EP 89

第9話 無面原

第四節 ― 皇女の未在面

 無面原の奥には、ひときわ白い木が一本立っていた。

 ほかの木々より大きいわけではない。
 枝ぶりが見事なわけでもない。
 けれど、その木の周囲だけ、草の色が薄かった。

 まるで、そこだけ役がまだ降りてこないまま、世界が息を止めているようだった。

 ロウセツは、その木の前で足を止めた。

「ここだ」

 イロハは胸の面箱を抱えたまま、その木を見上げる。

 幹には、顔のような節があった。

 けれど、ほかの木よりも整っている。
 目の位置、頬の線、額から顎へ落ちる流れ。まだ彫られていないのに、すでに面の輪郭を内側に隠しているように見えた。

 サヨは、その木の前で何も言わなかった。

 ただ、立っていた。

 アヤメは彼女の半歩後ろに控え、ロウセツからも、木からも目を離さない。

 風が吹く。

 白い木の枝先が、わずかに揺れた。

 鈴の音はしない。
 水の音もしない。
 それなのに、イロハには、どこか遠い面箱の蓋が開く音が聞こえた気がした。

 ロウセツは、木の幹へ触れなかった。

 手を伸ばせば届く距離にいるのに、触れない。
 それは、恐れているようにも、礼を尽くしているようにも見えた。

「かつて、宮廷から依頼があった」

 ロウセツが口を開いた。

 その声は、いつもの師匠の声ではなかった。

 面師小路の裏工房で、古面を相手にぼやく声ではない。
 資格を剥奪されたモグリ面師の軽い声でもない。

 かつて宮廷の奥で、誰かの役を彫ることを許されていた者の声だった。

「皇女の面を作れ、と」

 サヨの指が、袖の中でわずかに動いた。

 けれど、彼女は黙っている。

「ただし、既存の皇女面ではない」

 ロウセツは続けた。

「古い皇女面を写せば済む話なら、俺のところには来ねえ。宮廷には、もっと正しい面師がいる。もっと品よく、もっと間違えず、もっと余計なことをしねえ連中がな」

 自嘲のように笑いかけたが、その笑みは形にならなかった。

「だが、その皇女には役がなかった」

 アヤメの眉が動いた。

「サヨ様には、皇女としての血筋があります」

「血筋はある」

 ロウセツは頷いた。

「だが、王朝儀礼上の役がなかった。台帳にない。面棚にない。御面庫に型がない。祝詞にも、座順にも、舞にも、方位にも、ぴたりと入る場所がない」

 サヨは静かに聞いていた。

 怒りはない。

 少なくとも、表には出さなかった。

 けれどその沈黙は、傷ついていない者の沈黙ではない。

 あまりにも長く、同じ事実を別の言葉で告げられ続けてきた人の沈黙だった。

 役がない。
 面がない。
 方位がない。
 台帳にない。
 判定不能。
 保留が妥当。

 いくつもの制度の言葉が、彼女の周りに薄い檻を作ってきた。

 今、ロウセツの口から語られているのは、その檻の始まりだった。

「俺は、まず御面庫を調べた」

 ロウセツは白い木を見上げたまま言う。

「古い皇女面。斎姫面。月見役面。御簾内儀礼面。帝の妹君が用いた面、皇女が幼年の祭礼でつける面、婚儀前に一度だけ使われる面、神前で声を出さずに立つための面」

 イロハは、それらの名を頭の中で思い浮かべようとした。

 どれも格式の高い面だ。
 町面師が簡単に触れられるものではない。

 ロウセツは、そんな面を見ていた。

 かつて、宮廷の奥で。

「だが、どれも違った」

「なぜですか」

 イロハは聞いた。

「皇女の面なら、皇女様に合うんじゃないんですか」

「合わなかった」

 ロウセツは短く答える。

「どれも、すでにある皇女のための面だったからだ」

 サヨが、ゆっくり顔を上げる。

 ロウセツは、初めてサヨをまっすぐ見た。

「サヨ=ミカゲ様。あなたは、既存の皇女として立つために生まれた方ではなかった」

 アヤメが一歩前に出かける。

「言葉を慎んでください」

「慎んでこれだ」

 ロウセツの声は低かった。

「これは侮辱じゃねえ。事実だ」

 サヨが小さく首を振る。

「よいのです、アヤメ」

「ですが」

「聞かなければなりません」

 アヤメは唇を引き結び、半歩だけ下がった。

 サヨはロウセツを見る。

「わたしは、この国に存在しない役だったのですね」

