EP 87

第9話 無面原

第二節 ― 地図に載らぬ道

 帝都カミザは、中心から離れるほどに、音の質が変わっていく。

 白木の回廊が続く内郭では、足音さえ磨かれている。
 黒漆の門の前では、役人の声も、女房の衣擦れも、どこか儀礼の中に収まっている。
 朱塗りの舞台の近くでは、鈴の音、太鼓の皮を張る音、舞袖をたたむ音が、朝の空気に細く混じる。

 けれど、ロウセツが先導する道は、そのどれからも少しずつ外れていった。

 面師小路を抜け、役面市の端を過ぎる。
 仮面籍庁へ向かう大通りを避け、古い水路沿いの細道へ折れる。
 さらに進むと、店先に整然と並んでいた面箱は見えなくなり、代わりに、軒下へ乱雑に吊るされた古布や、修理途中の桶、片方だけ残った草履が目につくようになった。

 やがて、灰面長屋の外れへ出る。

 イロハは、そこで一度足を止めそうになった。

 欠け面横丁。
 古い井戸。
 物干し紐に吊るされた灰面。
 子どもたちが踏んでいた、小さな舞台板。

 昨日までの出来事が、まだ土の匂いの中に残っている気がした。

 ミツは、今朝も水を汲みに来ただろうか。

 あの子の顔は、今日は少しでも水面に映っただろうか。

 サヨも、同じことを思ったのかもしれない。
 女房姿のまま、灰面長屋の奥を静かに見ていた。

 だがロウセツは止まらない。

「こっちだ」

 その声は低かった。

 ふだんの彼なら、灰面長屋の古面商にでも軽口を飛ばしていたはずだ。
 けれど今日は、誰にも声をかけない。

 それが、イロハにはかえって不気味だった。

 灰面長屋を越えると、帝都の輪郭は急に薄くなる。

 役所の札が減る。
 番所の提灯が古くなる。
 道端の石に刻まれた区画名も、半ば苔に埋もれて読めなくなる。

 ここまで来ると、帝都カミザでありながら、帝都ではないようだった。

 人が住んでいないわけではない。
 小さな畑もある。
 古い面材を乾かす小屋もある。
 炭を焼く煙も、遠くに細く上がっている。

 けれど、そこにあるものは、どれも正式な顔を持っていない。

 道はある。
 だが、道の名が見えない。
 家はある。
 だが、門札が古く、役名が剥がれている。
 祠もある。
 だが、どの神を祀るものか、表の札が白く擦れている。

 アヤメが周囲を見回した。

「こんな場所が、帝都の台帳にあるのですか」

 声には警戒が混じっていた。

 護衛としての警戒だけではない。
 王朝の内側で生きてきた者として、台帳に収まらない場所そのものを測りかねている声だった。

 ロウセツは、振り返らずに答える。

「あるにはある」

「曖昧な答えですね」

「曖昧な場所だからな」

 アヤメの眉がわずかに寄る。

 ロウセツは、ようやく足を緩めた。

「台帳には、別の名で載ってる。古面材保管地だの、旧御面庫予備林だの、面材乾燥区だの、その時々で名が変わる。だが、正しい名では載っていない」

「正しい名とは」

 サヨが問う。

 ロウセツは少しだけ黙った。

 道の先には、低い丘が見えている。
 その向こうに、白っぽい木の梢が、朝の光にかすかに浮かんでいた。

「無面原だ」

 イロハは、その名を聞いて胸の奥がきしむのを感じた。

 何度聞いても、初めて聞いたように怖い。

 それなのに、ずっと前から知っていたようにも思える。

 ロウセツは続けた。

「役所が管理する正式な面材林じゃない。御面庫の面材台帳にも、まともには載っていない。載せたくねえんだろうな。あそこは、役に分ける前の木がある場所だから」

「役に分ける前……」

 イロハが呟く。

 ロウセツは頷いた。

「普通の面材は、使い道が先に決まっている。生面に向く木、職面に向く木、祈面に向く木、戦面に向く木。木にも、だいたいの役がある」

 彼は、道端に落ちていた枯れ枝を拾い、すぐに捨てた。

「だが、無面原の木は違う」

「どう違うのですか」

 アヤメが問う。

「役がまだない」

 その答えは短かった。

 けれど、十分だった。

 イロハの胸に抱えた面箱が、またかすかに熱を持つ。

 サヨが、それに気づいたように視線を落とした。

 ロウセツは見ないふりをした。

「古い面師だけが知ってる。知っていても、口にはしない。無面原の木は、便利すぎる。危うすぎる。まだない役を作れる木なんてものを、役所がまともに知ったらどうなると思う」

