EP 80

第8話 冥祀社の白い面

第六節 ― 映すだけの白い半面

 冥導面《クラワタリ》の白布がほどかれた時、冥祀社の灯が一度だけ低く揺れた。

 風はない。

 戸は閉じられている。
 池には蓋がされている。
 水盆も、鏡も、銀の皿も、この部屋には置かれていない。

 ミナ=クラの冥祀社では、映るものを遠ざける。

 死者の役が、月に呼ばれないように。
 終わった面が、もう一度こちらを向かないように。
 生者の未練が、死者の顔を勝手に形作らないように。

 だから、黒い低台のそばにあるのは、水ではなく灰だった。

 焼面用の灰を薄く敷いた、黒い皿。

 灰は光を返さない。

 何も映さず、何も呼ばず、終わったものを静かに沈めるための器。

 そのはずだった。

 エンジュが《クラワタリ》を手に取った瞬間、灰の表面が、ふ、と白く揺れた。

 イロハは息を呑む。

 灰が波打ったのではない。

 灰の上に、何かが浮いた。

 白い半面。

 目穴はない。

 けれど、見ている。

 笑ってはいない。

 けれど、そこにいるだけで、こちら側の形がすべて映されてしまうような、白い面。

 鏡ノ客。

 イロハの背筋に冷たいものが走った。

 第4話、陰陽寮の鏡水に現れた白い半面。
 第5話、定役面《コトサダメ》の裏に映った白い客。
 第7話、ウズメの舞殿の誰も座っていない白い席にいた観客。

 今度は、水でも、鏡でも、面の裏でもない。

 灰の上にいる。

 映るはずのないものに、映っている。

 アヤメが即座に刀へ手をかけた。

「下がってください」

 低い声。

 サヨの前へ、半歩出る。

 セイランも反射的に筆を構えた。だが、その筆先は迷っている。記録してよいのか、してはならないのか、この場では判断がつかない。

 袖の中のヒヨリは、紙の耳だけを出して、すぐに引っ込めた。

 白い半面は、誰にも襲いかからない。

 ただ、灰の表面に浮かんでいる。

 けれど、それだけで部屋の空気が変わっていた。

 ミオは、祖父の面を抱きしめたい衝動を抑えるように、両手を胸元で握っている。

 サヨは、灰の上の白い半面から目を逸らさなかった。

 エンジュだけが、動じていなかった。

 彼は《クラワタリ》を膝の上に置いたまま、灰皿の白い半面を静かに見下ろした。

「見ない方がよいものです」

 イロハは、思わず問い返した。

「知っているんですか」

「噂は」

 エンジュの声は低い。

「冥祀社にも、時折、映るものがあります。水を隠し、鏡を伏せ、月を避けても、なお映ってしまうものが」

 白い半面は何も言わない。

 沈黙のまま、灰の上で薄く浮いている。

 イロハは一歩、前へ出た。

 アヤメが止める。

「イロハ殿」

「大丈夫です」

「大丈夫ではありません」

 アヤメの声には、強い警戒があった。

 だが、イロハは白い半面から目を離せなかった。

「あなたは、何を見せに来たんですか」

 問いは、灰皿へ落ちた。

 しばらく、何も起きなかった。

 黒い灯籠の炎が、低く揺れる。
 冥箱の黒紐が、かすかに震える。
 《ヒドメ》の灰白の頬に、灯が薄く差す。

 やがて、灰の上の白い半面が、声を持った。

「見せているのではありません」

 誰の声でもなかった。

 男のようでも、女のようでもない。
 老いているようでも、幼いようでもない。
 近くから聞こえるのに、遠い。

「映っているだけです」

 イロハの胸が、ぎゅっと縮む。

 映っているだけ。

 それは、何度も感じてきたこの存在の本質だった。

 助けない。
 止めない。
 裁かない。
 弔わない。

 ただ、映す。

 こちらが隠したものも、見ないふりをしたものも、決めつけたものも、未在のものも、終わったはずのものも。

 灰の上に、ふっと別の影が現れた。

 白い煙。

 火事場。

 イロハが見た、あの子ども。

 煙の中で、自分の名前も、家も、帰る道も見失っている子。

 そこへ踏み込む、火留番の足。

 とん。

 《ヒドメ》の内側の足音と、灰の上の影が重なった。

 ミオが息を呑む。

「お祖父様……」

 その声に、灰の影が揺れた。

 火留番の背中が、少しだけ形を持つ。

 煤朱と黒鉄の面。
 煙の中で低く構えた身体。
 子どもへ伸ばされる手。

 ミオの目に涙が浮かぶ。

 見たい。

 もう一度見たい。

 その願いが、灰の上にそのまま映ってしまう。

 白い半面は何も言わない。