 ロウセツはすぐには答えなかった。

 白い木の節が、朝の光の中で静かに陰を落としている。

「存在しない、とは言いたくなかった」

 やがて、彼は言った。

「まだ、なかった」

 その言葉に、サヨの表情がほんのわずかに揺れた。

 存在しない。

 まだ、ない。

 似ているようで、違う言葉。

 前者は閉じる。
 後者は、待つ。

 イロハは胸の奥が痛んだ。

 第2話の白影宮で、自分は言った。

 面を失った棚ではない。
 面を待っている棚だ、と。

 今、その言葉の重みが、別の角度から戻ってくる。

 サヨの面は、紛失したのではなかった。
 最初から、なかった。
 けれど、それは存在できないという意味ではなかった。

 まだ作られていなかった。

 まだ、誰も彫れなかった。

 ロウセツは、白い木に背を向け、少し離れた場所にある切り株を示した。

 その切り株は古かった。

 表面は乾き、ところどころに細い亀裂が入っている。
 けれど中心の木目は、白布に浮かんだものとよく似ていた。

 イロハの胸の面箱が、強く熱を持つ。

「そこから、材を取った」

 ロウセツは言った。

「皇女の未在面のために」

 サヨは切り株を見つめた。

「わたしの面になるはずだった木」

「そうだ」

 ロウセツは認めた。

「いや、正確には、あなたの面になるかもしれなかった木だ。まだ形はなかった。顔もなかった。役名もなかった。ただ、既存の型では駄目だとわかっていた」

 彼は苦く笑った。

「だから、俺は馬鹿なことを考えた」

「馬鹿なこと?」

 イロハが問う。

「既存の役を写すんじゃなく、まだ存在しない役を作ろうとした」

 その言葉に、空気がわずかに震えた気がした。

 無面原の木々が、聞いている。

 まだ役になっていない木々が、ロウセツの罪の名を聞いている。

「普通の面師は、役を写す」

 ロウセツは言う。

「家の根を写す。職の形を写す。神前に立つ姿を写す。戦う時の覚悟を写す。死者を送る道を写す。何かがすでにあって、それを面に移す」

 彼は、白い木々を見渡した。

「だが、未在面は違う。写すものがない。なら、呼び出すしかない。まだない役を、木の中から起こすしかない」

 イロハは、自分の喉が渇いていくのを感じた。

 まだない役を呼び出す。

 それは、第7話でウズメの舞殿で見たものに似ている。

 サヨが稽古板の端で踏み出した一歩。
 ユラが白札の外側で鳴らした、かすれた鈴。
 まだ役名にはならない動き。
 舞われることで、初めて世界に残るもの。

 けれど、ロウセツが語っているのは、舞ではない。

 面だ。

 誰かの顔へ、役を彫る行為。

 それは、もっと危うい。

「師匠は」

 イロハは言った。

「サヨ様に、役を作ろうとしたんですか」

「作るつもりだった」

 ロウセツは答える。

「だが、作れなかった」

 サヨが、静かに問う。

「なぜですか」

 ロウセツの目が、少しだけ暗くなる。

「あなたが、まだその役を選んでいなかったからです」

 敬語だった。

 ロウセツがサヨへ、初めてはっきりと敬意をこめた声で言った。

「俺には、見えなかった。王朝が望む皇女の役は見えた。白影宮が守りたい皇女の役も、仮面籍庁が定めたがる皇女の役も、天帝宮が都合よく置きたい皇女の役も、いくらでも見えた」

 彼は、唇を歪めた。

「だが、あなた自身が何者として立つのか。それが見えなかった」

 サヨは何も言わない。

「だから、彫れば押しつけになる。だが、彫らなければ、あなたは面を持てない」

 ロウセツは自嘲するように息を吐いた。

「そこで止まった」

 イロハは、白い木を見た。

 止まった面。

 作れなかった面。

 その未完成の材が、やがて自分の面に関わる。

 まだ語られていない次の部分が、もう近くまで来ている。

 けれど、今はサヨが先だった。

 サヨは、長い沈黙のあとに言った。

「わたしは、ずっと面がないのだと思っていました」

 風が、白い木々の間を抜ける。

「誰かが失くしたのだと思ったこともあります。誰かが隠したのだと思ったこともあります。わたしに面を与えないことで、白影宮に閉じ込めているのだと思ったこともあります」