 アヤメはすぐには答えなかった。

 だが、その顔には答えが出ていた。

 仮面籍庁。
 定役面《コトサダメ》。
 白札、黒札、灰札。
 役を定め、保留し、封じる制度。

 そこへ、まだない役を生む木が渡れば。

「管理されるでしょうね」

 サヨが静かに言った。

「あるいは、封じられる」

 ロウセツは、かすかに笑った。

 だが、それはいつもの軽い笑いではなかった。

「姫君は話が早い」

 道は、さらに細くなっていく。

 草が足首に触れる。
 土は柔らかい。
 湿った木の匂いが、少しずつ濃くなる。

 イロハは歩きながら、息が浅くなるのを感じていた。

 ここは初めて来る場所のはずだ。

 けれど、足の裏が覚えているような気がする。

 白い木。

 ふと、そんな映像が浮かんだ。

 幹の白い木。
 枝の少ない木。
 顔のような節。
 目穴のような黒いくぼみ。

 イロハは瞬きをする。

 目の前にはまだ丘しかない。

 なのに、白い木の影が先に見えた気がした。

 次に聞こえたのは、泣き声だった。

 自分の声か。

 別の子どもの声か。

 わからない。

 細く、途切れ途切れで、息を吸うたびに痛むような泣き声。

 イロハは足を止めた。

「イロハ?」

 サヨが呼ぶ。

 イロハは顔を上げた。

「……今」

「何か見えましたか」

「白い木が」

 ロウセツの背中が、ほんの少し固まる。

 イロハは続けようとして、言葉を失った。

 次に浮かんだのは、白い布だった。

 いや、白かったのかどうかもわからない。
 血がついていた。

 小さな手。
 布に包まれた何か。
 割れた面の破片。
 焦げた家の匂い。

 そして、誰かの大きな手。

 ロウセツの手。

 若い。

 今よりもずっと若い手だった。

 その手が、泣いている子どもの前に差し出される。

 ――息はできるか。

 イロハは胸を押さえた。

 呼吸が詰まる。

 アヤメがすぐに近づいた。

「大丈夫ですか」

「……大丈夫、です」

 答えながら、イロハは自分の声が遠いことに気づく。

 自分は今、道に立っている。

 サヨが隣にいる。
 アヤメが支えようとしている。
 ロウセツが前にいる。

 でも、ほんの一瞬、別の場所にいた。

 焼けた家の前。
 誰も迎えに来ない道。
 自分が誰の子か、どの家の面を持つのか、誰にも言えなかった場所。

 ロウセツが、振り返らずに言った。

「近づいてる」

 イロハは顔を上げる。

「無面原に、ですか」

「ああ」

「どうして、記憶が」

「無面原の木は、役になる前のものを呼ぶ」

 ロウセツの声は低い。

「面になる前の木。役になる前の名。生面になる前の子ども。そういうものに、妙に近い」

 イロハは、その言葉を噛みしめた。

 生面になる前の子ども。

 役所では、そんな言い方をしない。

 子どもは、家の生面を継ぐ。
 家の面によって、この国に置かれる。
 家がなければ、仮置き。
 仮置きもなければ、灰面。

 けれどロウセツは今、「生面になる前の子ども」と言った。

 イロハは、自分がその言葉に含まれていることを理解した。

「師匠」

 ロウセツは返事をしない。

「私は、ここに来たことがあるんですか」

 長い沈黙。

 風が草を揺らす。

 遠くで鳥が鳴いた。

 ロウセツは、少しだけ首を傾けた。

「連れてきた」

 イロハは息を止めた。

「誰を」

「お前を」

 淡々とした声だった。

 けれど、その淡々さの奥に、ずっと隠してきた痛みがある。

「全部は、そこで話す」

 イロハは、もう何も聞けなかった。

 聞きたいことは山ほどある。

 いつ。
 なぜ。
 何のために。
 なぜ覚えていないのか。
 なぜ言わなかったのか。

 けれど、言葉にすると、足が止まりそうだった。

 だから歩いた。

 白い木の梢が、丘の向こうに少しずつ増えていく。

 その下へ近づくにつれ、《ナギノオモテ》の面箱は温かさを増した。

 サヨが隣を歩く。

「イロハ」

「はい」

「怖いですか」

 イロハは少し笑おうとした。

 うまくいかなかった。

「怖いです」

 素直に答えた。

「でも、見ない方がもっと怖いです」

 サヨは頷いた。

「わかります」

 その声は、とても静かだった。

 彼女もまた、面のない皇女として、見ないままにされてきた人だった。

 誰かが決めた保留。
 誰かが見なかった空白。
 誰かが作らなかった面。

 その先に何があるのか、彼女も見なければならない。

 アヤメは、二人の少し後ろを歩きながら、周囲を警戒している。

 けれどその背筋には、先ほどまでとは違う緊張があった。

 敵を探す護衛の緊張ではない。

 制度の外へ踏み込んでしまった者の緊張。

 彼女にとっても、ここは地図に載らぬ道なのだ。

 やがて、丘を越えた。

 朝の光が、前方へ広がる。

 そこに、白い木々が立っていた。

 森ではない。

 木々は密集していない。
 互いに距離を置き、ぽつり、ぽつりと原に立っている。
 葉は少なく、枝は細く、幹は白い。
 ところどころに、顔のような節がある。
 目穴のような暗いくぼみが、朝の光を吸い込んでいる。

 地面には、削られなかった木片が散っていた。

 輪郭だけが面のような木。
 口のない木。
 目だけが黒く残った木。
 半分だけ削られて、その先を誰にも決められなかった木。

 イロハは、足を止めた。

 胸の中で、何かが震えた。

 《ナギノオモテ》の面箱が、熱を帯びる。

 まるで、帰ってきた、と告げるように。

 ロウセツは、白い原を見つめて言った。

「ここが、無面原だ」

 イロハは、白い木々を見る。

 そこには、まだ誰の顔でもないものたちが立っていた。