役解きの支度が始まる前、サヨはもう一度、《ヒドメ》の前へ座った。
黒い低台の上で、火留職面《ヒドメ》は静かに横たわっている。
灰白の面。
右頬の焦げ跡。
額に残った火留番の役紋。
内側に刻まれた、火除けの祈り。
そこには、確かに火の記憶があった。
けれど、サヨが見ていたのは火ではない。
イロハは、面の傷を見る。
木目の歪み、漆の浮き、月痕の入り方、役の入口が欠けた場所。
けれどサヨは、そういう見方をしない。
彼女は面の内側に残った役を、まるで自分の記憶ではない記憶を思い出すように、静かに感じ取っていた。
誰にも書かれなかったもの。
誰にも記録されなかったもの。
誰かが忘れてしまったのではなく、初めから誰にも見届けられなかったもの。
サヨは、それを拾う。
白影宮で、皆が忘れた香役を覚えていたように。
灰面長屋で、映らない子の輪郭を見たように。
ウズメの舞殿で、まだ名にならない一歩を見届けたように。
今度は、終わった役の最後を見ようとしていた。
ミオは、まだ涙の残る顔で祖父の面を見つめている。
エンジュは何も言わない。
イロハも、手を出さない。
それが、今この場で必要なことなのだと、少しずつわかってきていた。
サヨが、静かに口を開いた。
「この方は、最後の日、火を消しに戻ったのではありません」
ミオの顔が強張った。
「祖父は火消しです」
短く、鋭い声だった。
火消し。
正しくは火留番。
ミオにとって、その違いは大事なはずだった。けれど今は、言葉を整える余裕もないのだろう。
祖父は火の前に立つ人だった。
それだけは譲れない。
そう言っているようだった。
サヨは、反論しなかった。
「はい」
ただ、受け止めた。
「けれど、最後に踏んだ役は、それだけではありません」
ミオは唇を噛む。
「それだけって……」
「火を留める役は、たしかにありました。火をここから先へ通さない役。皆を逃がすために、境を作る役」
サヨは、《ヒドメ》の右頬の焦げ跡を見た。
「けれど、最後にこの面の奥に残っているのは、火の境ではありません」
部屋の空気が、さらに深く静まった。
サヨの声は、白い煙の中から届くようだった。
「煙があります」
ミオの目が揺れる。
「白い煙です。炎の赤よりも、ずっと白い。息ができなくて、前も後ろもわからなくなる煙」
イロハは、息を止めた。
自分が見たものと同じだった。
けれど、サヨの言葉には、自分では届かなかった奥行きがある。
「その中に、子どもがいます」
ミオの手が膝の上で震えた。
「その子は、自分の名前を言えませんでした」
サヨは、面を見つめたまま続けた。
「火と煙の中で、自分が誰の子なのかも、どちらへ逃げればいいのかも、わからなくなっていました。呼ばれても、返事ができない。泣いても、声が煙に呑まれる」
黒い灯籠の火が、低く揺れた。
まるで、過去の火事場の炎が、ここではもう燃え上がれないように。
「その子は、逃げ遅れた子でした」
サヨは少しだけ目を伏せる。
「けれど、ソウマ殿は、その子をそう呼ばなかったのだと思います」
ミオの喉が、小さく鳴った。
「では、何と」
サヨは、《ヒドメ》の内側に耳を澄ませるように、ゆっくりと言った。
「帰る子、と」
その言葉が落ちた瞬間、《ヒドメ》の内側で、かすかな足音がした。
とん。
今までよりも近い音。
火事場へ向かう音ではない。
誰かの前に立つ音。
サヨは、まるでその場にいたかのように続けた。
「お前は、まだ帰る子だ」
ミオの瞳が大きく開く。
「こっちへ来い」
サヨの声は、低く、静かで、それでいて確かな温度を帯びていた。
それはサヨ自身の声でありながら、遠い火事場で子どもへ向けられた言葉でもあった。
ミオは息を呑む。
イロハの胸にも、その声が深く入ってきた。
逃げ遅れた子。
そう呼べば、その子は火事場の中に取り残された者になる。
泣いている子。
そう呼べば、その子は恐怖の中に閉じ込められる。
けれど、帰る子。
そう呼べば、その子はまだ帰れる者になる。
ソウマ=カガリは、最後にその役を与えたのだ。
火を消すためではない。
火を留めるためだけでもない。
子どもを、帰る者として呼ぶために。
サヨは言った。
「その方の最後の役は、火を消すことではありません」
ミオの頬を、涙が伝う。
「子を、帰すことです」
部屋の中で、誰も動かなかった。
エンジュは目を閉じている。
アヤメは、いつの間にか刀から完全に手を離していた。
セイランは筆を持たないまま、ただ息を殺して聞いている。袖の中のヒヨリも、紙の尾すら出さない。
イロハは、《ヒドメ》を見た。
面の灰白が、少しだけ柔らかく見えた。
燃え尽きた白ではなく、役を終えたあとに残る白。
ミオが、震える声で尋ねる。
「その子は……帰れたのですか」
サヨは、すぐには答えなかった。
長い沈黙。
まるで、白い煙の奥で、誰かの足音を最後まで聞いているようだった。
やがて、サヨは小さく頷いた。
「はい」
ミオの肩が大きく震える。