 彼女は、切り株を見つめる。

「けれど、ここに来て、少しわかりました」

 イロハはサヨを見る。

 サヨの横顔は、悲しげではあった。

 けれど、折れてはいなかった。

「わたしの面は、誰かが失くしたものではなかったのですね」

「はい」

 イロハが思わず答えていた。

 サヨは、かすかに頷く。

「まだ、誰も彫れなかった」

 その声には、痛みがあった。

 でも、ほんの少しだけ、救いもあった。

 失われたのではない。
 盗まれたのでもない。
 存在しないと決められたのでもない。

 まだ、誰も彫れなかった。

 なら、これから彫られる可能性がある。

 ただし、誰かが勝手に彫ってよいわけではない。

 イロハは、それを強く感じた。

 ロウセツも、同じことを思ったのかもしれない。

 彼は低く言った。

「だから、お前には言ったはずだ」

「何をですか」

 イロハが問う。

「皇女の面は、直す面じゃねえ。作る面だ」

 イロハは、白影宮での夜を思い出す。

 空の面箱。
 箱の中の満月。
 まだ彫られていない輪郭。
 そして、自分の《ナギノオモテ》に似た気配。

 あの時、自分は気づいた。

 サヨの面は、なくなった面ではない。
 まだこの国に作られていない面だ、と。

 けれど今、もう一つ知った。

 作るということは、ただ彫ることではない。

 本人がまだ選んでいない役を、こちらが先に置いてしまう危険と隣り合わせなのだ。

 サヨは、ロウセツへ静かに尋ねる。

「あなたは、わたしの役を作ろうとして、止まったのですね」

「ああ」

「そのことを、わたしは怒るべきなのでしょうか」

 ロウセツは答えに詰まった。

 アヤメが小さく息を呑む。

 サヨは続ける。

「面がなかったことで、わたしは多くの場所に立てませんでした。公式の祭礼にも出られず、役名も保留されました。わたしの役を覚えている人は、ほとんどいません」

 その声は穏やかだった。

 だからこそ、重かった。

「けれど、もしあなたがあの時、わたしの知らない役を彫っていたなら」

 サヨは、白い木を見上げた。

「わたしは今、自分の一歩を探すこともできなかったのかもしれません」

 イロハは息を止めた。

 第7話の舞殿。

 サヨが踏み出した、舞でも神楽でもない、ただ前へ出る一歩。

 あれは、まだ面がなかったからこそ、誰にも定められずに残っていた一歩だったのかもしれない。

 面がないことは、痛みだった。

 でも、同時に、まだ選べる余白でもあった。

 サヨは怒らなかった。

 許したわけでもない。

 ただ、受け止めた。

 自分が「この国に存在しない役」として扱われていたことを。
 そして、それが「まだない役」として残されていた可能性を。

 ロウセツは、何も言えずに立っていた。

 イロハは、その横顔を見つめる。

 彼はサヨの面を彫れなかった。

 彫らなかった。

 それは、罪だったのか。
 救いだったのか。
 臆病だったのか。
 誠実だったのか。

 答えは、まだ出ない。

 だが、第9話の本当の痛みは、ここから先にあるのだと、イロハはわかっていた。

 ロウセツは、ゆっくりと切り株の前に膝をついた。

 その手が、乾いた白い木目をなぞる。

「この材は、ここで終わるはずだった」

 彼は言った。

「皇女の未在面としては、彫れなかった。だから、封じておくはずだった」

 イロハの胸の面箱が、強く熱を帯びた。

 サヨが、その熱に気づく。

 アヤメも。

 ロウセツは、目を閉じる。

「だが、終わらなかった」

 イロハは、無意識に一歩下がった。

「どういう、意味ですか」

 ロウセツは立ち上がる。

 その目には、もう逃げる色はなかった。

 あるのは、後悔だけだった。

「次は、お前の話だ」

 白い木々の間を、風が抜けた。

 面になる前のものたちが、静かにその言葉を聞いていた。