EP 81

第8話 冥祀社の白い面

第七節 ― 戻すか、送るか

 役解きが始まる。

 そう聞いた瞬間、イロハの胸の奥で、何かが強く脈打った。

 黒い低台の上には、火留職面《ヒドメ》がある。

 灰白の面。
 右頬の焦げ跡。
 額に残る火留番の役紋。
 そして、内側にまだかすかに残る足音。

 とん。

 遠ざかっている。

 けれど、まだ消えてはいない。

 その音を聞いた時、イロハの手は、また動きかけた。

 一瞬だけなら。

 そう思ってしまった。

 一瞬だけなら、《ヒドメ》を火留番の役へ戻せるかもしれない。

 ソウマ=カガリが火の前に立った姿を、ミオに見せられるかもしれない。
 火留番としての誇りを、最後にもう一度だけ形にできるかもしれない。
 面が鳴る理由を、目に見える形で示せるかもしれない。

 戻せば、ミオは納得するかもしれない。

 祖父は確かに火留番だった。
 最後まで役を果たした。
 だから安心して送れる。

 そう思えるかもしれない。

 イロハは、膝の上の仮札へ指を伸ばした。

 薄い札。

 役を仮に置くための札。

 第1話でユラの舞の入口を、一瞬だけ繋いだ札。
 第3話でハルマサの抜刀の入口を探った札。
 傷ついた役を、完全ではなくても、一時的に支えるためのもの。

 指先が札に触れる。

 その瞬間、イロハの脳裏に、灰面長屋の水桶が浮かんだ。

 ミツの顔が映らなかった水面。

 借り物の子ども面を抱えた小さな手。

 面がないと、店の人が目を合わせてくれないんだ。
 でも、借り物の面をつけると、今度は誰の子かわからないって言われる。

 イロハはあの時、ミツに役を置きかけた。

 戻すべき役がない子に、何かを与えようとした。

 救いたかった。

 でも、それは押しつけになったかもしれない。

 次に、ウズメの舞殿の稽古板が浮かぶ。

 サヨの一歩。

 舞ではない。
 神楽でもない。
 ただ、前へ出る一歩。

 その一歩から、イロハはサヨの未在面の最初の線を見た。

 面は、本人が踏み出した一歩に追いつくものでなければならない。

 先に役を与えるものではない。

 そして今。

 目の前にあるのは、終わった役だった。

 もう持ち主の身体はない。

 もう火の前へ戻らなくていい。

 サヨが見届けた最後の役は、火を消すことではなく、子を帰すことだった。

 その役は、果たされている。

 それなのに、自分はまた、火留番の役を戻そうとしている。

 イロハの指が、仮札の上で止まった。

 息が苦しくなる。

 戻せるかもしれない。

 でも、戻してはいけないのかもしれない。

 その境目が、あまりにも細かった。

「面師イロハ」

 エンジュの声がした。

 イロハは、仮札に触れたまま顔を上げた。

 エンジュは責めていない。

 ただ、見ていた。

 イロハの手を。
 迷いを。
 直したい衝動を。

「あなたの手は、優しい」

 静かな言葉だった。

 イロハは、何も言えなかった。

「けれど」

 エンジュは続ける。

「優しい手ほど、死者を引き留めることがあります」

 その言葉に、イロハの指が震えた。

 優しい手。

 そう呼ばれたのに、褒められた気がしなかった。

 むしろ、怖かった。

 優しさで、死者を引き留める。

 救いたいという気持ちで、終わった役をもう一度働かせる。

 それは、悪意よりもずっと見分けにくい。

「私は」

 イロハの声は、少し掠れた。

「戻したかったんだと思います」

 誰も、すぐには答えなかった。

 イロハは、低台の《ヒドメ》を見る。

「ミオさんのために、とか。面が鳴っているから、とか。そういう理由をつけて。でも、本当は……戻せる自分でいたかったのかもしれません」

 サヨが、静かにイロハを見る。

 ミオも、涙の跡が残る顔で彼女を見ていた。

「壊れたものを直せる。欠けた役を繋げる。失われた入口を見つけられる。そう思っていたかった」

 イロハは、仮札から手を離した。

「でも、それだけでは駄目なんですね」

 エンジュは頷いた。

「はい」

 短い肯定。

 けれど、今のイロハには、それで十分だった。

 優しく慰められたら、また迷ったかもしれない。

 ここで必要なのは、慰めではなかった。

 線を引くことだった。

 イロハは、仮札をしまった。

 その動作を見て、ミオが小さく息を呑む。

