EP 88

第9話 無面原

第三節 ― 無面原

 無面原は、森ではなかった。

 木々は寄り添っていない。
 互いを隠さず、守らず、白い間隔を空けて立っている。

 朝の光が、幹の表面を薄く照らしていた。
 けれど、その白さは明るいものではない。磨かれた白木の清らかさでも、白影宮の回廊のような品のある白でもない。

 何も塗られていない白。

 まだ名を与えられていない白。

 役を待つ前の、木そのものの白だった。

 枝は少なく、葉もまばらだった。
 風が吹いても、葉擦れの音はほとんどしない。代わりに、幹の奥で乾いた小さな音が鳴る。まるで、彫られるのを待つ木が、内側からわずかに身じろぎしているようだった。

 幹には、ところどころ人の顔のような節がある。

 目のように見える黒いくぼみ。
 口のように裂けた筋。
 鼻筋にも見える縦の木目。

 けれど、どれも顔ではない。

 顔になりかけて、まだ顔になることを許されていないもの。

 イロハは、その木々の前で足を止めた。

 胸の面箱が、熱を持っている。

 帰ってきた、と言われている気がした。

 けれど、イロハにはそんなことを思いたくなかった。

 ここが自分の帰る場所だなんて、思いたくなかった。

「……変な場所ですね」

 声が出た。

 思っていたよりも、小さな声だった。

 ロウセツは振り返らない。

「そうだな」

「森じゃない」

「森になる前に、役を取られた場所だからな」

 イロハは、その言葉の意味をすぐには受け取れなかった。

 サヨが一歩、白い木々の方へ進む。

 アヤメがすぐに手を伸ばしかけたが、サヨは振り返らずに首を横に振った。

「大丈夫です」

 その声は静かだった。

 サヨは、白い幹を見上げた。

 白影宮の面棚を見る時とも、冥祀社の記憶棚を見る時とも違う目だった。

 それは、まだ何者にもなっていないものを見る目だった。

「ここは、面の墓ではありませんね」

 サヨは言った。

 ロウセツが、ようやく彼女を見る。

「ああ」

 彼は短く答えた。

「面になる前の場所だ」

 サヨは、その言葉を胸の奥で受け止めるように、わずかに目を伏せた。

「面になる前……」

「生面も、職面も、祈面も、戦面も。面は彫られた時から役を背負う。けど、ここの木はまだ背負っていない」

 ロウセツは、足元に落ちていた木片を拾った。

 手のひらほどの大きさ。
 片側だけが滑らかに削られ、反対側は荒い木肌のままだ。

「だから、危ない」

「危ない?」

 アヤメが聞き返す。

「何にでもなれる木は、何にでもされる木でもある」

 ロウセツは木片を地面へ戻した。

「本人より先に、役を置ける。まだない役を作れる。言い換えれば、誰かが勝手に、その人間の立ち方を決められる」

 イロハの指が、面箱の縁を強く掴んだ。

 勝手に。

 その言葉だけが、胸の中でひどく大きく響いた。

 地面には、削られなかった木片が無数に散っていた。

 面になれなかったもの。
 彫られかけて捨てられたもの。
 目だけ彫られて、口のないもの。
 輪郭だけ取られて、役名を持たなかったもの。

 イロハは、足元のひとつを拾った。

 軽い。

 けれど、妙に冷たい。

 それは顔の輪郭にも見えた。
 額から頬へかけての線。顎に当たる部分のわずかな丸み。目を彫るはずだった場所には、薄い下書きのような傷が残っている。

 だが、何の表情もない。

 怒りも、笑みも、祈りも、眠りもない。

 白化面とは違う。

 あの白は、喰われた白だった。
 ユラの舞面にも、ハルマサの戦面にも、セイランの式面にも、月が噛んだような冷たい痕があった。

 だが、この白は違う。

 喰われる前の白。

 まだ、何も与えられていない白。

「これも、面になるはずだったんですか」

 イロハが尋ねる。

 ロウセツは木片を見た。

「なるかもしれなかった」

「ならなかったんですね」

「ああ」

「どうして」

「役が来なかった」

 ロウセツは淡々と答えた。

「面師が決められなかったのか。依頼人がいなくなったのか。役所に止められたのか。使う前に怖くなったのか。それぞれだ」

 イロハは木片を見る。

 役が来なかった。

 その言葉が、木片だけのことに聞こえない。

 灰面長屋の子どもたち。
 ミツ。
 生面を失い、家もなく、仮面籍のどこにも置けなかった子。

 そして、サヨ。

 皇女でありながら、この国に皇女として立つ役が用意されなかった人。

 イロハは、木片を手の中で包んだ。

 これは、誰かになれなかったものだ。

 だが、本当に「なれなかった」のだろうか。

 誰にも決められなかったから、ここに残されたのか。
 それとも、誰かに決められずに済んだから、まだここにいられるのか。

 わからなかった。

「イロハ」

 サヨの声がした。

 イロハは顔を上げる。

 サヨは、一本の白い木の前に立っていた。

 幹には、面のような節があった。
 目の位置にふたつの黒いくぼみ。
 口に見える細い裂け目。
 その下に、まだ彫られていない頬のようななだらかな木目。

 サヨはそこへ手を伸ばしかけ、触れる直前で止めた。

「この木は、見ているのですか」

 ロウセツは答えない。

 代わりに、イロハが答えた。

