EP 86

第9話 無面原

第一節 ― 師匠の沈黙

 面師小路の朝は、いつもより少し遅れて目を覚ました。

 細い路地には、昨夜干された面材の匂いが残っている。白木、漆、砥粉、古い布、乾ききらない膠。商いの声がまだ立ち上がる前の時間、店先の面たちは薄い布をかけられ、眠るように軒下へ並んでいた。

 イロハは、その路地を黙って歩いた。

 胸には、《ナギノオモテ》の面箱。
 懐には、冥祀社から持ち帰った白布。

 そのどちらも、軽くはなかった。

 サヨは少し後ろを歩いている。

 女房姿に身を隠してはいるが、その静けさは隠しきれない。白影宮にいる時とは違い、彼女は町の匂いの中で少しだけ異物のようだった。けれど、昨夜の冥祀社を経たあとでは、その異物感さえ、彼女自身の役を探すための影のように見えた。

 アヤメはさらに後ろで、周囲を見ている。

 表情は変わらない。だが、袖の下の手はいつでも刀へ届く位置にあった。

 裏工房の戸は、半分だけ開いていた。

 中から、木を削る音はしない。

 珍しいことだった。

 ロウセツ=カガミの工房は、朝が早い。本人がだらしなく見えても、面だけは夜明け前から起きている。削る音、磨く音、漆を混ぜる音。そうした小さな音が、いつも路地の奥から漏れていた。

 けれど今日は、静かだった。

 イロハは戸口で立ち止まった。

「師匠」

 返事はすぐに来た。

「おう」

 軽い声だった。

「冥祀社帰りの顔じゃねえな。死人でも背負ってきたか」

 いつもの調子。

 いつもの、煙に巻く声。

 工房の奥で、ロウセツは片膝を立てて座っていた。手には煙管。膝のそばには、修理待ちの古面がひとつ置かれている。

 何も知らない顔をしている。

 それが、イロハにはひどく腹立たしかった。

 ロウセツはサヨとアヤメの姿を見て、片眉を上げる。

「おやまあ。朝っぱらからずいぶん物々しい。白影宮の姫君まで、こんな煤けた工房へようこそ」

 アヤメの目が鋭くなる。

「軽口は控えていただきたい」

「怖いねえ。護衛殿は朝から刃みたいだ」

 ロウセツは笑った。

 だが、その笑いは長く続かなかった。

 イロハが笑わなかったからだ。

 いつもなら、呆れたように言い返す。
 怒るにしても、どこかに甘えが混じる。
 師匠の軽口を、軽口として受け取るだけの余地があった。

 今は違う。

 イロハは工房の中央へ進み、懐から白布を取り出した。

 そして、作業台の上に広げる。

 白布に残った細い木目が、朝の光の中で淡く浮かんだ。

 ロウセツの煙管が、止まった。

 ほんの一瞬。

 けれどイロハは見逃さなかった。

「師匠」

 イロハは言った。

「《ナギノオモテ》は、何で作ったんですか」

 工房の空気が変わった。

 壁に掛けられた古面。
 棚の奥で乾いている職面。
 半分だけ削られた祈面。
 欠けた生面。

 それらが一斉に、息を潜めたように思えた。

 ロウセツは答えない。

 煙管を口元へ運ぼうとして、やめた。

 灰皿の縁へ、静かに置く。

「……どこで、それを」

「冥祀社です」

 イロハは白布から目を離さなかった。

「《ヒドメ》の役解きをしました。終わった役を戻さずに、ほどきました。その時、この木目が布に残りました」

 ロウセツは黙っている。

「エンジュさんが言いました。無面原の木に似ているって」

 その名を聞いた瞬間、ロウセツの目の奥から、いつものだらしない笑みが完全に消えた。

 煙管も、軽口も、眠そうな目つきも。

 何かを知っている者の顔。

 そして、知られたくなかった者の顔。

 イロハは、胸の面箱を強く抱いた。

「これは、私の生面なんですよね」

 声が震えた。

 それでも、言った。

「師匠が、そう言ったんですよね」

 ロウセツは視線を伏せた。

 それだけで、イロハの胸の奥に冷たいものが落ちた。

「答えてください」

 工房の外では、面師小路がようやく動き始めている。

 遠くで戸を開ける音がした。
 誰かが水を撒く音。
 子どもの声。
 店先の面を並べる小さな物音。

 けれど、この裏工房だけは、別の場所のように静かだった。

 アヤメが一歩前に出る。

「ロウセツ=カガミ。白影宮の依頼にも関わることです。答えていただきます」

 その声は硬い。

 ロウセツは、アヤメを見なかった。

 彼が見ていたのは、イロハだった。

 いや。

 イロハの胸に抱かれた面箱だった。

 サヨは何も言わない。

 ただ、見ていた。

 責めるでもなく、庇うでもなく。
 そこにあるものを、消さずに見る目。

 その視線が、かえって逃げ場をなくす。

 ロウセツは、深く息を吐いた。

「……お前に、それを聞かれる日が来るとは思ってた」

「なら、どうして今まで言わなかったんですか」

「言えば、お前は自分の足元を疑う」

「もう疑っています」

 イロハの声が、鋭くなった。

「第6話で、ミツの面に役を置こうとして、怖くなりました。私が置く役は本当にその子のものなのかって。第8話で、《ヒドメ》を戻さないって決めました。終わった役を無理に戻すのは救いじゃないって、やっとわかりました」

