EP 85

第9話 無面原

序節 ― 焼け残った木目

 面は、始まりを守る。

 面は、終わりを送る。

 では、誰かの手で始められてしまった役は、どこへ行けばよいのだろう。

 救われた者は、救った者を恨んではならぬのか。
 作り変えられた者は、生きていることを喜ばねばならぬのか。

 夜明け前のミナ=クラの冥祀社には、火を使わずに何かが燃え尽きたような匂いが残っていた。

 火留職面《ヒドメ》は、もう鳴らない。

 黒い冥箱に納められ、冥祀社の記憶棚へ移されたその面は、火事場へ戻ろうとする足音を失っていた。
 戻すべき役は戻さず、ほどくべき役はほどかれた。
 ソウマ=カガリという男は、火留番としてではなく、帰る子を呼んだ者として送られた。

 送り庭の黒土は静かだった。

 石灯籠の火は細く、夜露に濡れた池の蓋は、月を一滴も映していない。
 冥祀社では、水を伏せる。
 死者の役が、月に映って戻ってこないように。

 けれど、イロハの手の中には、戻ってこないはずのものが残っていた。

 白布。

 役解きの儀で、《ヒドメ》を支えていた布だった。

 面の焦げ跡を隠さず、役紋を潰さず、ほどかれていく役の輪郭が崩れないように添えた布。

 その布に、細い跡が浮かんでいる。

 月痕ではない。

 白化面に残る噛み跡のような冷たい白でもない。
 焼け焦げでも、灰の染みでもない。

 それは、木目だった。

 白布の織り目の奥から、見えない木肌が浮かび上がってくるように、細く、淡く、曲がりながら走っている。

 イロハは、その跡から目を離せなかった。

 見覚えがある。

 そう思うのに、どこで見たのかがわからない。

 ロウセツの工房。
 古い面材の棚。
 欠け面横丁の売れ残りの面。
 白影宮の空の面箱。
 それとも、もっと近い場所。

 胸の前で抱えた面箱が、じわりと熱を持った。

 《ナギノオモテ》。

 イロハ自身の面。

 普段は沈黙しているはずの箱が、白布の木目に呼ばれたように、内側からかすかに温かくなっている。

 火の熱ではない。
 月の冷たさでもない。

 木が、まだ生きて息をしているような熱だった。

「イロハ殿」

 アヤメの声がした。

 イロハは顔を上げた。

 送り庭の端で、アヤメがこちらを見ている。
 その手は刀にかかっていなかったが、目だけは警戒を解いていない。

「顔色が悪い」

「……大丈夫です」

 そう答えたものの、自分の声は薄かった。

 大丈夫ではない。

 自分でも、それはわかっていた。

 隣で、サヨが白布を見つめている。

 夜明け前の薄明かりの中で、彼女の顔はほとんど影のように静かだった。けれど、その瞳には、何かを感じ取った者だけが持つ深い緊張があった。

「その模様」

 サヨが小さく言った。

「あなたの面の気配に似ています」

 イロハの指が、面箱を強く握った。

「……私の面に?」

「はい」

 サヨは、慎重に言葉を選ぶように続けた。

「形が似ているわけではありません。木目を見たことがあるわけでもありません。ただ、その奥にある空白が似ています」

「空白……」

「まだ役になっていないものが、役になる前に息をしているような」

 サヨはそこで言葉を止めた。

 イロハは、面箱を胸に抱いたまま、白布を見る。

 まだ役になっていないもの。

 その言葉は、サヨの面について何度も聞いた言葉だった。

 皇女でありながら、皇女として立つ役がない。
 面箱も、面紐も、面棚もあるのに、面だけがない。
 失われたのではなく、まだ作られていない面。

 けれど今、白布に浮かんだ木目は、サヨの面ではなく、イロハ自身の《ナギノオモテ》へ呼びかけている。

 なぜ。

 自分の面は、生面ではなかったのか。

 師匠が自分に与えてくれた、役のない子どもがこの国で息をするための面。

 イロハは、ずっとそう思ってきた。

 救われたのだと。

 思ってきた。

「その木目を」

 低い声がした。

 エンジュ=クラモリが、送り庭へ戻ってきていた。
 冥導面《クラワタリ》は外している。けれど、役解きの儀を終えたばかりの彼の目には、まだ死者の役を送る者の静けさが残っていた。