 けれど、彼女はもう「戻してください」とは言わなかった。

 代わりに、《ヒドメ》を見つめ、震える声で言う。

「では、祖父は……このまま消えるのですか」

「消すのではありません」

 エンジュが答えた。

「ほどきます」

「ほどく?」

「火留番としての役を、面から解きます。ソウマ=カガリ殿を、火の前に立ち続ける役から休ませるのです」

 ミオの目に、また涙が浮かんだ。

「それは、祖父が火留番だったことを、なくすのとは違うんですね」

「違います」

 エンジュの声は、今までより少し柔らかかった。

「火留番だったことは消えません。火を留めたことも、子を帰したことも、消えません。ただ、その役を今も続けよと呼ぶ声を、ここで終わらせます」

 ミオは、両手を膝の上で握りしめ、ゆっくり頷いた。

「……お願いします」

 エンジュは深く礼をした。

 それは遺族に対する礼であり、死者に対する礼でもあった。

「承りました」

 イロハは、小さく息を吸った。

「じゃあ、私は何をすればいいんですか」

「見ていてください」

 エンジュは言った。

「それだけですか」

「まずは」

 イロハは戸惑う。

 面師として呼ばれたのではないのか。

 何かを手伝うのではないのか。

 そう思ったが、エンジュは続けた。

「直す手を止めることも、面師の仕事です」

 イロハは、胸を突かれたように黙った。

 エンジュは冥導面《クラワタリ》を手に取る。

 薄墨色の面。

 川を渡るような銀線が、灯籠の低い火を受けて静かに光る。

 彼はそれを顔へ当てた。

 面紐を結ぶ。

 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 冷たくなったのではない。

 遠くなった。

 生者の息が一歩退き、終わった役の声を聞くための場所が開いたようだった。

 エンジュ=クラモリは、冥祀僧から、冥導の役へ入った。

 彼は黒い皿の灰を指でならす。

 灰の表面には、まだ白い半面の名残がかすかに浮かんでいた。

 鏡ノ客。

 エンジュは、それに向かって短く言った。

「ここから先は、送る者の場です」

 白い半面は答えない。

 ただ、灰の上で少し薄くなる。

 消えはしない。

 けれど、邪魔もしない。

 映すだけのものは、送る者の役を奪わない。

 エンジュは、灰の皿を《ヒドメ》の前へ置いた。

 次に、小刀を抜く。

 刃は人を斬るためのものではなかった。

 死者の面紐をほどくための小刀。

 鋭いが、冷たい光はない。むしろ灯籠の火を吸って、鈍く沈んでいる。

 エンジュは、低く唱えた。

「火を恐れるな」

 《ヒドメ》の内側で、かすかな音がする。

 とん。

「火を侮るな」

 とん。

「火をここから先へ通すな」

 その三つ目の言葉で、《ヒドメ》の額の役紋が薄く光った。

 ミオが唇を噛む。

 イロハも息を止める。

 火留番の祈り。

 ソウマ=カガリが何度も面の内側で聞いた言葉。

 エンジュは、その祈りを否定しなかった。

 消すのではない。

 まず、認める。

 確かにあった役として。

「ソウマ=カガリ」

 エンジュの声が低く響く。

「あなたは火を留めた」

 黒い灯籠の火が揺れる。

「あなたは境を作った」

 灰皿の表面に、火事場の影がかすかに浮かぶ。

「あなたは人を逃がした」

 ミオの涙が落ちる。

「そして最後に、帰る子を呼んだ」

 その言葉で、《ヒドメ》の内側が柔らかく鳴った。

 とん。

 今度の音は、火の中へ踏み込むものではなかった。

 帰る道を示す足音だった。

 エンジュは、小刀を《ヒドメ》の面紐に近づける。

 切るのではない。

 結び目に刃先を添え、ゆっくりと緩める。

「火留番の役を、ここに納める」

 面紐が、少しほどけた。

 イロハの胸の奥で、何かが震えた。

 面紐をほどく。

 ただそれだけの動作なのに、役がゆっくり面から離れていくのがわかる。

 それは壊すことではなかった。

 捨てることでもなかった。

 役を、役として認めたうえで、もう続けなくてよいと告げること。

 エンジュは、次に灰皿へ指を差し入れた。

 灰の上に、細い線を描く。

 火の線ではない。

 境の線。

 ここから先へ、火を通さない線。

 しかし、その線はすぐに指で崩された。

 イロハは、はっとする。

 境を作り、そして崩す。