「見ているように、見えるだけです」

 言ってから、自分でもその言葉が信じられなかった。

 本当にそうだろうか。

 この場所の木々は、ただの木なのか。

 まだ面ではない。
 まだ役ではない。
 けれど、何かを待っている。

 その待つ気配が、視線のように感じられる。

 アヤメが周囲を見回した。

「落ち着きませんね」

「護衛殿でも怖いか」

 ロウセツが言う。

「怖いというより、不快です」

「正しい感覚だ」

 ロウセツは白い木々を眺めた。

「ここは、王朝の秩序には馴染まねえ。面があって役があるんじゃない。役が来る前の面材が、ずっと立ってる場所だからな」

 アヤメは眉を寄せた。

「だから、台帳に正しく載せないのですか」

「載せたら、定めたくなる」

 ロウセツは言った。

「この木は生面用。この木は職面用。この木は祈面用。この木は皇族面用。そうやって分けた瞬間、無面原じゃなくなる」

 サヨが静かに目を伏せる。

「定めれば、安心できます」

「ああ」

「でも、定めたことで失われるものもあるのですね」

 ロウセツは、その言葉には答えなかった。

 イロハは足元へ目を落とす。

 削りかけの木片の中に、ひとつだけ妙なものがあった。

 それは、他の木片よりも少し滑らかだった。
 輪郭が薄く整えられ、額から頬への線がどこか見覚えのある形をしている。

 イロハは膝をつき、それを拾う。

 指先が触れた瞬間、胸の《ナギノオモテ》の面箱が熱くなった。

「っ……」

 思わず手を離しかける。

 だが、木片は落ちなかった。

 手の中で、かすかに震えている。

 ロウセツが近づいてきた。

「それは」

 声が、わずかに変わった。

 イロハは顔を上げる。

「知ってるんですか」

 ロウセツは、すぐには答えなかった。

 いつものように、茶化さない。
 煙管もない。
 逃げる言葉もない。

 ただ、その木片を見ていた。

 まるで、ずっと前に捨てたはずのものを、今さら突きつけられたように。

「試し彫りの欠けだ」

「誰の」

 イロハは聞いた。

 その瞬間、風が止まった気がした。

 サヨも、アヤメも、ロウセツを見る。

 ロウセツは、白い原の奥を見た。

「皇女の未在面」

 イロハの手の中で、木片が急に重くなった。

 サヨの瞳が揺れる。

 けれど、彼女は声を荒げなかった。

 ただ、静かに言う。

「わたしの」

「正確には」

 ロウセツは苦い顔をした。

「お前さんのために作ろうとしていた面の、前段階だ」

 サヨは、木片を見る。

 イロハの手の中にある、顔になれなかった小さな白。

「前段階……」

「まだ、役を探っていた頃のものだ。皇女の面と言っても、既存の皇女面じゃなかった。台帳にもない。儀礼にもない。だから、面の形を決める前に、何度も木を削った」

 ロウセツの声は低い。

「これは、そのひとつだ」

 イロハは、木片を見つめる。

 サヨの面になれたかもしれないもの。

 そう思った瞬間、指先が冷たくなる。

 なぜ、これが自分の面箱に反応するのか。

 聞かなくても、答えは近づいている。

 でも、まだ聞きたくない。

 聞かなければならないのに、聞きたくない。

 サヨが、イロハの隣へ来た。

「触れてもよいですか」

 イロハは黙って木片を差し出した。

 サヨは両手で受け取った。

 その手つきは、壊れやすいものを扱うように慎重だった。

 木片を見つめるサヨの横顔は、悲しそうではなかった。

 ただ、不思議そうだった。

 まるで、自分になれたかもしれないものと、初めて対面しているように。

「何もありませんね」

 サヨは言った。

「怒りも、悲しみも、喜びも」

 イロハは頷く。

「まだ、何も彫られていないから」

「いいえ」

 サヨは首を横に振った。

「何も彫られていないのに、何かになれる気配だけがあります」

 その言葉に、イロハは胸を突かれた。

 それは、サヨのことでもあった。

 そして、自分のことでもあるのかもしれない。

 ロウセツは、無面原の奥へ視線を向けた。

「まだ入口だ」

 イロハは顔を上げる。

「この先に、何があるんですか」

「お前に見せなきゃならねえ木がある」

「私に?」

「ああ」

 ロウセツは、一度だけ《ナギノオモテ》の面箱を見た。

「その面の始まりだ」

 イロハの喉が、乾いた。

 サヨは木片をイロハへ返す。

「行きましょう」

 その声は穏やかだった。

 イロハは木片を受け取り、しばらく見つめたあと、そっと元の地面へ戻した。

 持っていくことはできないと思った。

 これは、まだ役になっていないものだ。
 自分が勝手に持ち去っていいものではない。

 白い木々の間を、ロウセツが歩き出す。

 イロハはその後を追う。

 一歩進むたびに、胸の面箱が熱を増した。

 白い幹の節が、こちらを見ているようだった。

 だが今度は、イロハは目を逸らさなかった。

 まだ何も与えられていない白。
 誰にも定められていない木。
 面になる前の場所。

 その奥に、自分の始まりがある。

 救いだったのか。

 罪だったのか。

 まだ答えは出ない。

 けれど、イロハはその白い原の中へ、足を踏み入れた。