖父様であったことは消えません」

「でも」

「火留番としてだけ覚えていれば、あなたはお祖父様を、いつまでも火の前に立たせ続けます」

 ミオの肩が震える。

 エンジュは、少し間を置いて続けた。

「生きている者の涙で、死者の面を濡らしてはいけません」

 その言葉に、ミオは顔を伏せた。

 涙が、畳に落ちる。

 今度は怒りの涙ではなかった。

 耐えていたものが、ほどけ始める涙だった。

 イロハは、何もできずに見ていた。

 いや、何もしないでいることを、初めて選んでいた。

 仮札を置かない。
 月痕を探さない。
 傷を塞がない。
 役を戻そうとしない。

 ただ、ミオが泣くのを待つ。

 それもまた、面に向き合う手つきなのだと、少しだけわかり始めていた。

 やがて、ミオは顔を上げた。

 目は赤い。

 それでも、低台の《ヒドメ》を見る目は、先ほどとは違っていた。

「祖父は」

 声は小さかった。

「本当に、もう火事場へ戻らなくていいんですか」

 誰もすぐには答えなかった。

 エンジュも、イロハも。

 その問いに答えるのは、自分たちではないとわかっていた。

 サヨが、《ヒドメ》へ目を向ける。

 白い煙の奥。

 火の境。

 そして、帰る子を呼んだ最後の役。

 サヨは、静かに言った。

「はい」

 ミオの唇が震える。

「お祖父様は、もう火の中へ戻らなくてよいのだと思います」

 とん。

 《ヒドメ》が鳴った。

 しかし今度の音は、火事場へ向かう足音ではなかった。

 戸口へ向かう音。

 誰かを家へ帰したあと、役を終えて、自分もまた帰ろうとする音。

 ミオは、その音を聞いて、両手で顔を覆った。

 声を殺して泣いた。

 エンジュは、そっと目を伏せる。

 アヤメは、刀から手を離した。

 セイランは筆を持たないまま、その場を見届けていた。

 イロハは、低台の上の《ヒドメ》を見る。

 戻すのではない。

 この面には、戻すべき火留番の役があるのではない。

 見届けられなかった最後の役があり、それを送る必要がある。

 面が鳴っていたのは、火事場へ行きたいからではなかった。

 終わったことを、誰にも言ってもらえなかったからだ。

 サヨは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

「終わった役も、呼ばれたがっているのですね」

 イロハは、その横顔を見た。

「戻るためではなく」

 サヨは続ける。

「終わるために」

 その言葉が、冥祀社の静かな部屋に深く沈んだ。

 エンジュは、ようやく冥鈴に手を伸ばした。

 今度は、止めなかった。

「では」

 彼は言った。

「役解きの支度をします」

 ミオは涙を拭い、震えながら頷いた。

 イロハは、低台の前に座り直す。

 直すためではない。

 戻すためでもない。

 ほどくために。

 自分の手が、そんなことにも使えるのか。

 まだわからない。

 けれど、今夜はそれを学ばなければならない。

 《ヒドメ》は、灰白の顔で静かに横たわっていた。

 その足音は、もう先ほどほど強くない。

 ただ、儀式を待つように、微かに、低く、鳴っていた。