「帰りました」
サヨの声は、祈りに似ていた。
「その子は、もう火の中にはいません」
ミオは、両手で顔を覆った。
今度は声を押し殺さなかった。
小さく、苦しそうに、けれど確かに泣いた。
祖父を失った涙。
祖父を火留番としてしか見られなかった涙。
そして、祖父が最後に何をしたのかを、ようやく知った涙。
サヨは、《ヒドメ》へ向き直る。
「だから、この面が戻りたがっているのは、火事場ではありません」
その言葉は、静かだった。
けれど、そこに迷いはなかった。
「誰にも知られなかった最後の役を、見送ってほしいのです」
とん。
《ヒドメ》が鳴った。
今度の音は、部屋のどこにも跳ね返らなかった。
黒い低台に落ち、灰の皿に吸い込まれ、静かに沈んでいく。
エンジュが目を開けた。
「サヨ様」
彼は、初めてその名を敬意を込めて呼んだ。
白影宮の皇女としてではない。
役名保留候補としてでもない。
終わった役を見届けた者として。
「よく、聞いてくださいました」
サヨは首を横に振る。
「わたしは、聞いただけです」
「聞くことが、必要でした」
エンジュは言う。
「冥祀社では、終わった役を送ります。けれど、何が終わったのかを聞き違えれば、送ることもできません」
イロハは、胸の奥が重くなるのを感じた。
自分は、《ヒドメ》を火留番の面として見ていた。
火をここから先へ通さない役。
そこまでは正しかった。
でも、最後の役を見ていなかった。
火の中へ戻る面だと思った。
まだ火留番として働きたがっているのだと思った。
もし、自分が先に手を出していたら。
もし、仮置きで火留番の役を戻していたら。
この面は、もう一度火事場へ行かされていたかもしれない。
ソウマ=カガリの最後の役を見送るどころか、彼を火の前へ縛り直していたかもしれない。
イロハは、両手を膝の上で握った。
「私は」
声が少し震えた。
「戻すところでした」
エンジュは、イロハを見た。
責める目ではなかった。
「はい」
短い肯定だった。
それが、かえって痛い。
イロハは唇を噛む。
「鳴っていたから。役が残っていると思ったから。戻せるなら、そのほうがいいと思って」
「それは、自然なことです」
「でも、間違っていました」
「間違いとまでは言いません」
エンジュは静かに言った。
「ただ、まだ聞き足りなかった」
聞き足りなかった。
その言葉が、イロハの中へ沈む。
見えているつもりだった。
読めているつもりだった。
面師として、面の傷や役の入口を読むことには慣れてきたと思っていた。
けれど、読めるからこそ、聞かずに決めてしまうことがある。
直したい気持ちが先に立ち、面が何を終えたがっているのかを待てなくなる。
サヨは、イロハの隣で静かに言った。
「わたしも、まだわかりません」
イロハは顔を上げる。
「戻すべきものと、見送るべきものの違いを、いつもわかるわけではありません。でも」
サヨは、《ヒドメ》を見る。
「終わった役も、勝手に戻されてはいけないのですね」
イロハは、深く頷いた。
第7話で、サヨの面には足音がいると思った。
一歩が失われないようにする器。
けれど今、その考えにもうひとつの線が加わる。
面は、一歩を残すためだけのものではない。
終わった一歩を、終わったものとして休ませるための器でもある。
ミオが、涙を拭いながら顔を上げた。
「祖父は、もう火の中へ戻らなくていいんですね」
サヨは頷く。
「はい」
ミオは《ヒドメ》を見る。
今度は、火留番の面としてだけではなく、祖父の最後の役を宿した面として。
「でも、忘れたくありません」
「忘れなくてよいのです」
エンジュが答えた。
「役を解くことは、忘れることではありません」
ミオは、エンジュを見る。
「焼くのですか」
エンジュは少し沈黙した。
「それは、役解きの後に判断します」
「焼かないことも、あるんですか」
「あります」
ミオの目がわずかに揺れる。
希望ではなく、恐れでもなく、まだ名のない感情。
エンジュは続けた。
「焼く面。納める面。灰を返す面。冥祀社では、面ごとに送る形を決めます」
「祖父の面は」
「今は、まだ決めません」
エンジュは低台の《ヒドメ》へ視線を落とした。
「まず、役をほどきます」
イロハは、その言葉を聞いた。
役をほどく。
第8話で、自分が学ばなければならないこと。
仮置きではない。
仮読みでもない。
まだない役を読むことでもない。
終わった役を、面からほどくこと。
エンジュは、冥導面《クラワタリ》の白布を解き始めた。
薄墨色の面が、灯籠の火を受けて静かに光る。
イロハは、手を膝の上に置いたまま、ゆっくり息を吸った。
この手は、直すためだけにあるのではない。
まだ、そう言い切ることはできない。
けれど、少なくとも今夜は。
戻さないことを、学ばなければならない。
《ヒドメ》の内側から、もう一度、小さな音がした。
とん。
それは、誰かを呼ぶ音ではなくなっていた。
見送られる準備をする音だった。