 ただ映す。

 今度は、イロハの手が映った。

 《ヒドメ》へ伸びかけた手。

 直したい手。
 戻したい手。
 鳴っているなら応えたい手。
 欠けているなら塞ぎたい手。

 その手が、火事場の背中へ向かって伸びる。

 イロハは、自分の指を強く握った。

「やめてください」

 声が掠れた。

 白い半面は答えない。

 灰は、さらに別のものを映す。

 サヨの横顔。

 面のない皇女。
 白影宮で、皆が忘れた役を覚えていた少女。
 灰面長屋で、映らない顔を見た者。
 舞殿で、まだ名にならない一歩を踏んだ者。

 そして今、《ヒドメ》の最後の役を見送ろうとしている者。

 サヨの姿は、灰の上で静かに揺れていた。

 彼女の前に、白い煙の中の子どもが立つ。

 サヨはその子に手を伸ばさない。

 呼び戻さない。

 ただ、帰ったことを覚えている。

 灰の中の子どもは、ゆっくりと背を向けた。

 家へ帰るように。

 ミオの涙が、音もなく落ちた。

 エンジュが低く言った。

「あれは弔う神ではありません」

 その声は、イロハへ向けられていた。

 同時に、ミオへも、サヨへも、セイランへも向けられていた。

「映すだけのものです」

 灰の上の白い半面は、わずかにこちらを向いたように見えた。

 エンジュは続ける。

「映されたものを、どう扱うかは、生きている者の役です。あれは送らない。あれは休ませない。あれは泣く者の手を取らない」

 イロハは、白い半面を睨むように見た。

「じゃあ、何のために出てくるんですか」

「ため、というほど優しくはないでしょう」

 エンジュは静かに答える。

「映るべきものがあるから、映る。ただそれだけです」

 白い半面は、灰の上で淡く光った。

 その光は月に似ていた。

 けれど、月そのものではない。

 これまでイロハたちが「名を喰う月」と呼んできたものの、さらに奥にある、反射の構造そのもの。

 隠された役。
 喰われたことにされた役。
 終わったのに見届けられなかった役。
 まだない役。

 それらが、映る場所を見つけてしまう。

 水でも。
 刃でも。
 面の裏でも。
 舞台の客席でも。
 そして、灰でも。

 セイランが、震える声で言った。

「灰は、反射しないはずです」

 白い半面は、そちらを向かない。

 けれど、答えだけが落ちた。

「反射しないものにも、残るものはあります」

 セイランの筆先が止まる。

「灰は、燃えたものを忘れません」

 その言葉に、エンジュの眉がわずかに動いた。

 イロハは灰皿を見つめた。

 灰は映さない。

 けれど、燃えたものを覚えている。

 だから、そこに映ったのか。

 水が月を映すようにではなく。

 灰が、終わったものを覚えているから。

 白い半面の上に、また影が浮かんだ。

 今度は、ミオだった。

 幼い頃のミオ。

 火事の夜ではない。

 夕暮れの路地で、火留番の面を外した祖父の背中を追っている。

 ソウマ=カガリは火の前にいない。

 火留番の面も着けていない。

 ただ、孫娘の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いている。

 ミオの顔がくしゃりと歪んだ。

「そんなの」

 声が震える。

「そんなの、忘れていました」

 灰の上で、幼いミオが祖父の袖を掴む。

 ソウマは振り返る。

 顔ははっきりしない。

 けれど、面を着けていない。

 火留番ではない。

 ただ、祖父だった。

 ミオは、口元を押さえた。

「火の前に立つ祖父ばかり、思い出していました」

 エンジュは何も言わない。

 白い半面も、何も言わない。

 ただ、映す。

 イロハは、その光景を見て胸が痛くなった。

 人は、死者を役で覚える。

 強かった人。
 守ってくれた人。
 正しかった人。
 働いた人。
 火の前に立った人。

 でも、その役だけを戻そうとすれば、死者はいつまでもその場所に縛られる。

 ミオに必要だったのは、火留番だった祖父を戻すことではなかった。

 火留番ではない祖父も、失われていないと知ることだった。

 灰の中で、幼いミオと祖父の影が薄れていく。

 白い半面が、ふたたび正面を向いた。

 そして言った。

「戻したいのは、誰ですか」

 その問いは、誰か一人に向けられたものではなかった。

 ミオへ。
 イロハへ。
 サヨへ。
 エンジュへ。