 火留番の役を示し、それを終える。

 エンジュは言った。

「境は果たされた」

 灰が静かに沈む。

「子は帰った」

 ミオが声を殺して泣く。

「火は、もうあなたを呼ばない」

 その言葉の瞬間、《ヒドメ》の右頬に残っていた焦げ跡が、ほんの少しだけ薄くなったように見えた。

 完全に消えたわけではない。

 消えてはいけないのだろう。

 それは、役があった証だから。

 でも、焦げ跡の熱だけが静まった。

 イロハは、涙が出そうになった。

 直していない。

 色を戻していない。

 傷を塞いでいない。

 それなのに、面が少し楽になったように見えた。

 エンジュは、ミオへ目を向ける。

「ミオ=カガリ」

「はい」

 涙で濡れた声。

「あなたは、ソウマ=カガリ殿を火留番として呼び戻しませんか」

 ミオは、《ヒドメ》を見る。

 長い沈黙。

 そして、震えながら答えた。

「呼び戻しません」

 《ヒドメ》が、小さく鳴る。

 とん。

 エンジュは続ける。

「では、何として覚えますか」

 ミオは、言葉を探した。

 火留番として。

 そう言いかけて、止まる。

 祖父として。

 それだけでも足りない。

 彼女は泣きながら、やっと言った。

「火を留めて、子を帰した人として」

 サヨが、静かに目を伏せた。

 イロハの胸にも、その言葉が沈んだ。

 火を留めて、子を帰した人。

 それは、火留番の役だけではない。

 ソウマ=カガリの最後の姿を含んだ言葉だった。

 エンジュは頷く。

「それでよいと思います」

 そして、面紐をもう一段ほどいた。

 《ヒドメ》の内側から、足音が遠ざかる。

 とん。

 とん。

 それは、火事場へ急ぐ音ではない。

 長い役目を終え、家へ帰る音。

 イロハは、膝の上で自分の手を握っていた。

「何もしないんじゃないんですね」

 小さく呟く。

 エンジュは、面を見たまま答えた。

「はい」

「直さないだけで」

「はい」

「ちゃんと、することはあるんですね」

 エンジュは、わずかに頷いた。

「あります」

 イロハは、胸の奥で何かが少しだけほどけるのを感じた。

 直さないことは、諦めではない。

 戻さないことは、見捨てることではない。

 送るという仕事がある。

 役をほどくという手つきがある。

 自分は、それを知らなかった。

 エンジュは《クラワタリ》の奥で、静かに言った。

「面師イロハ。あなたがこれから彫ろうとしている面にも、同じことが言えます」

 イロハの心臓が跳ねた。

 サヨが、わずかに顔を上げる。

「まだ彫っていない面にも、終わりがあるのですか」

 イロハが問う。

「あります」

 エンジュは答えた。

「面は役を始める器であり、残す器であり、いずれ終える器でもあります。終わりを考えずに彫られた面は、持ち主を役へ閉じ込めることがあります」

 イロハは、息を呑んだ。

 サヨの未在面。

 まだない皇女の役を彫る面。

 それを作るなら。

 サヨが立つためだけではなく、サヨがその役を選び直せる余白。
 そして、いつかその役を脱ぐこともできる余白。

 そこまで考えなければならないのか。

 イロハは、サヨを見た。

 サヨは《ヒドメ》を見つめている。

 その目は悲しげだったが、弱くはなかった。

「役は、始まるだけではないのですね」

 サヨが言った。

「はい」

 エンジュが答える。

「終わることも、役の一部です」

 灰皿の上の白い半面は、ほとんど消えかけていた。

 映すべき問いを投げ終えたのだろう。

 けれど最後に、その白い輪郭がイロハの方へわずかに向いた。

 声はしなかった。

 それでも、問いだけが残る。

 戻したいのは、誰ですか。

 イロハは、目を逸らさなかった。

 答えはまだ出ない。

 《ナギノオモテ》についても。
 サヨの未在面についても。
 自分の手についても。

 でも、今この面は戻さない。

 それだけは、選べた。

 エンジュは役解きの最後に、冥鈴へ手をかけた。

 音の鳴らない鈴。

 それを、そっと揺らす。

 音はしなかった。

 けれど、部屋の中にあった足音が、すうっと遠のいていくのがわかった。

 とん。

 最後の一音。

 そして、沈黙。

 《ヒドメ》は、黒い低台の上で静かに眠っていた。

 もう、火の方角を向いてはいなかった。