EP 83

第8話 冥祀社の白い面

第九節 ― 白面は焼かれない

 役解きが終わっても、すぐに火は入れられなかった。

 送り庭の奥には、面を焼くための小さな炉がある。

 大きな火ではない。

 轟々と燃え上がる火でも、面を罰するための火でもない。役を終えた面を灰へ返すための、低く、静かな火だ。

 黒い炉口の前には、灰を受ける小壺が置かれていた。

 その隣には、白い面灰袋。

 焼かれた面の灰を納めるための袋だ。

 エンジュは冥導面《クラワタリ》を外さないまま、《ヒドメ》を見ていた。

 イロハもまた、黒い台の上の白面から目を離せなかった。

 さきほどまで聞こえていた足音は、もうない。

 とん、と火の中へ戻ろうとする音も。
 とん、と誰かを呼びにいく音も。
 とん、と役を終えきれずに残る音も。

 すべて、沈黙の奥へ帰っていた。

 それでも、《ヒドメ》は空っぽには見えなかった。

 灰白の面には、右頬の焦げ跡が残っている。額には火留番の役紋が残っている。内側には、持ち主の指が触れ続けた跡も、火除けの祈りも残っている。

 役はほどけた。

 けれど、何もかも消えたわけではない。

 イロハは、そこに違和感を覚えた。

 焼けば、静かになる。

 面としての形は終わる。
 火留番としても、祖父としても、もう誰にも使われない。
 灰になれば、二度と火事場へ戻ることはない。

 それは正しい。

 正しいはずだった。

 けれど。

「……この面は」

 イロハは、思わず口を開いた。

 エンジュがこちらを見る。

「焼くんですか」

 ミオが、息を詰めた。

 彼女はもう「焼かないで」と叫ばなかった。

 けれど、目は《ヒドメ》から離れない。

 祖父を火事場へ戻したいわけではない。
 でも、面が灰になることを、すぐに受け入れられるわけでもない。

 その狭間に立っている目だった。

 エンジュは、すぐには答えなかった。

 冥祀僧は、黒い台の前に膝を折る。

 《ヒドメ》の額、頬、面紐の跡、内側の祈りを順に見た。

 死者の役をほどいた者の目で。

 そして、面師とは違う手つきで、白い面の輪郭へ指を添えた。

 イロハは、その手元を見つめる。

 エンジュの手は、直す手ではない。

 欠けを埋めるわけでも、漆を重ねるわけでも、役を戻すわけでもない。

 ただ、残っているものと、もう離れたものを分けている。

「通常なら」

 エンジュは静かに言った。

「役解きを終えた面は、焼きます」

 ミオの肩が震える。

「役の名残が残りすぎている面は、形を残すと、また呼ばれます。遺族が呼ぶこともある。土地が呼ぶこともある。火や水や舞台が、その面を覚えてしまうこともある」

 イロハは頷いた。

 それは、少しわかる気がした。

 面は、ただの物ではない。

 誰かが着け、誰かが見て、誰かが呼んだ時点で、世界の中に役として残る。

 形があれば、呼ばれる。

 役が終わっても、面があれば、また誰かがその役へ縋るかもしれない。

「だから、焼くのですね」

「はい」

 エンジュは答えた。

「多くの場合は」

 その言葉に、イロハは顔を上げた。

 多くの場合。

 つまり、すべてではない。

 エンジュは《ヒドメ》の内側を見た。

「この面は、もう火留番として戻ろうとしていません」

 ミオが、小さく息を吸う。

「火の方角を向いていない。面紐も鳴らない。役紋も、持ち主を呼んでいない」

 エンジュは、指先で焦げ跡のそばに触れた。

「戻る役は、ほどけました」

 イロハは静かに言った。

「でも、残っているものがあります」

 エンジュは頷く。

「はい」

 イロハは《ヒドメ》を見つめた。

「火留番の役ではなくて」

 言葉を探す。

「火を留めたこと。帰る子を呼んだこと。その子が帰ったこと」

 サヨが、そっと顔を上げた。

 イロハの言葉の続きを、彼女が受け取る。

「誰にも知られなかった最後の役が、ようやく見届けられたこと」

 黒い庭に、静かな沈黙が落ちる。

 エンジュは、冥導面《クラワタリ》の奥で目を伏せた。

「これは」

 ゆっくりと言う。

「焼く面ではありません」

 ミオの唇が震えた。

 イロハも、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 エンジュは続ける。

「納める面です」

 その言葉は、夜の送り庭に深く沈んだ。

 焼かない。

 戻さない。

 飾らない。

 ただ、納める。

 イロハは、初めてその違いをはっきり感じた。

 面を残すことが、必ずしも役を戻すことではない。
 面を焼かないことが、必ずしも未練を残すことではない。
 正しく役をほどいたあとなら、面は死者を縛る器ではなく、見届けられた記憶を納める器になる。

