EP 84

第8話 冥祀社の白い面

終節 ― 焼け残った木目

 夜明け前の冥祀社は、火を終えたあとの匂いがした。

 何かが燃えたわけではない。

 《ヒドメ》は焼かれず、冥祀社の記憶棚へ納められた。火留番の職面としてではなく、武勇を称える面としてでもなく、帰る子を呼んだ者の面として。

 それでも送り庭には、火を使わずに終わったものの気配が残っていた。

 黒い灯籠の火は、もうほとんど芯のように細い。
 空の月は薄く、東の空だけが灰色にほどけ始めている。
 池の蓋には夜露が降りていたが、どこにも月は映っていなかった。

 イロハは、しばらく黒い台の前から動けなかった。

 《ヒドメ》はもうない。

 けれど、その静けさがまだそこにある。

 面箱の中で足音はしない。
 火の方角へ向こうとする気配もない。
 戻してほしいと訴えるような、あの重い音も、もう消えていた。

 終わったのだ。

 戻されたのではなく。
 焼かれたのでもなく。
 正しく、終わった。

 イロハは膝の上に置いた白布を見下ろした。

 役解きの間、《ヒドメ》を支えていた布だ。焦げ跡を隠さず、役紋を潰さず、面がほどけていくあいだ形を保つために添えていたもの。

 その白布に、薄い跡が残っていた。

 最初、灰がついたのかと思った。

 イロハは指先でそっと布の端を持ち上げる。

 違う。

 月痕ではない。

 白化面に見られる、噛み跡のような冷たい白でもない。
 火の焦げでも、灰の染みでもない。

 細い木目のような跡だった。

 淡く、薄く、布の織り目の奥へ染み込むように走っている。まるで、布の下に見えない木肌があり、その年輪だけが浮かんできたようだった。

 イロハは息を止めた。

 見覚えがある。

 そう思った。

 けれど、どこで見たのか思い出せない。

 ロウセツの工房か。
 灰面長屋か。
 白影宮の空の面箱か。
 それとも、もっと近い場所か。

「その布を」

 エンジュの声がした。

 彼は冥導面《クラワタリ》を外していた。いつもの静かな顔に戻っているが、夜の儀式を終えたあとの目には、まだ冥府の冷たい余韻が残っている。

「見せてください」

 イロハは白布を差し出した。

 エンジュは布を受け取り、灯籠の低い火にかざす。

 木目のような跡が、淡く浮かび上がった。

 エンジュの表情が、ほんのわずかに変わる。

 驚きではない。

 警戒に近い。

「面師イロハ」

「はい」

「この木目を、どこで見ましたか」

 イロハは答えようとした。

 けれど、声が出なかった。

 知っている。

 知らないはずがない。

 なのに、記憶の奥へ手を伸ばそうとすると、そこだけ霧がかかったように輪郭が崩れる。

 焼けた家。
 灰面長屋。
 幼い自分。
 ロウセツの声。

 息はできるか。

 未完成の白い面。

 イロハは胸元を押さえた。

 その瞬間、腰の面箱が、かすかに熱を持った。

 《ナギノオモテ》の箱。

 普段は沈黙しているはずの箱が、布の木目に呼応するように、じわりと熱を帯びていた。

 イロハは思わず箱を抱える。

 アヤメが気づいた。

「イロハ殿?」

「……大丈夫です」

 そう答えたが、自分でも大丈夫とは思えなかった。

 サヨが、白布の跡を見つめていた。

 その瞳は、いつものように静かだった。けれど、その静けさの奥で、何かを感じ取っている。

「イロハ」

 サヨが呼んだ。

「その模様……あなたの面の気配に似ています」

 イロハの指が、面箱を強く握った。

「私の面に?」

「はい」

 サヨは迷いながら続ける。

「形が似ているわけではありません。木目を見たことがあるわけでもありません。でも、感じが似ています。まだ役になっていないものが、内側で息をしているような……」

 サヨはそこで言葉を止めた。

 それ以上言えば、イロハの中へ踏み込みすぎると思ったのかもしれない。

 けれど、もう十分だった。

 《ナギノオモテ》の箱は、確かに熱を持っている。

 イロハの知らない何かを、箱の中から思い出そうとしているように。

 エンジュは、白布から目を離さなかった。

「無面原の木に似ています」

 その名が出た瞬間、空気が変わった。

 無面原。

 イロハは、その名を知っている。

 聞いたことがある。

 けれど、ロウセツはその話になると、いつもはぐらかした。

 今はまだ知らなくていい。
 あそこは面師が気軽に口にする場所じゃない。
 お前の手が、まだ戻ってこられる手でいるうちは近づくな。

 そう言って、酒でも飲むように話を変えた。

 無面原。

 面を生む木がある場所。
 既存の役を写すのではなく、まだこの国に存在しない役を孕む木がある禁域。
 宮廷面師でさえ、許しなく踏み込めない場所。

 そして。

 《ナギノオモテ》の素材に関わっているかもしれない場所。

 イロハの喉が乾いた。

「どうして」

 ようやく出た声は、自分のものではないほど細かった。

「どうして、役解きに使った布に、そんな木目が残るんですか」

 エンジュは答えなかった。

 答えられないのではなく、今ここで言うべきではないと判断している顔だった。

「《ヒドメ》に、無面原の木は使われていません」

 エンジュは言った。

「では」

「布が写したのは、《ヒドメ》ではないのかもしれません」

 イロハは、面箱を抱える手に力を込めた。

 布が写したもの。

 役解きの場にあったもの。

 《ヒドメ》。
 冥導面《クラワタリ》。
 サヨの言葉。
 ミオの願い。
 エンジュの役解き。
 そして、イロハの手。

 イロハの《ナギノオモテ》。

 サヨが小さく言った。