 イロハは面箱を抱きしめた。

「じゃあ、これは何なんですか」

 その問いは、工房の奥へ深く沈んだ。

「私の役は、私のものなんですか」

 ロウセツは何も言わない。

 言えないのか。

 言わないのか。

 イロハにはもう、わからなかった。

 サヨが、静かに口を開いた。

「ロウセツ殿」

 その声に、ロウセツはようやくサヨを見る。

「わたしの面にも、関わるのですね」

 ロウセツの喉が、わずかに動いた。

 それが答えだった。

 アヤメの目がさらに険しくなる。

「やはり」

「待て」

 ロウセツは低く言った。

 今度は、軽口ではなかった。

「ここで全部しゃべっても、半分もわからねえ」

「逃げるつもりですか」

 アヤメが言う。

 ロウセツは首を振った。

「逃げられるなら、とっくに逃げてる」

 彼は立ち上がった。

 いつもより背が大きく見えた。

 いや、今までわざと小さく見せていたのかもしれない。
 だらしない町面師。
 資格を剥奪されたモグリ面師。
 路地裏で古面を直す変わり者。

 その仮面の奥に、かつて宮廷で面を扱っていた者の影が、わずかに見えた。

 ロウセツは作業台の白布を見下ろす。

 指を伸ばしかけて、触れなかった。

「この木目が出たなら、もう隠せねえ」

 イロハは唇を噛む。

「隠してたんですね」

「ああ」

 短い答えだった。

 否定しない。

 言い訳もしない。

 そのことが、かえって痛かった。

「どうして」

「お前を生かしたかった」

「それで全部許されると思ってたんですか」

「思ってねえよ」

 ロウセツの声が、少し荒れた。

 すぐに彼は目を伏せる。

「思ってねえ。ずっと」

 沈黙。

 工房の古い面たちが、その言葉を聞いている。

 ロウセツは、棚の奥へ歩いた。

 古い布をどけ、鍵のかかった小さな箱を取り出す。

 だが、開けなかった。

 ただ、手に持ったまま、イロハたちへ向き直る。

「ここじゃない」

「どこなら話すんですか」

 イロハの声は震えていた。

 怒りだけではない。

 怖さ。

 もし次の言葉で、自分が今まで立っていた場所が崩れるなら。

 それでも、聞かなければならない。

 ロウセツは言った。

「無面原へ行く」

 工房の外で、朝の風が路地を通り抜けた。

 軒下の面布がかすかに揺れる。

 イロハは、その名をもう一度胸の中で繰り返した。

 無面原。

 役が、まだ面になる前の場所。

 自分の面の始まりがあるかもしれない場所。

 サヨの未在面へつながる場所。

 アヤメが低く問う。

「そこへ行けば、説明すると?」

「説明で済むならな」

 ロウセツは答えた。

「見た方が早い。あそこに残ってるものは、言葉にすると嘘になる」

 サヨが静かに言う。

「わたしも参ります」

 アヤメが即座に振り向く。

「サヨ様」

「わたしの面に関わるのでしょう」

「危険です」

「危険でない場所にいたから、わたしの面は作られなかったのですか」

 アヤメは言葉を失った。

 サヨは、イロハを見た。

「イロハ。あなたが知るべきことなら、わたしも見届けます」

 イロハは、答えられなかった。

 見届ける。

 サヨはいつも、その言葉を恐れずに使う。

 喰われた役も。
 終わった役も。
 まだない役も。
 そして、誰かの手で始められてしまった役も。

 ロウセツは苦い顔をした。

「姫君まで連れてく気はなかったんだがな」

「では、わたしのいないところで、またわたしの面の話をするのですか」

 サヨの声は穏やかだった。

 しかし、その穏やかさの中に、譲らない硬さがあった。

 ロウセツはしばらく黙り、やがて肩を落とした。

「……似てきたな」

「誰にですか」

「知らなくていい」

 その答えに、サヨはわずかに目を細めた。

 イロハは、ロウセツの横顔を見る。

 また隠した。

 今、何かを隠した。

 けれど問い詰めても、ここでは出てこない。
 たぶんロウセツの言う通り、言葉だけでは足りないものがある。

 イロハは白布を畳んだ。

 木目の跡が、内側へ隠れる。

 けれど消えたわけではない。

 胸の面箱は、まだ熱を持っていた。

「行きます」

 イロハは言った。

 ロウセツが、少しだけ目を伏せる。

「今なら、まだ戻れるぞ」

「戻れる場所を、師匠が作ったんでしょう」

 イロハは静かに言った。

「なら、その場所が何でできているのか、見ます」

 ロウセツは何も返さなかった。

 ただ、小さな箱を懐へ入れ、壁に掛けていた古い外套を取る。

 その動作は、妙に手慣れていた。

 まるで、いつかこの日が来ると知っていて、何度も頭の中で支度をしていたかのように。

 工房を出る前、イロハは一度だけ振り返った。

 作業台。
 彫りかけの面。
 乾いた漆。
 欠けた古面。
 修理待ちの職面。

 ここは、イロハが面師として生きてきた場所だった。

 師匠に拾われ、面を覚え、役を直し、人を見てきた場所。

 そのすべてが、今、少し違って見える。

 嘘だったわけではない。

 けれど、全部を知らされていたわけでもない。

 イロハは、《ナギノオモテ》の面箱を抱え直した。

 救われたことまで疑いたくない。

 でも、疑わなければ、次へ行けない。

 ロウセツが戸を開ける。

 朝の光が、裏工房の中へ差し込んだ。

 その光に照らされて、白布の中の木目が、かすかに熱を返した気がした。