 ミオは、声を震わせた。

「納める……」

「はい」

 エンジュは頷いた。

「火留番の職面としてではありません」

 ミオは目を伏せる。

「火消しの武勇を称える面としてでもありません」

 その言葉に、ミオの涙がまた落ちた。

 けれど、今度は痛みに抗う涙ではなかった。

 少しずつ、祖父を火の前から離していく涙だった。

 エンジュは、《ヒドメ》へ向かって低く告げた。

「帰る子を呼んだ者の面として、冥祀社の記憶棚に納めます」

 ミオは両手で顔を覆った。

 その肩が震える。

「祖父は……覚えてもらえるんですか」

「はい」

 エンジュの声は静かだった。

「火の前へ戻すためではなく、もう戻らなくてよい者として」

 ミオは泣いた。

 戻してほしい涙ではなかった。

 祖父を火事場へ引き戻す涙でもなかった。

 ようやく送れる涙だった。

 イロハは、その涙を見ていた。

 何もしないことが、これほど難しいとは思わなかった。

 直さないこと。
 戻さないこと。
 焼かないこと。
 けれど、放っておかないこと。

 面を扱う仕事の中に、こんな手つきがあるのだと、今夜ようやく知った。

 エンジュは冥祀社の奥から、小さな冥箱を持ってこさせた。

 面箱とは少し違う。

 黒漆ではなく、薄墨色の木で作られた箱だった。蓋には火留番の紋ではなく、細い帰路紋が刻まれている。

 迷った者が、家へ戻る道を示す小さな文様。

 サヨはそれを見て、静かに言った。

「帰る子の道ですね」

「はい」

 エンジュは答えた。

「この面には、その紋がふさわしい」

 イロハは白布を整えた。

 役解きの間、《ヒドメ》を支えていた白布だ。

 焦げ跡を隠さないように。
 役紋を誇示しすぎないように。
 内側の祈りが潰れないように。

 慎重に包む。

 その手は、修理の手つきとは違っていた。

 けれど、いい加減な手つきでもない。

 面を終わりへ運ぶための手。

 イロハは、自分の手が少しだけ変わった気がした。

 ミオが、そっと近づいた。

「触れても、いいですか」

 エンジュは頷いた。

「今なら」

 ミオは、白布の上から《ヒドメ》へ指先を触れた。

 ほんの少しだけ。

「お祖父様」

 声が揺れる。

「火を留めてくれて、ありがとうございました」

 白い面は鳴らない。

「帰る子を、呼んでくれて、ありがとうございました」

 もう、足音はしない。

 だからこそ、ミオは泣いた。

 イロハには、その沈黙が救いのように思えた。

 エンジュが冥箱を開く。

 《ヒドメ》は、白布に包まれたまま、その中へ納められた。

 蓋はすぐには閉じられない。

 エンジュは、木札を一枚取り出す。

 そこへ筆で、ゆっくり書いた。

 ソウマ=カガリ。
 火留職面《ヒドメ》。
 火を留めし者。
 帰る子を呼びし者。
 役解き了。
 記憶棚納め。

 イロハは、その文字を見つめた。

 正式な職面としてではない。

 火留番の武勇を称える記録でもない。

 でも、そこに確かに残った。

 最後の役が、ただの未練でも、怪異でも、白化でもなく、ひとつの見届けられた記憶として。

 セイランが、閉じていた記録帳をそっと開いた。

 エンジュは何も言わなかった。

 セイランは、低い声で確認する。

「これは、記録してもよいものですか」

 エンジュは少しだけ考えた。

「正式記録ではなく、冥祀記録としてなら」

「読まれるためではなく」

 セイランは言った。

「残すために」

 エンジュは頷いた。

「はい」

 セイランは筆を取った。

 その筆先は、以前のように急いでいなかった。

 数値でも、方位でも、判定でもなく、見届けたものを残すための筆だった。

 サヨは、冥箱に納められた《ヒドメ》を見ている。

「終わった役は、消えない」

 彼女は小さく呟いた。

「けれど、呼び戻さなくてもよい形で、残せるのですね」

「そうです」

 エンジュが言った。

「面は、役を始める器でもあり、役を終える器でもあります。そして時には、終わった役を静かに納める器にもなる」

 イロハは、その言葉を胸に刻んだ。

 第7話で、面は一歩を失わせないための器だと思った。

 でも、それだけでは足りない。

 面は、役を始めるだけではない。
 面は、役を固定するだけでもない。
 面は、終わった役を、もう働かせずに残すための器にもなれる。

 直すことだけが、面師の仕事ではない。

 役を戻すことだけが、救いではない。

 面が抱えている役を、正しく終わらせることもまた、面を扱う者の仕事なのだ。

 イロハは、深く息を吸った。

 そして、冥箱に納められた《ヒドメ》へ、もう一度頭を下げる。

「ありがとうございました」

 ミオが、泣きながら微笑んだ。

「祖父にですか」

 イロハは少し考えた。

「はい」

 それから、正直に言い直す。

「それと、この面に」

 ミオは、また泣いた。

 けれど今度は、少しだけ笑っていた。

 エンジュは冥箱の蓋を閉じた。

 かたり、と小さな音がした。

 それは終わりの音だった。

 けれど、消失の音ではなかった。

 戻る役はほどけた。
 火事場へ向かう足音は消えた。
 けれど、帰る子を呼んだ者の面は、ここに残る。

 送り庭の奥、黒い灯籠の火が低く揺れる。

 その光の中で、白い面はもう見えない。

 けれどイロハには、不思議と寂しさだけではなかった。

 面は、あるべき場所へ納まった。

 そう感じた。

 その感覚は、今までイロハが知っていた「修復の完了」とはまったく違う。

 でも、確かにひとつの完成だった。