「終わった役をほどいた時に、始まってしまった役が反応したのかもしれません」

 その言葉に、イロハは顔を上げた。

「始まってしまった役……?」

 サヨは頷く。

「わたしの面は、まだ始まっていません。けれど、あなたの面は、もう始まっているのでしょう?」

 イロハは答えられなかった。

 始まっている。

 自分の面。

 ロウセツが与えた面。

 役のない子どもに、まず息をする役から作ると言って与えた面。

 それは救いだった。

 救いだったはずだ。

 でも第6話で、イロハは疑った。

 それは本当に救済だったのか。
 それとも、役のない子どもを、別の役へ作り変えたのか。

 第8話で、終わった役を戻さないことを学んだ。

 なら、次に向き合うべきものは何か。

 終わった役ではない。

 戻らない役でもない。

 始まってしまった役。

 自分の中で、すでに動き出している役。

 その時、送り庭の灰皿が、ふっと白く揺れた。

 イロハは振り向く。

 灰の上に、白い半面が浮かんでいた。

 鏡ノ客。

 エル=ネフリド。

 もう儀式は終わっている。
 映すべきものは映したはずだった。
 《ヒドメ》は送られ、記憶棚へ納められた。

 それでも、白い半面はそこにいた。

 エンジュが眉を寄せる。

「あれは、本当に節度を知りませんね」

 低い声だった。

 アヤメが刀へ手をかける。

 セイランも、今度は筆を構えた。けれど、書き出す前に止まる。記録してよいかどうかではない。自分が何を記録しようとしているのか、まだ見えないのだ。

 白い半面は、灰の上で淡く光っている。

 その表には、誰の顔も映っていない。

 ただ、イロハの持つ面箱の輪郭だけが、ぼんやり浮かんでいた。

 そして声がした。

「終わった役を戻さぬと決めたなら」

 夜明け前の冥祀社に、その声が落ちる。

 誰のものでもない声。

 近くて、遠い。

「次は、始まってしまった役を見なさい」

 イロハは息を呑んだ。

 胸の前で、《ナギノオモテ》の面箱を抱きしめる。

 箱の熱は、もう隠せないほど強くなっていた。

 熱い。

 火ではない。

 月でもない。

 木が、内側から息をしているような熱。

「あなたは」

 イロハは白い半面を睨む。

「何を知っているんですか」

 鏡ノ客は答えない。

 ただ、灰の上に、ほんの一瞬だけ木目を映した。

 白布に残ったものと同じ、細い木目。

 それは年輪のようにも見えた。

 涙の跡のようにも見えた。

 まだ彫られていない面の輪郭のようにも見えた。

 サヨが、かすかに身を乗り出す。

「その木目……」

 だが、次の瞬間には消えていた。

 白い半面も、灰の上から薄れていく。

 最後に、声だけが残った。

「無い面は、空ではありません」

「まだ名づけられていない役の、眠る場所です」

 灰は、静かになった。

 白い半面は消えている。

 冥祀社の送り庭に、夜明け前の薄い光が差し始めていた。

 遠くで、朝を告げる鳥が鳴いた。

 けれど、イロハの胸の中は夜のままだった。

 無面原。

 ロウセツが避けてきた場所。

 《ナギノオモテ》の素材に関わるかもしれない禁域。

 サヨの未在面へ繋がるかもしれない場所。

 そして、自分が救われたのか、作り変えられたのかを知る場所。

 エンジュは、白布をたたみながら言った。

「行くのですね」

 問いではなかった。

 イロハは、すぐには答えられなかった。

 面箱を抱える腕が震えている。

 怖い。

 知りたくない。

 でも、知らないままサヨの面を彫ることは、もうできない。

 終わった役を戻してはいけないと知った。
 なら、始まってしまった役も、見ないふりをしてはいけない。

 イロハは、ゆっくり顔を上げた。

「行きます」

 声は震えていた。

 けれど、逃げてはいなかった。

「無面原へ」

 サヨは、その横で静かに頷いた。

「わたしも行きます」

 アヤメが即座に言う。

「サヨ様」

「わたしの面にも関わるのでしょう」

 サヨの声は穏やかだった。

 だが、退かない強さがあった。

「なら、見届けます」

 イロハはサヨを見る。

 第6話で、サヨは映らない顔を見た。
 第7話で、面がなくても一歩を踏み出した。
 第8話で、終わった役を見送った。

 そして次は。

 まだ始まってしまった役を見る。

 自分の役も、サヨの役も。

 エンジュは何も止めなかった。

 ただ、白布を丁寧に畳み、イロハへ返した。

 その布には、まだ細い木目の跡が残っている。

「持っていきなさい」

「いいんですか」

「それは、あなたに残った跡です」

 イロハは白布を受け取った。

 布の木目は、朝の薄明かりの中でさらに淡く見えた。

 けれど、消えてはいない。

 まるで道標のように。

 イロハは《ナギノオモテ》の面箱と、その白布を胸に抱いた。

 冥祀社の記憶棚では、《ヒドメ》が静かに眠っている。

 火事場へ戻らない面。

 帰る子を呼んだ者の面。

 終わった役を、正しく納めた面。

 その静けさを背にして、イロハは夜明けの庭に立った。

 面師として、初めて知った。

 直すことだけが救いではない。

 戻さないことも、送ることも、面を扱う者の仕事なのだと。

 ならば、次に問わなければならない。

 自分の面は、何を始めたのか。

 師匠は、何を救い、何を変えたのか。

 サヨのまだない面を彫る前に、自分の面の始まりを見なければならない。

 東の空が、白んでいく。

 月は薄く、消えかけている。

 けれど、イロハの腰の面箱だけが、夜の奥に残った木の熱を、まだ静かに宿していた。