EP 82

第8話 冥祀社の白い面

第八節 ― 役解きの儀

 夜半、冥祀社の奥にある送り庭へ、黒い台が運び出された。

 庭と呼ばれてはいるが、花はない。

 白砂もない。

 あるのは、灰を混ぜた黒土と、低い石灯籠と、面を焼いたあとの小さな灰壺だけだった。

 空には月があった。

 けれど、送り庭には月を映す水がない。水鉢も、鏡も、磨かれた金具も伏せられている。月はただ空にあり、地上のどこにも降りてこない。

 ここでは、死者の役を映さない。

 ここでは、死者の役を呼び戻さない。

 ただ、送る。

 黒い台の上に、火留職面《ヒドメ》が置かれた。

 灰白の面は、昼間よりもずっと静かに見えた。右頬の焦げ跡も、額の火留番の役紋も、消えたわけではない。だが、そこに残っていた熱だけが、少しずつ遠のいている。

 イロハは、白布を持って台のそばに座った。

 白布は、傷を隠すためではない。

 面の割れや古い焦げを支え、役をほどく間に形が崩れないよう添えるためのものだった。

 エンジュは冥導面《クラワタリ》を着けていた。

 薄墨色の面の奥から聞こえる声は、昼間の彼よりもさらに遠かった。冷たいのではない。生者の側から、少しだけ退いている声だった。

 ミオ=カガリは、黒い台の正面に座っている。

 泣き疲れた顔をしていたが、逃げようとはしなかった。両手を膝の上に置き、祖父の面を見つめている。

 サヨは、ミオの少し後ろに座った。

 皇女としてではない。
 役名を保留された者としてでもない。
 ただ、最後の役を見届ける者として。

 アヤメは、その背後に控えている。刀には手をかけていない。今夜の敵は、斬れるものではなかった。

 セイランは少し離れた場所で、記録帳を閉じていた。筆も置いている。

 記録する前に、見届ける。

 それがこの場の作法だと、彼も理解していた。

 エンジュが、冥鈴を手に取る。

 それは、ウズメの舞殿の鈴とは違っていた。

 高く鳴らない。

 人を呼び集める音でも、神を迎える音でもない。

 振られると、低く、短く、土の中へ沈むような音がした。

 ――こん。

 音というより、終わりの合図だった。

 エンジュが言った。

「ソウマ=カガリ」

 黒い庭に、その名が静かに置かれる。

「火留番として火の境に立ち、火をここから先へ通さなかった者」

 《ヒドメ》の額の役紋が、かすかに灯を返した。

 イロハは白布をそっと添える。

 戻すためではない。

 面が最後の役をほどかれる間、壊れてしまわないように。

「あなたは、火を恐れなかった」

 こん。

「あなたは、火を侮らなかった」

 こん。

「あなたは、火をここから先へ通さなかった」

 冥鈴の音が、黒土へ沈む。

 そのたびに、《ヒドメ》の内側から、ごく小さな足音が返った。

 とん。

 まだいる。

 まだ、完全には離れていない。

 イロハは、胸が締めつけられるのを感じた。

 手が、いつもの仮札を探しそうになる。

 だが、今夜置くのは、役を戻す札ではない。

 エンジュから渡された小さな灰色の札。

 名は、まだない。

 冥祀社ではただ、ほどき札と呼ぶという。

 イロハは、その札を《ヒドメ》の内側へそっと置いた。

 仮置きではない。

 仮解き。

 失われた役をつなぐためではなく、終わった役が面から離れる道を、一時的に開くための札。

 置いた瞬間、イロハの指先に火の熱ではなく、白い煙の冷たさが触れた。

 視界の奥に、またあの子どもが立つ。

 煙の中で、自分の名も、帰る家も、逃げる道も見失った子。

 だが今、その子は泣いていなかった。

 遠くに戸口が見える。

 その向こうに、誰かの家の灯がある。

 サヨが、静かに口を開いた。

「あなたは、火を消した人でした」

 ミオの肩が震える。

 サヨは続けた。

「火を留めた人でした」

 《ヒドメ》の内側で、足音がひとつ鳴る。

 とん。

「けれど最後には、帰る子を呼んだ人でした」