「どこで見ましたか」

 イロハは答えようとした。

 けれど、声が出ない。

 どこで見たのか。

 思い出そうとすると、記憶の奥に白い霧がかかる。

 焼けた家。
 割れた生面。
 誰も迎えに来ない道。
 灰面長屋の湿った土。
 ロウセツの手。

 ――息はできるか。

 幼い自分は、答えられなかった。

 息をしていたはずなのに。
 生きていたはずなのに。
 この国で、誰として息をすればいいのかがわからなかった。

 ロウセツは、役所の者のようには聞かなかった。

 名は。
 家は。
 役は。

 そうではなく。

 息はできるか。

 その声だけが、今も胸の奥に残っている。

「……わかりません」

 イロハはようやく答えた。

「でも、知っている気がします」

 エンジュは白布を受け取り、石灯籠の火にかざした。

 細い木目が、薄明かりの中で淡く浮かび上がる。

 エンジュの表情が、ほんの少し変わった。

 驚きではない。

 警戒。

 あるいは、知っているものに出会ってしまった者の顔だった。

「無面原の木に似ています」

 その名が出た瞬間、イロハの中で何かが冷えた。

 無面原。

 ロウセツが避けてきた名。

 面師たちが、酒の席でも滅多に口にしない場所。

 正式な面材林ではない。
 御面庫の台帳にも、まともな名では載っていない。
 けれど、古い面師だけが知っている。

 役がまだ面になる前の場所。

 イロハは、その言葉を知っていた。

 けれど、知らないふりをしてきたのかもしれない。

「どうして」

 イロハは白布を見た。

「《ヒドメ》には、無面原の木なんて使われていないんですよね」

「はい」

 エンジュは答えた。

「少なくとも、あの面は通常の職面材です。火留番の役を写すための木で、無面原の木ではありません」

「じゃあ、なぜ」

「布が写したのは、《ヒドメ》ではないのでしょう」

 イロハは息を呑んだ。

 布が写したもの。

 役解きの場にあったもの。

 《ヒドメ》。
 エンジュの冥導面。
 ミオの涙。
 サヨの言葉。
 そして。

 自分の手。

 《ナギノオモテ》。

 面箱が、また熱を持つ。

 今度は隠しようがなかった。

 アヤメが一歩近づく。

「その面箱、熱を持っているのですか」

 イロハは答えられなかった。

 答えないことが、答えになった。

 サヨが静かに言う。

「終わった役をほどいた時に、始まってしまった役が反応したのかもしれません」

 その言葉が、胸を刺した。

 始まってしまった役。

 終わった役なら、送ることができる。
 まだない役なら、これから選ぶことができる。

 では、もう始まってしまった役は。

 自分が選ぶ前に、誰かの手で始められてしまった役は、どうすればいいのだろう。

 イロハは、面箱を抱え直した。

 重い。

 今までこんなに重いと思ったことはなかった。

 自分をこの国に置いてくれた面。
 役のない子どもが、誰かとして息をするために与えられた面。

 それが救いだったことは、否定できない。

 けれど。

 それが本当に自分の役だったのかは、まだ一度も確かめていなかった。

「師匠に」

 イロハは呟いた。

 声は震えていた。

「聞かないと」

 サヨは頷いた。

「はい」

 アヤメも、表情を引き締める。

「私も同行します」

「アヤメさん」

「これは、サヨ様の未在面にも関わることです。白影宮としても、見過ごせません」

 その言い方は固かった。

 けれど、イロハを責める響きではなかった。

 守るために立つ者の声だった。

 エンジュは白布を丁寧に畳み、イロハへ返した。

「持っていきなさい」

「いいんですか」

「それは、あなたに残った跡です」

 イロハは白布を受け取った。

 木目は薄い。

 けれど、消えない。

 まるで、これから向かうべき場所を、布の中から指し示しているようだった。

 その時、送り庭の灰皿がかすかに白く揺れた。

 イロハは振り向く。

 灰の上に、白い半面が浮かんでいた。

 鏡ノ客。

 エル=ネフリド。

 役解きは終わった。
 《ヒドメ》は納められた。
 ここにはもう、映すべき死者の役はないはずだった。

 けれど、その白い半面は、イロハの面箱だけを映していた。

 アヤメの手が刀へ伸びる。

 エンジュが低く言う。

「あれは弔う神ではありません」

 白い半面は、何も答えない。

 ただ、灰の上で淡く光る。

 そして、声がした。

「終わった役を戻さぬと決めたなら」

 イロハは、息を止めた。

「次は、始まってしまった役を見なさい」

 その言葉だけを残して、白い半面は灰に溶けるように消えた。

 朝の鳥が鳴いた。

 東の空が白み始めている。

 月は薄く、消えかけていた。

 けれどイロハの胸の奥には、夜より深い問いが残っていた。

 私は、救われたのか。

 それとも、作り変えられたのか。

 面箱は、まだ熱を持っている。

 イロハはそれを抱えたまま、冥祀社の門を出た。

 行き先は決まっていた。

 面師小路の裏工房。

 ロウセツ=カガミのもとへ。

 朝の帝都カミザは、まだ目覚めきっていない。

 白木の回廊も、黒漆の門も、朱塗りの舞台も、夜明けの淡い光の中で眠っている。

 けれどイロハには、都のすべての面が、まだこちらを見ていないふりをしているように見えた。

 彼女は白布を胸にしまい、《ナギノオモテ》の面箱を抱える。

 師匠に聞かなければならない。

 この面は、何で作られたのか。

 誰のために作られたのか。

 そして、自分は本当に、自分の役でここに立っているのか。

 朝日が、面師小路の屋根を照らし始める。

 その光の中で、面箱の熱だけが、まだ夜の木目を覚えていた。