 部屋にいる全員へ。

 ミオは、涙で濡れた顔を上げた。

「わたしです」

 その声は、小さかった。

 けれど、はっきりしていた。

「わたしが、戻したかった」

 《ヒドメ》の内側で、かすかに足音がする。

 とん。

 ミオは続けた。

「祖父ではなくて。火留番の祖父を見れば、まだ大丈夫だと思いたかったんです」

 エンジュは静かに聞いている。

「でも」

 ミオは、低台の面を見る。

「祖父は、もう火の中へ戻らなくていい」

 その言葉を聞いた瞬間、《ヒドメ》の足音が少し遠くなった。

 まるで、長い廊下の向こうへ歩いていくように。

 イロハは息を呑む。

 役がほどけ始めている。

 まだ儀式は始まっていない。

 けれど、ミオが願いの正体を認めたことで、面に絡んでいた糸がひとつ外れたのだ。

 白い半面は、今度はイロハを映した。

 幼いイロハ。

 灰面長屋。
 割れた生面。
 息ができるか、と問うロウセツ。
 未完成の白い面。

 《ナギノオモテ》の箱。

 イロハは、胸元を押さえた。

「今、それは関係ないでしょう」

 声が思ったより強く出た。

 白い半面は答えない。

 ただ映す。

 救われた子ども。

 作り変えられたかもしれない子ども。

 役を与えられた者。

 役を置かれた者。

 イロハは、灰の上の自分から目を逸らしたくなった。

 しかし、逸らさなかった。

 エンジュの言葉が蘇る。

 あなたは、直したい人ですね。

 壊れていなくても、直そうとする人です。

 戻したいのは、誰か。

 今の問いは、《ヒドメ》だけのものではない。

 自分の《ナギノオモテ》にも向いている。

 ロウセツは、自分を救った。

 それは本当だ。

 でも、あの面は何を戻したのか。
 何を作ったのか。
 何を終わらせ、何を始めたのか。

 イロハは、答えられなかった。

 サヨが、そっとイロハを見た。

 何も言わない。

 問いから守ろうとはしない。

 ただ、見届けている。

 それだけで、イロハは少しだけ息ができた。

 白い半面は、最後に《ヒドメ》を映した。

 火事場ではない。

 白い煙も、燃える梁も、火留番の背中もない。

 ただ、ひとつの戸口があった。

 その向こうに、子どもが入っていく。

 帰る子。

 戸口が閉じる。

 その前で、火留番は立ち止まる。

 もう火の中へ戻らない。

 もう誰も呼ばない。

 ただ、戸口が閉まるのを見届ける。

 それが終わると、彼はゆっくりと面を外そうとする。

 その瞬間、灰の映像は途切れた。

 白い半面だけが残る。

 エンジュが、静かに冥導面《クラワタリ》を手に取った。

「もう十分です」

 白い半面は、こちらを向いたまま動かない。

 エンジュは低く言う。

「ここから先は、冥祀社の役です」

 その声には、はっきりとした線があった。

 映す者へ向けた、境界線。

「あれは弔わない」

 エンジュはイロハへ言った。

「だから、弔う者が必要なのです」

 白い半面は、何も返さない。

 怒りもしない。
 笑いもしない。
 退くことも、抗うこともしない。

 ただ、灰の表面に浮かんだまま、見ている。

 エンジュは《クラワタリ》を顔へ近づけた。

 薄墨色の冥導面が、灯籠の火を受けて静かに光る。

「ミオ=カガリ」

 エンジュが呼ぶ。

 ミオは涙を拭い、顔を上げた。

「はい」

「あなたは、ソウマ=カガリ殿を火留番として戻すことを望みますか」

 ミオは、《ヒドメ》を見た。

 長い沈黙。

 そして、首を横に振った。

「いいえ」

 声は震えていた。

 けれど、確かだった。

「祖父を、火の前へ戻しません」

 《ヒドメ》の内側から、小さく音がした。

 とん。

 それはもう、急ぐ足音ではなかった。

 遠ざかる足音だった。

 エンジュは頷いた。

「では、役解きを始めます」

 白い半面は、灰の上で少しだけ薄くなった。

 消えたわけではない。

 ただ、映すべきものがひとつ、役を終えたのだ。

 イロハは、その白い半面を見つめた。

 あれは救わない。

 あれは送らない。

 あれは、ただ映す。

 ならば、自分は。

 面師として、自分は何をするのか。

 直すのか。
 待つのか。
 送るのか。
 彫らずにいるのか。

 その答えは、まだ出ない。

 けれど、少なくとも今夜、《ヒドメ》を戻してはいけないことだけは、もうわかっていた。