 イロハの視界の中で、煙の奥から低い声が聞こえた気がした。

 お前は、まだ帰る子だ。

 こっちへ来い。

 その声に、子どもが顔を上げる。

 サヨは、目を閉じずに言葉を続けた。

「その子は、帰りました」

 ミオが、両手で口元を押さえた。

「あなたが呼んだから、帰りました」

 冥鈴が低く鳴る。

 こん。

 《ヒドメ》の内側の足音が、遠ざかる。

 とん。

 とん。

 火事場へ向かう音ではない。

 役を終えた者が、火の前から離れる音。

 サヨの声が、夜の庭に澄んで響いた。

「だから、もう火の中へ戻らなくてよいのです」

 その瞬間、《ヒドメ》の右頬に残っていた焦げ跡から、ほんのわずかに黒い灰が落ちた。

 傷が消えたのではない。

 ただ、熱だけが抜けた。

 イロハは、白布でその頬を支えた。直さない。拭わない。消そうとしない。ただ、面がその形のまま、役を終えられるように支えた。

 エンジュが小刀を取り出す。

 面紐の結び目へ刃先を添え、ゆっくりとほどいていく。

「火留の役、ここに納む」

 結び目が、ひとつ緩む。

「境の役、ここに納む」

 もうひとつ緩む。

「帰す役、ここに見届ける」

 最後の結び目がほどけた時、《ヒドメ》の内側から、ふっと白い煙が抜けたように見えた。

 実際に煙が出たわけではない。

 けれど、その場にいた全員が、何かが離れていくのを感じた。

 ミオが、涙のまま言った。

「お祖父様」

 エンジュは、止めなかった。

 今の呼びかけは、火留番を戻す声ではなかった。

 ただ、見送る声だった。

 ミオは、震えながら続けた。

「火の中へ、もう戻らないでください」

 《ヒドメ》の足音が、遠くで一度鳴った。

 とん。

「帰る子を、帰してくれて……ありがとうございました」

 それが最後だった。

 足音は、それきり聞こえなくなった。

 黒い庭に、深い沈黙が落ちる。

 ウズメの舞殿で聞いた、始まりの沈黙とは違う。

 これは、終わりがきちんと終わったあとの沈黙だった。

 サヨは、ゆっくり息を吐いた。

 イロハは《ヒドメ》から手を離す。

 面は、そこにあった。

 灰白のまま。
 焦げ跡も、役紋も残したまま。
 けれど、もう火の方角を向いてはいなかった。

 エンジュは冥鈴を最後に一度だけ鳴らした。

 こん。

 その音が沈みきってから、彼は告げた。

「役解き、了」

 ミオは深く頭を下げた。

 声は出なかった。

 だが、その姿はもう、祖父を火事場へ引き戻そうとする遺族のものではなかった。

 役を終えた人を、ようやく見送った者の姿だった。

 イロハは、自分の手を見る。

 何も直していない。

 色も戻していない。
 焦げ跡も消していない。
 火留番の役を仮置きもしていない。

 それでも、面は救われたように見えた。

 いや。

 救われた、という言い方すら、少し違うのかもしれない。

 面は、解かれたのだ。

 戻すのではなく。

 直すのでもなく。

 終わるべきところへ、ようやく届いた。

 サヨが、小さく言った。

「役は、終わっても消えないのですね」

 エンジュは《クラワタリ》の奥で頷いた。

「はい。終わった役は、消えるのではありません。呼び戻されなくなるだけです」

 その言葉は、イロハの胸に深く残った。

 サヨの未在面。

 まだ作られていない面。

 その面にも、いつか始まりだけでなく、終わりを許す余白が必要なのだ。

 イロハは、黒い台の上で静かに眠る《ヒドメ》へ頭を下げた。

「戻そうとして、ごめんなさい」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 ソウマ=カガリへか。
 《ヒドメ》へか。
 ミオへか。
 それとも、いつか自分が作るかもしれないサヨの面へか。

 ただ、その言葉を言わなければならない気がした。

 夜の送り庭に、もう足音はなかった。

 けれど、静けさの奥で、誰かがようやく帰り着いたような気配だけが、長く残っていた。